葬儀社やお寺のイメージ

お寺や葬儀社と聞けば、どのようなイメージを持たれるだろうか?多くの現代人は良いイメージを持ってはいないだろう。出来れば「関わりたくない」と考える人も多いだろう。

若い世代では、お寺や葬儀社と接点を持ったことすらないという人が大半ではなかろうか?

僧侶派遣会社や葬儀社が菩提寺のない家庭に僧侶を派遣した際、施主側から受け取るお布施の一部をバックマージンとして隠した上、数億円単位の脱税を行うという事件も新聞に大きく掲載されている。

全てのお寺や葬儀社が悪徳というつもりはない。良心的なお寺や葬儀社もたくさん存在する。しかし、お寺や葬儀社の常識は、世間の非常識であると言わざるを得ないだろう。

筆者は葬儀社勤務を経て、大学院でターミナルケアや宗教学を学び、浄土真宗(真宗大谷派)の僧侶となってからは、仏教を基盤とした病院の緩和ケア病棟(ホスピス)に勤務し、末期がん患者さんを数百名ほどを看取った。

今まで看取った方は800名を超え、生活困窮者を中心に葬儀を行った人は2,500名を超える。

労働者協同組合「結の会(ワーカーズ葬祭&後見サポートセンター)」では、世間の葬儀社の仕事も行いつつ、代表が僧侶でもあるので、葬儀の導師も併せて行うことが可能である。

だから、葬儀社やお寺(僧侶)のイメージについて、今回のブログでは考えてみたい。

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以前(と言っても10年以上前)、葬儀社や石材店、一般の方々を集めて「葬儀社やお寺に対するイメージ」を、本音でガチトークする機会を設けた。以下は、その話し合いの様子(グループ1班)である。

2023年を迎えるにあたり、改めて過去を振り返り、今後の展開を考える意味でも、あえて掲載してみたい。

(事例紹介にあたっては、全て生前、ご本人および遺族からの了解を得ていると同時に、個人を特定できないように、一部加工していることを、予めご理解ください)

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グループ1班の懇談

Z(僧侶)それでは、いま何が問題なのかを、第一にMさんから提示していただき、討論の口火といたしましょう。

M(葬儀社)では問題としてですが、最初特に、お寺さんと壇信徒の関係がどうも上手くいっていないように思います。お布施や供養と言ったことに始まって、お寺への不信感と言いますか、宗教や信仰心との関わり合いが希薄になっている時において「どうあるべきか」ということなのですが。

Z(僧侶)それは僧侶側の問題としてですか?

M(葬儀社)単独の問題ではありませんが、寺院がひとつのコミュニティの中心であるべきだろうと思いますし、寺院を介在とした関係がないうえで、僧侶と葬家との葬儀を介在したうえでの関係だけという。普段のお付き合いなど全くない「葬式仏教」の現実はますます強まって行くような気がしてます

F(葬祭コンサルタント) 葬祭のコンサルタントをしています関係上、お願いと言いますか、こういった業界人がせっかく集まったのですから、葬家を消費者という視点で見てもらいたいと思います。消費者と言う言い方に問題があるとお考えの方もあると思いますが、

100万以上ともいわれる葬儀費用の中で例えばですね「お布施」「返礼品」そういったものに対しての説明がしっかりとなされているかが問題だと思います。一つ一つの支払い項目に意味合いや必要性の説明がされているとは思えません。支払う側が訳も分からずに葬儀が終了している。こう言ったことでなく消費者としての選択ができるようなシステムが必要だと思います。

従来の社会システムの崩壊は目に見えています。そのなかで葬儀を必要としない「火葬」のみの依頼が増えてくるのは当然だと思います。そういうなかで、今私は「専門学校」としての葬儀スクールに関係をしております。

いろいろな批判もありますが、正しい葬儀の在り方と言いますか、今後の葬儀業界への情報の発信の場としてもその必要性と重要性を考えているわけで、また「看取り」などの問題も含めて総合的に考えていかねばならぬと思います。そういった部分が業界には意識されているのかははなはだ疑問なわけで・・・。

Z(僧侶)いい「看取り」というか。「看取り」の部分だけでなく、「自殺」などもそうですがその後の「フォロー」が一番大切になるのですが。

F(葬祭コンサルタント)葬儀社さんの担当者がよく「まごころ」「心のこもった」と言う言い方をしますが、言葉としての意味合いをよく考えていただいて、葬儀・告別・葬祭といった意味合いそのものへの説明をしていただきたいと思います

