先人たちの生き方、考え方から「人生を満足して終える方法や考え方」を学ぶ
被災地で見た「弔いの原点」
人間の死亡率は100%。
死は他人事ではなく、誰にでも平等に訪れる。
誰しも、死なない人はいない。
お金を持っている人も持っていない人も、頭のいい人もそうでない人も、有名な人も無名な人も、誰もが必ず直面すること・・・それが「死」だ。
2011年3月10日までの筆者は、そう頭では理解していた。
だが、翌日に発生した大震災は、私の死生観を根底から覆すのに充分であった。
粉雪が舞う季節だった。それは忘れもしない2011年3月下旬のこと。
私は宮城県石巻市の遺体安置所に入った。
大切な友人を私は津波で喪った。
その親友に会いたい一心で、私は東京から石巻の遺体安置所に向かった。
初めて安置所に足を踏み入れた時の光景を、私は一生忘れることはないだろう。
おびただしい数のご遺体が、規則正しく床に並べられ、剥き出しの足の裏が私の目に飛び込んできたのである。
当時はまだ柩も充分に届いておらず、遺体の数が多すぎて、毛布やブルーシートで包まれたままの状態であった。
中には、子どもと思われるご遺体だろうか?
大人が両手で抱き抱えられるくらい大きさで、ブルーシートに包まれたご遺体もあった。
ご遺体の上には、白い手書きの紙が一枚、貼り付けられていて紙には「○月○日○時○分、○○地区で発見、○才くらい・焼死体」と遺体を発見した自衛隊の方が書かれたのだろうか、そのような文字が手書きで書かれていた。
その脇を遺族が懸命に自分の親族を探し求めている。
時々、「お父さん」「お母さん」と言いながら泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
この世の地獄とも言える光景が、今、私の目の前に広がっていたのである。
私はただ言葉を失い、友人を探す気にもなれず、呆然とただその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
ブルーシートで覆われ、顔は見えないとはいえ、まだ小さな赤ちゃんが私の足元に横たわっていた。
何とも言えない感情が込み上げて来て、声が詰まり、涙がとめどなく溢れた。
私はそれらの紙を一枚一枚確認しながら、友人の遺体を探した。
友人Aの遺体を発見。
遺体はまだ運び込まれたばかりで、警察官の話によると遺体は恐怖のあまり「目を見開いた状態」のまま亡くなっている方が多いと言う。
何とも言えない気持ちになり、私は言葉を失う。「これが人が死ぬということか・・・」
しばらくすると、僧衣を来ている私の元に、「すみませんが、お坊さん、亡くなった私の子どもの為に、お経を読んでくれませんか?」とブルーシートに包まれた赤ちゃんのご遺体を抱き抱えた30代くらいの女性が声をかけてきた。
僧侶姿の私は、その場にいた警察の了解を取った上で読経を始める。
お線香に火をつけ、花を手向け、遺体に手を合わせた。
近くにいた数人の遺族が手を合わせ、静かに合掌している姿が見えた。
すると女性は感謝の言葉を述べた上で、自分の子どもに向かってこう語りかけたのである。
「ほら、お坊さんがお経を読んでくれたよ。安らかに眠ってね。ママにしてくれて、本当にありがとう。ありがとう」
そう言い、泣き崩れたのである。
そこには作法に則った宗教儀式も、生花も戒名も遺影写真もお位牌も何もなかった。
しかし、私の読経中、傍にいた警察・消防・自衛隊員は皆、帽子やヘルメットを取って整列し、敬礼し合掌していた。
そして、その若い母親の姿を見つめるまなざしは皆、優しかった。
津波発生直後から、生存者の救出活動、ご遺体の捜索・検視(死)・収容など、厳しい死の現実を見ながら、過酷な状況の中で必死に死と向き合ってきた彼らだからこそ、その若い女性の痛みが分かったのだろう。
人が死ぬという無念さや恐怖を知っている彼らだからこそ、何も言わず、ただ敬礼し、合掌してくれたのだろう。
死の現場の最前線にいる彼らと死者の距離は近かった。
だからこそ、死者へ礼を尽くしたのだろう。
その姿は美しく、気高かった。
その女性と後日、仮設住宅内で改めて会って話を聞く機会があった。
「私は死ぬまで、子どもの供養をし続けます。亡くなった子どもの死を無駄にしないためにも、私が子どもの分まで精一杯生きようと思います。いのちの儚さと大切さを知った私だからこそ、死を無駄にしない様な生き方がしたいんです」と、私に涙を流しながら語ってくれた。
私たちは自らの子供に向かって「父親(母親)してくれてありがとう」と心から感謝の言葉をかける事が出来るだろうか?
