養老孟司「成熟した人間の姿がわからない現代人」なんでもネットに答えを求める人たちの末路

養老孟司「成熟した人間の姿がわからない現代人」 なんでもネットに答えを求める人たちの末路 | 子育て | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)

わからないことは何でもネットで……それは本当に正しいことなのでしょうか(写真:topic_kong/PIXTA)

小児科医の高橋孝雄氏は、「インターネットで『正しい育児』の答えを求めるようになると、正解を追い続ける“追いかけっこ”のようになる」と説く。解剖学者の養老孟司氏と、子育てについて語り合った(本稿は、養老孟司『子どもが心配』の一部を再編集したものです)。

ネットで正しい育児を追い求めたら、キリがない

――高橋先生は育児におけるインターネットの過剰利用について警鐘を鳴らしておられます。どういう問題があるとお考えですか。

高橋:大きな問題としてあげられるのは、親たちが自分の育児に自信をなくしていることです。そもそもこの世に「正しい育児法」が存在するかどうかも疑問ですが、それを是(ぜ)として、「正しい育児」とはどういうものか、答えをネットに求める傾向があるのです。情報を〝つまみ食い〟するのに、ある程度信用できて、一番お手軽なフィールドがインターネットだということでしょう。

ネットを検索すると、実際、「正しい」と思われる情報がたくさん出てきます。なかでも自分の考えに近く、役に立ちそうな情報を拾い読みしていくと思うんですが、そのときに陥りやすい問題があります。それは、自分が実践している育児と比べて、少しだけレベルの高い方法に「正しさ」を求めがちだ、ということです。

そうなると、もうキリがない。「これは自分より正しい」「こっちはもっと正しい」となって、ネット検索が「正しい育児」という〝鬼〟をつかまえる〝追いかけっこ〟のようになる。これが「負け続ける育児」につながってしまうのです。

たとえるならそれは、「どんな栄養素を摂れば、病気にならない体をつくれるか」と、正しい栄養の摂り方を求めてネット情報を集めまくるようなものです。検索すれば「亜鉛が不足すると、こんな症状が出ます」「鉄分が不足すると、こんな病気になります」といった具合に、たくさんの情報が出てきます。

しかし、どんなに体に大切な栄養素でも、大量に摂ればいいというものではない。足りないと病気になるということと、摂れば摂るほど健康になるということはまったく別の話ですが、どうも育児でもそれと似た誤解が広がっていると思います。

養老:私はよく「現代人は『ああすればこうなる』と思っている」と言っていますが、社会全体に「何かに不足があったら、ネットの情報を〝投与〟すればうまくいく」というようなシステム化の原理が働いていると感じています。その原理に対して一番大きな齟齬(そご)が生じるのが子どもの問題ではないでしょうか。

高橋:まったくその通りです。養老先生のお言葉を拝借すると、育児において「ああすればこうなる」ということはないんですよね。

小児科医をしていると、日々向き合うのは、完治の見込みのない病気と闘っていたり、親の虐待から保護されて入院していたり、「ああすればこうなる」なんて方程式では括れない子どもたちばかりです。

でもそれは病院だからこその特殊な例ではありません。健康な子どもも、とりたてて問題のない一般家庭に暮らす子どもも、100人いれば100人、性格も状況もすべてが異なります。「ああすればこうなる」は誰一人当てはまらないのです。

それなのに親御さんたちの多くが、「正しい育児をすれば、将来、社会が求める正しい大人に育つ」という幻想を抱いている。しかも「正しい育児」の情報をネットに求めれば求めるほど、自分には実践できないような気がしてくる。子どもを産むのはやめておこうかと。少子化が進む原因は、その辺りにもありそうです。

他者との比較は個性を認めるのと逆方向

――ネットの普及が、よその子と比べることを助長している部分もありますね。

高橋:他者と比較するということは、つまるところ、「自分の子を、優秀とされる子どもたちのカテゴリーに入れようとする」ことにほかなりません。個性を認めるのとは逆方向の考え方ですね。

ネットの普及でその種の情報も「正しい育児」の検索範疇に入ってきています。こちらもやはり「負け続ける競争」にしかならない。学校内やクラス内で試験の点数を比べ合うくらいなら、まだ実感をともなうから勝ち負けがあってもいい。でも全国模試レベルになって、顔の見えない相手、つまり偏差値と比べっこを始めると、いつか必ず負けますからね。