100万以上といわれる葬儀費用の持つ意味合いがよく理解されなければ、葬儀費用のダウンはあたりまえの話で、最近ホテル業界の参入が言われますが、これも葬儀業界が持つあいまいさが一番の問題ではないでしょうか。

Z(僧侶)それでは葬儀社としてのご意見をKさん。

K(葬儀社)まず今問題なのは伝統といいますか、親から子へと伝わった。あるいは伝えねばいけないことが十分に伝わっていないということです。昔からの「シキタリ」が「シキタリ」でなくなっている。葬儀社として従来のシキタリ、つまり「心」を大事にしてゆかねばならぬと思います。

私個人ですが火葬中の「本膳」など絶対にいたしませんし、ひとつひとつの作法の持つ意味合いを大事にしていきたいわけです。またすべての葬儀社が金銭で動いているわけでないということを、ここで強調しておきたいと思います。

I(葬儀社)Kさんに同感です。やはり「心」が大切と思います。私個人の経験なのですが、菩提寺に法要の相談にうかがっても、誰の法要で個人がどのような人間かも知ろうともせずに話が進んでゆく。このようなこと納得がいきません。こちらとしても見ず知らずの人に「読経・説法」されたのでは・・・。そこに「心」はありませんでしょう。こちらからお断りですよね。

葬儀社としての立場で「心」についてお話しさせていただければ、相手の立場に立ってお話をうかがう、相手のことを考えて送って差し上げる。そこで無駄なものをなくして結果「安い費用での御葬儀」につながると思います。私たち自身が動く分には費用はかかりません。

F(葬祭コンサルタント)問題は「安い葬儀」でなく、「本当の葬儀」とはです。安い費用の葬儀を望む人だけではありません。価値観の問題にもなりますが、費用を第一義としない「葬儀」を必要とする人もいるわけです

Z(僧侶)費用に対する効果。コストですね。そういったことをふまえて何か提案と言ったものは・・・。

I(葬儀社) むだを除外してゆくというのは基本になると思いますが、現場ではいろいろな御葬家よりのご要望があります。それをできる限り受けて差し上げるのも葬儀社の仕事だと思います。

N(僧侶) 寺の立場での葬儀社への要望なんですが、やりすぎに注意をと申し上げたい。

「看取り」の部分から「あきらめ」という「心」のプロセスの重要性をもっと考えて葬儀を進めていただきたいと思う訳です。たとえば死亡診断書を病院へ受け取りに行く。死亡の連絡を行う。こういった一連の流れの中に「死んだことへの自分自身への納得」がなされるわけで、なんでもかでも葬儀社がというのはいかがなものかと思います。

また故人の思いは最大限優先し、なお遺族の思いを汲み取ってもらいたいと思います。寺の場合遺族へのフォローは後でも可能なわけで。。。葬家と葬儀社との間でまず「思いやりの心」をもって故人のことを考えていただきたい。

I(葬儀社)故人の意向と言われてもやはりそこには金銭の問題があります。ご遺族には残されたものとして今後の生活への不安などもありますから、故人の送り出しを通じて、遺族の心のケアと・・・。葬儀社としてまた一担当としてリードといいますか、提案ができるような仕事ぶり。テクニックの問題も含めて勉強してゆかねばいけないと思います。

Z(僧侶)通過儀礼としての問題。グリーフワークということになりますが、そこで僧侶の立場としてHさんいかがですか。

H(僧侶)一般論としては積極的にかかわり合いを持たねばいけないのでしょうが、中には白紙の状態での依頼もあるわけで。意図するとかしないとかでなく自然の状態で人間関係が上手くいかねば、そこに信頼関係は生まれません。畢竟、故人のことを遺族に聞きながら、葬家の家族としての繋がりや力関係をさぐるといったような感じになりますが…。

うちの寺の場合にしても先代からの寺壇関係とかまでは、自分では分からないわけで、少なくとも自分自身関係するところについては事前にレジュメのようなものを作成して同じことを話さぬようにはしておりますけれど。まあ皆さんのおっしゃることも充分理解できますし、寺自身また教団の怠慢がここにきて顕在化したと言えます。ただはっきりしていることは30年後に葬儀が今では考えられないほど変わっているだろうと言うことです。