親の義務として「子供を育ててあげる」ではなく、子育てを「させていただく」機会を通じて、自分自身の人間としての成長を感じることが出来ているだろうか?
また別の遺体安置所に行った時に「申し訳ないのですが、読経をお願いできませんか?私の幼馴染が亡くなったのです。40年近く一緒に過ごした親友なんです」と僧衣姿の私に話しかけてきたのは、地元の警察官と思われる方であった。
私はその場で短い読経を行い、手を合わせ、そして深々と頭を下げた。
そして東京から葬儀社の協力を得て大量に持参した柩に、ご遺体を丁重に納棺し、その場にいた大勢の弔問者と共に祈りを捧げた。
そして、柩の蓋を閉じる瞬間、その警察官は故人に向かって親友の下の名前を叫びながら「また会おうな」と大声で叫んだのである。
その瞬間、私は「また会おう」という本当の意味がよく理解できなかった。
しかし、何故か熱いものが胸に込み上げて来て、涙がポロポロと私の目からこぼれ落ちた。
何故、あの時、私は泣いてしまったのだろうか?
後になって考えると、「また会おう」というその言葉に、力強い覚悟のようなものを感じたからだと今は思う。
「お前が津波で死んで、俺は生き残ってしまった。俺もいつかは、必ずお迎えが来る。その時は、またあの世で一緒に楽しく酒でも飲んで一緒に過ごそうな。でも俺は生きている限り、この街を復興させるために全身全霊を尽くすよ。あの世から、俺を見守っていてくれ。お前と出会えて、俺は幸せだったよ。良かったよ。楽しかったよ。お前の分まで、俺がしっかりと生きるから。お前の死を無駄にしないから。限りあるいのちを、俺はしっかりと生き抜くから。絶対に無駄にしないから」そういう覚悟と決意を私は感じたのだ。
だから胸が一杯になったのだろう。
その警察官が信仰を持っているのかどうかは、今となっては分からない。
しかし、深々と頭を下げ、手を合わせ、祈りを捧げる警察官の姿に、私は何か尊いものを感じずにはいられなかった。
「自分だけが生き残ってしまった」という自責の念も抱えつつ、突然訪れた死別という悲しみにしっかり向き合おうと合掌し、祈りを捧げるその姿は気高く美しかった。
読経後、数人の遺族が話かけてきた。
祖母を亡くした、父を亡くした、弟を亡くした、我が子を亡くしたなどなど、それぞれのかけがえのない人生がそこにあったことを聞かせていただく。
マスコミ報道では、被害の大きさを物語るために、死者2万人という数字だけが独り歩きしがちである。
しかし、かけがえのない人生を歩んだひとりの人間が2万人亡くなったと解釈すべきだ。
私が遺体安置所で出会ったひとりひとりには、まぎれもなく、かけがえのない人生がそこに存在したのだから。
と同時に、震災で何もかも失った方のお話を聞いていると「人の傷み」とは、本質的な意味において、他者には到底分りえないものという気がしてならない自分がいた。
真っ暗な闇の中、1人1人の絶望という感情と丁寧に向き合っていくことを通じて「祈り」が生まれる。
無力な私は、共に手を合わせ、亡き人を偲ぶことしか出来ずにいた。
しかし、祈りを捧げるしか出来ることはないとも同時に思った。
家や家族、そして仕事まで失った方に対して本当に意味で「寄り添う」というのならば、「頑張って」という励ましよりも、共に言葉を失い、途方に暮れ、無力感に打ちひしがれるしかないのではないだろうか?
