いのちのバトンタッチ~被災地で見た、弔いの原点~

2011年3月下旬のこと。

仲間の寺院からの依頼で、東北の被災地の火葬場へ読経ボランティアに駆けつけた時のことを以下、述べてみたい。

次から次へと運ばれてくるご遺体を火葬するために、僧侶の私が火葬場で待機し、釜の前で読経するのが私の役割だった。

その中でも特に忘れがたいのが、小学生の男の子のお弔いのことである。

参列者の多くは、津波で何もかも流されているので、当然ながら喪服も何もなく、普段着のまま。

場合によっては、柩に入れるお花さえ充分にない場合も多々あった。

しかし、誰しもが亡くなった方々の死を悼み、弔いたいと願っていた。

都会の葬儀によくあるような、「お付き合い」で参列しているケースは皆無であった。

当時の私の日記には以下のように綴っている。

火葬場の職員までもが涙ぐんでいた。その場にいた誰もがこみ上げてくるものを我慢できずにいた。

あまりにも理不尽な死に対して、誰もが言葉を失っていた。

これからいよいよ小さな棺が釜に入れられ、荼毘にふされようとした瞬間であった。

その場にいた全員で柩を再度開き、最期のお別れを行う。

私の読経が終わり、柩の蓋が閉められ、いよいよ火葬されるというその時。

子供の母親が「もう一回、柩の蓋をあけて」と言いだしたのだ。

誰もがその声に圧倒され、何も言えず立ち尽くしていると、母親は柩の蓋を無理やりあけ、我が子に向かってこう叫んだのだ。

「こんな所で何やっているのよ。起きなさいよ。学校に行く時間でしょう」

そう言い終わると、柩にすがりつき、泣き崩れてしまったのだ。

親族の方が駆けつけると「触らないでー」と、ものすごい目つきで睨み返す母親に対して、その場にいた誰もが何も言えず、ただ愕然と立ち尽くすことしか出来なかった。

誰しもが言葉を失い、ただただ状況を見守ることしか出来なかった。

それからどのくらい時間が流れたのか、今となっては分からない。

火葬場の職員の度重なる呼び掛けにようやく観念したのか、その母親はやっと柩から離れ、放心状態のまま、親族に抱かれるように倒れこんでしまった。

その後、火葬場の控え室へ向かう人たちは皆一様に無言だった。

あまりにも若すぎる理不尽な「死」に対して、やり場のない悲しみに打ちのめされているように感じた。

火葬場の控室で、お孫さんの成長を楽しみにしていたであろう親族の初老の男性が呟いた「人生とは何て不公平なんだろう」そう苦しそうに呟いた言葉が忘れがたい。

私もこの想いを一生背負って生きていかなければという気持ちになった。

そして震災か約半年が過ぎたころ。

私がお見舞いのお手紙を出したところ、なんと仮設住宅に住むその母親から返事が来たのだ。手紙にはこう書いてあった。

「毎日、息子の遺骨に向かって話しかけています。息子の死は、私に深い傷を残しました。今もまだ、心にぽっかりと穴が開いたようで、何だか苦しくて仕方が無いのです。この痛みは、一生、消えることはないでしょう。他の家の子供をみると、正直、腹立たしい気持ちになります。何が悲しいって、子供と一緒に過ごした時間まで、何もかもが奪われてしまったことが何よりも悲しい」

そう書かれてあった。しかし最後には力強い字で

「どうか、息子の死を忘れないでください。息子の分まで、あなたが精一杯生きてあげて下さい。そして人の痛みの分かる人になって下さいね。いのちを粗末にしないでくださいね。最近やっと、息子の分まで精一杯生きていきたいと思えるようになりました。残念だけど、人は皆、遅かれ早かれ、いつか確実に死んでしまう。でもね、息子の死を無駄にしないためにも、死ぬ間際に「いい人生だったよ。みなさん、ありがとう」って言ってこの世を去ることが出来たらいいなって今は思っています。そんな生き方がしないなぁって。

息子だけでなく、今回の津波でたくさんの人が死んでしまったけど、亡くなって逝かれた方々の分まで残された私たちが精一杯生きないと、何のために<生かされた>のか分からないでしょう。息子は今でも、私の記憶の中で生き続けています」そう書かれてあった。


その手紙から「限りあるいのちを、精一杯生き抜いて欲しい」という「願い」を私は感じるのだ。

映画「おくりびと」の原作者で作家の青木新門さんは、亡くなって逝かれた方々から、残される私たちへ「いのちのバトンタッチ」の必要性を説いているが、まさに被災地ではそんな「バトンタッチ」が多々あったのである。

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