Z(僧侶)グリーフワークの問題はどうでしょう。

M(葬儀社)まず問題なのが家族間でのコミュニケーション不足です。死後のもめごとが多すぎます。まず延命の問題にしても本人の希望と看取りの場面での家族の見解の相違があります。そこに金銭でも絡めば、それこそ訴訟。裁判沙汰というやつです。

そんな中にお寺が絡むとすれば普段からの大変な準備が必要になりますが、これは「心」を扱うプロとしてお願いしたいわけで。当然アフターケアだけの問題では済みませんが、葬儀社の限界もありましてシステムができていれば、それで上手くいくだろうというような簡単な問題ではありません。

Z(僧侶)紹介の場面ではどうなりますか。

T(僧侶)基本的なところに寺との不信感があるように思います。葬儀社サイドでは寺に対してコンビニ化を望んでいるように思います。そういった中で壇信徒の関係を築き上げるのは、困難を極めます。当然の結果としてお布施の額も少なくなるというわけで・・・。

Z(僧侶)デス・スパイラル。

T(僧侶)欧米化とも・・・。

Z(僧侶)墓地の関係ではどうですか。寺と葬儀社、ご葬家と一緒にはならないでしょうが。

K(石材店)石材屋としてはお寺様と葬儀社様の紹介が一番な訳でして、当然そこにマージンの問題が在ります訳で・・・。もちろん全てがそうとは言いませんし、中にはマージンはいらないのでその分、「葬家にサービスしてください」と言われることもあります。

Z(僧侶)ボランティアということでは。Iさん、

I(NPO)わたしたちはホームレスを中心とした生活困窮者への援助活動を行っております。アパートの紹介やなかには葬儀のお世話まであります。こういった場合ですと役所のほうから約20万程の補助金が出ますが、役所のことで機械的と言うか、少なくとも人間的ではないわけで、この中でどう葬儀を行うかが一つの課題になっています。

I(葬儀社)役所に掛け合うことで20万以上の援助金はでます。外国の方で事実私どもでも実例があります。

Z(僧侶)東京のホームレスの場合でも、そこに警察なり行政の機関が絡んでくるわけです。当然そこに天下りの問題やインサイダー的な業者との癒着が疑われる訳です。

H(葬儀社)ここまでの皆様のお話を整理しながら話をさせて下さい。F先生とIさんのやりとりを楽しく伺いましたが、経験でお話しさせていただくなら女性的な気配りと言いますか当方にもIさんのような担当がおりまして、お金がない家だと言っては通夜ぶるまいの寿司を回転寿司で買ってきたりしてますが、結果あまり感謝されていない。

また私もN先生のご意見に賛成ですが、なるべく遺族に事後の作業をしていただいています。診断書の受取や火葬許可証の申請。1万円程度いただいて自分のほうで済ませば簡単なんですが、こう言った一連の流れの中で故人との生物学的な「死別」ではない、人としての「心」の別れをしていただいていると考えるわけです。このように何もしないことが結果としてサービスになることもあるわけです。

また役所の話がありましたが埼玉県のある市役所では入札といいますか、担当者が何ヵ所かの葬儀社に電話を入れて一番安い葬儀社に依頼を行っています。現在の相場は10万円ちょっとだそうです。またKさんの「本膳」の話ですが、東京で博善の式場では時間と言いますかシステム上、火葬中でなければ出来ないようになってますよね。これは埼玉でも新しい式場では当然の方法になりつつあります。H先生の言われた将来の葬儀の変化はこんな所でも変わりつつあります。

Z(僧侶)東京・埼玉とでましたのでKさん。

K(葬儀社)当社のエリアといたしましては横浜・川崎となりますが、ご存知のように、寺との関係は非常に希薄な地域であります。寺と壇信徒の関係、グリーフケアなど問題外ともいえる訳で・・・。そこの部分を葬儀社が求められるのも地域性かなと思います。そういったなかで子供さんがいても仕事の関係やらで、一人暮らしになってしまった人に対してのフォローですが、これが重要になってきます。

葬儀社の通常のフォローとしては49日・100ケ日1・3周忌という切れ目がありますが、これだけでなく普段からの付き合いも必要になると言う訳です。仕事がありますのでいつでもとは行きませんが、時間の許す限り世間話でもしてくることが、宗教者の問題として先ほどから話題になっていますケア(心)の問題を葬儀社が一部受け持っているのではと考えます。