他者との比較は避けられないとしても、見えない無数の敵、実像をともなわない相手と競争することは避ける。その点だけは気をつけたほうがいいと思います。

養老:いまのお話をもう少し進めると、現代人は「成熟した人間の姿」がわからなくなっているような気がします。子育ての目標を進学や就職とリンクさせすぎるために、本来目標とするべき「成熟した人間像」が思い描けないのかもしれません。

「成人式が荒れる」のは、その証左とも言うべき現象でしょう。成人するとはどういうことかが、本人たちも、祝福する側の大人たちもわかっていないのです。

死を悟った子は急速に成熟する

高橋:私自身、自分が成熟した人間かどうかわからない部分もあるのですが、養老先生とお話をしていて、ふと恩師の言葉を思い出しました。

それは、ユーイング肉腫という悪性腫瘍で入院していた当時5歳くらいの子どもを回診したときのことです。ふだんは無口で、ちょっと厳しい感じもする恩師がふと、こう言ったのです。「子どもは死を悟ると、みんな、天使のようになる。切ないね」と。

このとき私は、「死を現実のものとして受け入れた瞬間に、心の奥底から沸々(ふつふつ)と『共感する力』が湧いてくるのではないか」と思いました。

それまで「注射はイヤ」「薬はイヤ」「入院はイヤ。おうちに帰る」「まだ寝たくない。テレビ見る」などワガママばかりで、およそ手に負えない子だったのに、しだいに医師や看護師、親、周りにいる同年代の患者さんに、共感を寄せ始めました。相手の立場になって考え、行動できるようになったのです。

小児科医の本当に狭い視野ながら、私はそこに「急速な成熟」を感じ、「成熟するとは、こういうことだ」と思いました。子どもに限らず、大人も同じですよね。「成熟した大人とは、共感する力のある人」だと、私は思っています。

人間関係に関わるさまざまな実体験を経て、人は「自分がこういうことをすれば、相手はこんなふうに感じる」ということを五感を通じて学習します。その過程で想像力が育まれれば、初めてのことや困難に直面したときも、想像力を働かせて解決しようとする姿勢が自然に身につくでしょう。

また言ってはいけないこと、やってはいけないことを経験的に理解し、人を傷つけるような行動に歯止めをかけることもできるようになる。そんなふうに想像力が身につけば、おそらく子どものころに「共感する力」のようなものが芽生えるはずです。相手には相手の考えがある、相手のルールがあるということを理屈ではなく感じ取れる力は、人を幸せにしてくれます。

人間が1人で手に入れられる幸せなど、大したものではありません。でも人の幸せをともに喜び、人の苦しみをちゃんと理解し、寄り添うことのできる人は成熟した大人だし、幸せになれる人だと思います。だから、死期の迫った子どもが急速に成熟していくことは本当に切ないことなのです。

養老:「自立」というのも大事な問題ですね。それが成熟の前段階に起こることなのか、同じと捉えるべきかはさておき、子育ては子どもの自立を邪魔するものであってはならないと考えています。

それは大前提として、では、何をもって「自立」とするか。最近、そんなことを考えていて、「自立の何たるかを示す典型例は夏目漱石だ」と気づきました。

ご存知の通り、漱石は文学論を書きたいと思って、30歳を過ぎてから、イギリス・ロンドンに留学しました。ところが大学で講義を受けても、本を読んでも、役に立たないと感じたといいます。そこにきて国費での留学ですから、何か成果を上げなければいけないという強いプレッシャーもあって、神経衰弱を来すまで落ちこんだのです。

そんな漱石が苦悶の末に気づいたのは、「自分の書きたい文学論は、講義や書物にはない。ゼロから自分で考えるしかないんだ」ということです。その瞬間、漱石は自立したんだと思いますね。

ここで私の言う「自立」は、自分はどう生きていくかを自分でつかみ、しかも社会に適応していく態勢と心構えが整うということです。翻って日本人の場合を考えると、20代後半くらいかなと思います。

精神的自立で重要なのは「読解力」

――成人の社会的自立、ということですね。

養老:もちろん子どもが自立していく過程には、いくつもの段階があります。最初は肉体的な自立。座る、立つ、歩く、走る、飛び上がる、物をつかむ、食べる、……日常的なさまざまな体の動きを覚えます。

次の段階が精神的な自立で、なかでも重要なのが「読解力」でしょう。以前、AIをテーマに対談した新井紀子さん(国立情報学研究所教授)が、著書『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』のなかで、興味深いことを言っていました。

彼女が定義する読解力――図表も含めたあらゆる言語化された情報を正確に読める力は、中学生のころに伸びる、というのです。なるほど、だとすると、人はそのころに「頭の自立」を果たしているのかもしれませんよね。

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