3/3 映画「不安の正体~精神障害者グループホームと地域」上映会後、パネルディスカッションを実施。その報告(一部抜粋)③

前回↓の続きです。


<議論④>「行政側の役割とは?」

シンポジウムの様子

<司会・間庭さん>

これまでの議論を踏まえて、<行政側>はどうあるべきか?行政の役割とは何かについては?

<池原弁護士>

日本は、オリンピックも開催し、万博も開催するような世界に開かれた文明国。

国際社会の中で「障害のある方を差別してはいけない」「多様性を認める」など、国際社会の目指す方向は決まっている。よって、行政はその立場から進めていくべきであろう。

行政側の関わり方については、映画の中で、<障害者差別解消法では、地元の地域住民へ対し説明会を開催する義務はない>ことを説明しているが、どちらかというと行政側は「説明会をしないと、住民側の理解を得られず、大変なことになる」という微妙な立場であることが多い。

しかしながら、今までの経験上、説明会をやればやるほど、地元住民の反対派の運動が非常に盛り上がる、というのはよくあること。

施設建設反対!という反対派の住民の多くは、「障害者に接した経験」を持っていない。

想像力のベースも乏しいため、行政側の住民説明会で、納得して帰っていくことは、ほぼない。

障害者の為の施設の建設・運営ができた自治体、できなかった自治体の違いは、無責任体質な行政では無理で、「ここに施設を作るんだ」という区行政側の明確な方針がぶれない!ということが非常に大切である。

「反対運動があれば、施設建設をやめるということではない」という明確な方針をしっかり共有する。

また、住民への啓発・啓蒙活動は、自治体が担うべきで、しっかりやらなければならないということを再認識する必要がある。

<そのほか、パネリストから出された意見の要約>

障害者の為の施設建設に反対する地域住民に対して、行政側が「申し訳ない」と表明することにも、留意すべき点があるのではないか。

行政側が地域住民に対し「ここに障害者の為の施設を作ることになってしまい、申し訳ない」と感じるいうことは、地域社会全体が「健常者のみで構成されている」という誤った前提があるように思う

自分の子供はこれから小学校へ上がるが、健常者だけで構成された学校に入れる方が、逆に不自然で怖いと感じる。

もし学校で、障害者と接する機会があれば、人間社会そのものを学ぶよい機会となり、自分とは異なる方々の精神的、道徳的、経済的な面にも、想像力や思いを馳せられるような内面的成長が期待できるかもしれない。

多様性の尊重を体験として、子供のころから身に着けられるようにすべきではないか?

学問的な知識だけ詰め込まれる教育を受けた人より、社会にはいろいろな人がいるんだな、自分とは違う考えをする人もいるんだなと体感した方が、これからますます進むグローバル社会の中で、多様な社会の中で活躍できる人財に育っていくのではないかと思う。会社を経営してみて、痛切にそう感じる。

インクルーシブ教育で、どの企業側も切実に危機感を抱いている<人手不足>問題にも、貢献できるかもしれない。

何をもって「インクルーシブにする」のかという視点も、大事な要素。

障害を持っている子供以外にも、子供はみんな多様であるはずである。

特別支援教育は、個別に一人一人に合わせた教育が行われており、比較的手厚い。しかし、健常者が通う普通学級は、人数が多いこともあり、全ての子供に対して、先生方の教育は、画一的になりがちである。

決められたカリキュラムの中で、逸脱しないように授業が組まれているが、子供たちを一人一人細かく見れば、子ども達の学び方、得意・不得意、理解度などは、まさに多種多様であり、それは障害特性に似ている部分がある

ひとりひとりバラバラな歩みの中で、勉強や学習以外の関係性についてや、<生きる>ことの意味が感じられ、命が生かされていくような教育の仕組みが必要だと思う。

これからますます進む少子化の中で、学校では、1クラスの人数、学年のクラス数も変わってくる。

障害者だけでなく、一人一人の生きる力を育てる取り組みを進め、様々な課題を解決していけることが必要ではないか。

社会福祉士や精神保健福祉士など、福祉の専門職は、各施設・各分野ごとに、専門性を特化し、閉鎖的になっていく傾向が見られる。本来、包括的でジェネラルな視点を持つはずの専門職が、どんどん自分の専門領域だけになりがち。

福祉の専門職も、視野を広げ、意識改革をする必要があると思う。

<続きます>

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