またお断りしておかなければならないのですが、葬儀社は営利事業体であるということです。何が適正価格なのか?という問題もありますが、経営者としては会社の運営と社員の生活を考えねばならぬと言う現実があります。これは寺の運営も同じと思いますが、こういう基盤の上に立っての社会貢献と言うものを考えればいいのではないかと思っています。

Z(僧侶)都会では寺と信徒の関係が逆転しており、グリーフケアを葬儀社が担っているということですね。

M(葬儀社)Kさんの話の続きになりますが、寺と信徒の関係と言うより、寺の必要性が無くなっているとも言えます。先ほどの葬儀社社員のご葬家訪問ですが、当社では専門の教育を受けたカウンセラーの育成を行っています。これを社員教育の一環として全社員が資格を取得するところまで目標としております。

経験上ですが男性の一人暮らしが特に問題になります。ここの部分をフォローすることで次のビジネスチャンスを狙ってもいるのですが…。サービスとは何かを考える上で、アフターフォローの重要性は今後より増してくるものと思います。

Z(僧侶)これは「自殺」の問題でもそうですが、死後のフォローが一番重要な問題になります。

D(僧侶)現場に行っての話になりますが、葬儀社の紹介での葬儀では「読経」だけでよいと言う事になります。普通でしたら法話などもするのですが、司会者が個人の生前での経歴やエピソードまで含めて総て喋ってしまっているということです。無宗教葬や火葬だけですませる例が増加の傾向にあると聞きますがどのような状況なんでしょうか?

K(葬儀社)無宗教葬といっても一概には言えません。宗教色の全くない場合もありますし、宗教性そのものの欠如も問題です。例えばお寺さんが来られて「読経」があるといえども、BGM 代りと言えます。意味も判らずに聞いているわけですし、俗名の場合など尚更です。ただ「お経」が流れていれば葬式だと…。

W(アメリカ国籍を持つ仏教研究者)アメリカでは神父さんや牧師さんのいない葬儀は考えられない。仏教って?

Z(僧侶)それはタイやスリランカでもアメリカと同じですよ。これは日本だけの特殊な例です。話の中で特殊な業界用語がポンポン出てきて、非常に分かりにくいかもしれないですね。

I(葬儀社)結論めいた話になるかもしれませんが、寺として外に向かって地域交流を図っていただければと思います。現状を考えればお寺が第一の時代では無くなっていると思います。

Z(僧侶)まだまだ皆さんお話になりたい事が沢山あると思いますが、時間の都合でまたの機会にと言うことになります。本日はありがとうございました。

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読んでみて、あなたは何を感じたであろうか?

葬儀社はこの話し合いの中で「心」という表現を使っている。確かに「心」ある対応をして下さる葬儀社は世の中にたくさん存在する。

しかし、この話し合いの中で「心」という表現を使っている葬儀社でも、派遣僧侶を使い、施主側が僧侶に包んだお布施からのバックマージンを施主側に何も説明もせず、僧侶のお布施からピンハネしているのが現状である。

表面上は良心的を装いながら、実態は異なるというケースは、葬儀業界に限らず、どの業界でもありえることだ。相手の無知に付け込んでだまそうとする人は、残念ながら存在する。

しかも、他社との競争に勝つために、予め他社よりも安い格安料金を設定しておくのだ。もちろん、お布施からのバックマージンが入ってくることを前提にしていることは言うまでもない。

私はすべての僧侶・葬儀社が悪いと言うつもりはさらさらない。もちろん、真摯に対応してくださる方々をたくさん知っている。

葬儀に誇りを持って取り組んでいる方々を、私はこの目でたくさん見てきた。しかしながら、お寺と葬儀社はだいたい仲が悪い。お互いに批判ばかり繰り返している。

だが、世間一般から見るとどちらも「同じ穴のむじな」である。お寺も葬儀社も世間受けは非常に悪い。ならば、共に本音で語り合い、業界そのものを向上させるべく、出来るところは協力し合って、互いに切磋琢磨すべきではないだろうか?

