前回↓の続きとなります。
<議論③>「障がいに対する地域間の問題、世代的な要素をどう考えるか?」
<司会・間庭さん>
各年代の世代的な要素、障害に対する地域間の問題もあると思うが・・・
<池原弁護士>
弁護士の立場から、また、法律制度の観点から見れば、分離教育(健常者と障害者をごちゃ混ぜにせず、棲み分けを行って、別々に分けて教育すること。具体的には特別支援学級などがある)がある以上、日本の教育制度の中では、子供のころから、障害のある子どもと接する機会は、皆無に近いと言ってよいのではないか?
もっと言うと、障害を持つ子供たちが通う特別支援学校、そして障害のある方々が通う就労支援施設などは、駅から遠い郊外、または、交通の不便な場所など、健常者がなかなか目につきにくい、見えにくい場所にひっそりとあったりする。
つまり、法律や制度が、障害者を分け隔ててしまっている側面は、否定できない。
よって、双方間の理解が進んでいないという面は、確かにある。
子供時代から、障害のある子どもたちと一緒に遊んだり、学んだりとという経験がない中で、大人になって急に「障害者の理解」と言われても、実際問題、難しいのではないか?
<立教大学コミュニティ福祉研究所 研究員・丸山晃先生>
普段、福祉を学ぶ大学生と接していて、感じることをいくつか述べたい。
福祉を学ぶ大学生でさえ、その半数以上は、今までの人生の中で、障害を持った方と接した機会がないと答える。
家庭の中に、障害を持った方がいれば、日常的に「障害」に触れ、目にすることになるが、そうでないと、なかなか接触すらする機会がないというのが実情ではなかろうか?
しかし、一昔前に比べると、車いすに乗った方々などとの接点も増えてきているように感じるし、実際、障害者全般に接する機会は増えてきていると思う。
次に、障害に対する地域間の問題についても触れたい。
兵庫県の、とある地域では、普通学級の中に知的障害者が、クラスの中に普通にいた。しかし、千葉県のある地域では、それが見られないなど、障害に対する<地域間の格差>は、確かにあると思う。
一方、教育現場を俯瞰的にみると、「知的障害者だけ」などのクラス編成については、いわゆる<スティグマ>的なイメージが付きやすく、生徒間の間で、障害に対するマイナスイメージ、ネガティブなイメージが付いてしまいがちな傾向はみられた。
世の中には、障害がある・ないに関わらず、いろいろな子どもたちがいるのだから、<ごちゃまぜ>でいいと思うし、それが多様性の尊重に繋がるし、子供たち自身の、主体性の確立にも役立つ。
だが、実際のところは、そうなっていない。
<坂間正章さん(社会福祉士・訪問介護事業所管理者)>
自分の子どもは、精神障害者。その立場から言うと、例えば、統合失調症と言ってもそれぞれで、様々なタイプがある。もちろん、一人一人違う。
しかし、それすら、世間一般では、あまり知られていない。
先ほど議論された、健常者と障碍者を分ける<分離教育>にしても、制度自体が<縦割り>なので、当事者の立場からすれば、制度に当てはまる所がないとなると、そもそも受け入れてくれる施設を見つけること、探すことすら困難。
自分の子ども達が、成長につれて、健常者と障碍者の中間地点というか、グレーな所から、徐々に障害者の部分に入っていく中、医療も福祉に助けを求めても、制度自体が縦割りなので、「適用外!」「対象外!」と言われ続けた。
結果、<制度の狭間>に陥ってしまい、やるせなさを感じることが多かった。
障害を持つ本人はもちろん、家族もただでさえ、大変な時期なのに、必死になって、様々な支援機関をあたり、ありとあらゆる情報を繋ぎ合わせて、何とか支援に繋げていく・・・が、徒労に終わることもしばしば。
また、家族自体が、家族の中に障害者がいるという事で、地域の人々、世間から冷たくされる、変な目で見られる、あの家とは関わりたくない!と、されてしまうこともしばしばあるのが実態。
<柳智啓さん(江東区民・会社経営)>
インクルーシブという言葉がある。「すべてを包括する、包みこむ」ことを意味する言葉です。
障がいの有無や性別、性的嗜好、人種など、私たちには同じ人間であっても様々な違いがあります。
このような違いを認め合い、すべての人がお互いの人権と尊厳を尊重し合いながら生きていく社会をインクルーシブ社会といいます。 共生社会と呼ばれることもあります。
しかしながら、インクルーシブを急に進めることは難しい。支援の延長にあるべきだと思う。
<続きます>