私自身が新潟県中越地震で被災した時、黙って話を聞いてくれる人の存在が一番ありがたかったから、そう思うのだ。
後日、私は石巻市内で瓦礫の撤去作業を行った。
瓦礫を撤去していると、人間の腕と思われるものが見つかった。
周囲を見渡すと、自衛隊の方、消防、地元住民の方々など約10名程が瓦礫の撤去を行っていた。
私はありったけの声を出し、周囲に協力を求めた。
そして約2時間後、重機を使って中年の男性と思われるご遺体を、瓦礫の中から引きあげた。
遺体はもう人間の姿の原形をとどめてはいない。
まずは遺体を毛布でくるみ、行政が指定する遺体安置所へ自衛隊の方の力を借りて搬送する。
その時だった。
そのご遺体を囲むように、その場にいた誰しもがごく自然に輪になり、合掌し、深々と頭を下げたのである。
誰しもが無言であったが、これから自衛隊の車にご遺体を搬送する際、自衛隊のリーダー格の方が一言、「瓦礫に埋もれていて、重かったでしょう。苦しかったでしょう。長い間、本当にお疲れ様でした」と、ご遺体に向かって語りかけたのである。
「お経を読んでよ」と仲間が言う。
私が読経をはじめると、抑えきれない感情を爆発させたのだろうか?
誰かが嗚咽して泣いた。
しばらくすると、自衛隊の方々はご遺体に一斉に敬礼をして、丁寧に車へ運んだ。
その姿を残された私たちは見つめ、車が見えなくなるまで見送った。
だが、その場に残された誰ひとりとして、そこから離れる人はいなかった。
自衛隊が遺体を乗せた車が見えなくなるまで、ある人は合掌し、ある人は深々と頭を下げていた。
そこには死者に対しての敬いがあった。
しかも翌日、同じ場所を訪れると、ご遺体が発見された地点には花が供えられていた。
私たち日本人の多くは自らを「無宗教」と呼ぶ。
しかし、本当に「無宗教」なのだろうか?
本当に無宗教であるあらば、亡くなった人い語りかけたりするだろうか?
特定の信仰を持っている、帰依していると自負している人は少ないのかもしれない。
だが、宗教心や宗教的感性は、誰しもが潜在的に持ち合せているのではないか。
瓦礫の中から発見された遺体を見て、その場にいた誰しもが作業を一時中断し、皆で自然に手を合わせる姿を目の当たりにして、私はまさにこれこそ弔いの原点であり、宗教行為の原点であると思わずにはいられなかった。
多くの日本人が自らを無宗教と呼ぶことに疑いを持った瞬間でもあった。
人は痛みを感じると、祈らずにはいられない。
その後も、被災地の至る所で、私は自衛隊の方や一般市民の多くが合掌し、故人に花を手向け、祈りを捧げている姿を目撃することになる。
それは紛れもなく宗教行為であろう。
だが、特定の宗教団体に属していないというだけなのだ。
人間は痛みや悲しみ、そして自らの無力さを痛感した時、初めて頭が下がり、手を合わせ祈りを捧げるという行為に及ぶのだと感じた瞬間でもあった。
また、被災地で人によっては「瓦礫」に見えるものも、人によっては「我が家」でもある。
瓦礫を指さし「これは私の家なんです。瓦礫ではありません。ここに○○年、私は住んでいました」と言った知人の言葉が今でも頭から離れない。
圧倒的な自然の力の前で、人間は無力だ、人生はなんて儚いのか、人間は必ずいつか死ぬ。
そういった、「当たり前の事実」に否応なしに向き合わざるを得ない時、自己の力を超えた世界に触れる時、祈りを捧げるという行為が自然と生まれるということを、私は体験として学んだのである。
2011年3月下旬当時は、遺体の数が多すぎて、火葬が間に合わず、私の友人も一時的に市が用意した土地に土葬されることになった。
花を手向け、皆で手を合わせた。
私のすぐ隣では、ご遺族が亡き人に向かって「また会おうね」と言って泣きながら花を手向けている姿が目に飛び込んできた。
毛布やビニールシートにくるまれ、満足な葬儀もあげてやることが出来ない悲しみをこらえつつ、「私もいつか死んでいく。その時まで、しっかり生きるから、私達を見守っていてね!」と、生き残ってしまった者の覚悟を感じた瞬間でもあった。
生きている間から「また会おうね」と言い合える関係をいかに構築できるか?