一方で、多くの現代人は、葬儀を喪主として自分が出す立場になること、墓を買うことは、人生の中でそう何回も経験するではない。

しかも、家族・地域・会社といった縁が機能していて相談できる相手がいれば問題ないが、現実はどうであろうか?相談できる人が誰もいないということは、もはや珍しいことではない。

孤立死という言葉が連日メディアをにぎわせる時代だ。姉妹が同居していたにもかかわらず孤立死(妹は餓死)するという痛ましい事件まで起こる時代である。ひとり孤立の中で死を迎えるようなケースは、世界有数のスピードで少子高齢化が進む社会の中、残念ながら減ることはないだろう。だからこそ、死を考えることをタブー視せずに、事前の準備が必要なのだ。

末期がん患者の看取りを行う仏教を基盤とした緩和ケア病棟(ホスピス)に勤務していた時、余命僅かな末期がん患者の数百名と関わったが、患者が亡くなって初めて遺族から「葬儀ってどうやればいいんですか?」「葬儀社はどうやって手配すればいいんですか?」という質問をたくさん受けた。

緩和ケア病棟に入院する前の段階から、残された時間が僅かということは、家族はもちろん、患者自身も知っていたはずである。しかし私たち現代人にとって、「死」ということに正面から向き合って生きることは容易ではない。そして遺族の多くは、葬儀を終えた後、こう言うのだ。葬儀社やお寺に「○○万円も取られた」と。もちろん、相手の無知に付け込み、高額な金額を要求するお寺や葬儀社は論外である。しかし、あまりにも「死」について考えることを放棄し、避けてきた側にも問題はあるのではないだろうか?

今から約70数年前の昭和20年代には、約8割の日本人は在宅で生まれ、在宅で死んで逝った。それが高度経済成長とともに、病院死が増え始め、昭和50年代半ばには病院死が在宅死を抜き、現在では8割以上の方が病院で死を迎えている。

最近はインターネットの発達により、事前に葬儀社を調べ、病院と提携している葬儀社にそのまま遺体の搬送から葬儀までを依頼することはかなり少なくなってきている。

だが、まだまだ葬儀社は、病院と独占契約を結ぶために、莫大なお金を病院に積む傾向にある。

公立病院は抽選制度を行って表向きは公平であるが、私立病院は葬儀社にとって非常にありがたいお得意様でもある。

病院側は、その見返りとして、遺族側の葬儀についての無知につけ込み、提携している葬儀社に意図的にご遺体を「流す」。

病院側は「病院は治療する場所です。亡くなった方は長い間、病院に置いておけませんから、申し訳ないのですが直ぐに搬送して下さい。葬儀社さんがいろいろ教えてくれますよ」という風に。

何も知らない遺族は、そのまま遺体の搬送からパッケージされた葬儀プランのまま葬儀社に「お任せ」する。

しかし、葬儀終了後の請求書を見て「どうしてこんなに高いの?」と驚く。遺族側に葬儀のイロハを知ってもらうと葬儀社は困るのだ。何も知らない無知の方が、商売はやりやすい。相手は素人である。これでは赤子の手をひねるようなものなのだ。

そのことを知った上で、私たちは業者選びをする必要がある。

繰り返すが、現代の家庭の中には、仏教でいう「生老病死」が見えなくなった時代である。

生まれる時も死に時も病院の密室の中で、生身の人間の「いのち」が見えなくなったのである。家庭の中で「生と死」が見えないからこそ、「いのち」が大切という感覚も持ちにくい。死が遠くなればなるほど、生もまた遠くなるのだ。

「人生は苦である。自分の思い通りにならないもの。そして人間は必ず死ぬ」

約2500年前にお釈迦さまが悟られたことである。

確かに、どんなに時代が変わろうと、この世から苦しみがなくなることはない。死なない人はいない。私たちは生物である以上、誰しもが老いて病気になり死んで逝くことは避けられないのである。

ならば、死を避けるのではなく、死を正面から見据え、死に立ち向かっていくことは出来ないだろうか?死に方は生き方にも繋がる。死を考えることは、生を考えることだ。

死には大きく分けて3つに分類される。

  • 突発的な死Sudden Death(震災・交通事故・事件・自殺など)
  • 緩やかな死Slow Death (老衰など)
  • 準備された死Prepared Death(病院の中で迎える死)

さらに一人称の死(自分自身の死)二人称の死(家族や親しい人の死)三人称の死(世間一般の方の死)に分けられる。

このブログでは、筆者が死の臨床経験①②③の現場を通じて見聞きしてきたことを、様々な事例をもとに紹介していく。

三人称の死を通じて、二人称・一人称の死を見つめなおし、あなた自身の生を考えるきっかけになれば幸いである。

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