避けられる僧侶

「私はまだ死んでいません」「死をイメージさせる僧侶なんて、縁起でもない。僧侶なんて必要ありません」「お経の声が聞こえるのが嫌だから、病室の扉を閉めてください」

かつて筆者は、末期がん患者さんの看取りに宗教者として関わっていた。

その時、よく患者さんやその家族から上記のような言葉を言われた。

勤務していた病棟は、仏教を基盤とした緩和ケア病棟である。

従って、病棟内には仏像を安置した仏間があり、朝夕にはそこで仏教者による勤行が行われる。

にもかかわらず、宗教者(仏教者)の存在をそのまま否定されるような言葉を浴びせられることは、正直、とても辛かった。

宗教者である私という人間が嫌いと言うならば、話はわかる。

しかし、まだお目にかかってもいないうちにそんな言葉を浴びせられると、当時の筆者はどうして良いか分からず、途方に暮れるしかなかった。


避けられる僧侶

だが冷静に考えてみると無理もない。

「葬式仏教」と化したお寺や僧侶と日常的に接点を持つ人は、現代人では、どのくらいいるのだろうか?

さらに、昨今の旧統〇教会の問題、そしてオウム真理教事件を持ち出すまでもなく、宗教と聞けば、「怖い」「危険」と考える人が増え、「信仰を持っている」「宗教を信じている」と世間で言えば、何か変わった人・奇特な人という目で見られることも、まだまだ一般的ではないだろうか?

日頃からお寺に通い、僧侶と接点があれば、末期がんで余命僅かになり、緩和ケア病棟に入院した際に、僧侶に話を聞いてほしい、もしくは僧侶と話をしてみようという気持ちになるかもしれない。

しかしながら、病気になる前、日常生活において僧侶と全く接点がなかった場合、末期がんになったからといって、いきなり僧侶が病室に来られても迷惑だと考えるのは、極めて普通の感覚であろう。

加えて、「先の風になって」や映画「おくりびと」がヒットし、「死」を語ることが以前ほどタブー視されなくなってきたという風潮はあっても、まだまだ「死」を日常会話の中で語れるほど、私たちの社会は成熟していない。

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