死んでからでは遅いのだ。
それが私に今、この場に立ち会った者としての責任のような気がした。
そしてその隣では「かあちゃん、ごめんな」そう言って泣いている私とほぼ同世代の男性がいる。
「こんなことになるんだったら、もっと親孝行しとけばよかった」そう言ったその男性の手には、菊の花がしっかりと握られていた。
私の僧衣を発見するや否「母にお経をあげてくれませんか」と依頼してきた。
その場にいた誰もが手を合わせて、皆で祈った。
さらにその隣では「代われるものなら、代わってあげたかった」と我が子を亡くした親であろう遺族が声を押し殺して泣いていた。
その言葉が私の胸に突き刺さる。
この悲しみを私は一生背負って、これから生きていかないといけないと覚悟を決めた瞬間でもあった。
土葬の儀式が終了後、家を無くし、家族を津波で流され、目の前で人が流されていく姿を目撃した方の話を聞いた。
「はじめて、この世に産まれてきた意味を考えた」と彼は言う。
「亡くなった人の分まで俺が生きなけりゃいけないというのは分かる。でも今は何もやる気がしない。ただ悲しくて悲しくて・・・」
私たちは何のために、何をするために、こんな時代に産まれてきたんだろう?
何故、大切な人がある日突然、死んでしまうんだろう。
生まれてきた意味と役割は、一体何なんだろう?
そんなことを自問自答せずにはいられなかった。
被災地の避難所で出会った方が言っていたことが忘れられない。
「私は子どもを喪いました。家も流されました。これからどうやって生きていこうか・・・途方に暮れています。でも、絶望の中でもね、おなかがすくんですよ。おにぎりがこんなに美味しいなんて気がつかなかった」
人はいつか死ぬ。そんなことは分かっている。
しかし、あまりにも理不尽な死ではないか?
このやり場のない悲しみとどう折り合いをつけて行けばいいのか?
被災地でおびただしい数の遺体と向き合って感じることは「想像力」を持つことではないだろうかとも思う。
何千人、何万人が亡くなった・・・という数字の背景には、ひとりひとり人生があり、悲しみがある。
そのかけがえのない人生に思いを巡らせること。
自分だったらどうしただろうか・・・個人的に、そのことがとても大事なような感じがしている。
何も出来ないという無力感、死にたくないと思っていても人は必ず死ぬという理不尽さに人は落ち込み、無力感に陥る。やり場のない怒りが込み上げてくる。
私は今まで自殺や貧困、孤立死の問題に取り組んできた。
様々な方と関わる中で、ひどく落ち込むこともあった。
もう嫌になって活動を辞めようかと思うこともあった。
何か行動を起こすということは、他者と繋がれるという喜びと同時に、苦痛も同時に生み出す。
それは震災ボランティアでも同じである。
しかも東京でのやり方を、そのまま被災地に押しつけてもうまくはいかない。
被災地には被災地の想いと遣り方がある。
被災地の方々が自らの力で立ち上げれるように、こちらは後方支援活動に徹し、被災地の方々の力を信じて待つこと以外、今の私には何もできない様な気もしている。
そして「自分は正しい、良いことをしている」という私の中にもある視点を現地に行ってもう一度、見つめなおしている。
そういった「善意の壁」が人と人を対峙させることもあるから。
私もあなたも、時に間違いを犯すし、完璧な人ではない。
弱さもずるさも併せ持つ人間同士。
そういう視点を忘れないようにしたい。
「他人の足を踏んだ人は足を踏んだことすら忘れてしまうが、踏まれた人はそのことを決して忘れない」という言葉がある。
ハンセン病問題にかかわる仲間から教えてもらった言葉である。
だからこそ、自分自身を見つめ、他者のいのちに想いを馳せる「祈る」という行為を通じて、悲しみを生きる力に変えていけたらと願わずにいられない。
古代ローマの政治家ユリウス・カエサルは「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」と言った。
大震災では数万人規模の死者とその数倍の遺族が存在する。
目を背けたくなるような悲しいニュースが毎日のように流れている。
亡くなって逝かれた方々の死を無駄にしないためにも、私たちは今という現実から目を背けてはならない。
人間の生と死を直視する勇気を持たなくてはならない。私たちは今、そんな正念場を迎えているのではないか?