以下の話は、筆者が病院勤務時代、看取りに関わった方のエピソードです。
そのご遺族からは、毎年、年賀状が筆者の自宅に送られてきます。
今年もまた、年賀状をいただいたので、当時のことを思い出しつつ、以下の記事を書いてみます。
(ご遺族並びにご本人<生前>より、掲載にあたり許可は頂いておりますが、本人の特定を避けるために、若干の変更を加えている点は、ご了承ください)
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「みんなの幸せを誰よりも願っている」
まだ40歳の若さで、肺がんのため亡くなった女性Nさん。
自分の命が残りわずかと知るや否や、Nさんが最期に取り組んだことは今でも忘れがたい。
Nさんは、会社員の旦那さんと中学生と小学生の男の子2人の4人家族。
美容師だったこともありNさんは手先が器用だったため、絵を描いたり、人形を作ったりすることも得意で、病室にミシンを持ちこんで、ひとり作業をするような人だった。
そして出来上がった作品を家族や病院のスタッフはもちろん、見舞いに訪れる人にまで惜しみなくNさんはプレゼントしていた。
そんなNさんは、ついに呼吸が苦しくなり、なかなか作業をすることが出来なくなった。
家族が見舞いに訪れ、帰って行った後、Nさんは私にぽつりと呟いた。
「私が死んだあと、家族は男3人だけになる。料理や洗濯などの家事のやり方を今のうちに教えておかないと」
そう言うと、ノートに「お父さんの好きな料理」「洗濯のやり方」「箪笥の引き出しに○○が入っている」など、家事全般のやり方や家の何処に何があるかなどをノートに書きだし始めた。
しかし、病状はどんどん進行し、ほぼ寝たきりになっていった。
しかし、Nさんは私に「力を貸してほしい」と頼み、口実筆記という手段を用いて、ノートに伝えたいことを全て記入したのだ。
ノートの最後の言葉は「みんなの幸せを誰よりも願っている ママは幸せだったよ」で締めくくられた。
ほどなく、Nさんは眠るように息を引き取った。
子供たち2人はママの死に顔を見て、大声で泣きじゃくった。
私がノートを旦那さんに渡すと、旦那さんも大声で泣いた。
人目を憚らず、大声で泣いた。
男三人が「お母さん」と言って、大声で泣いた。
その後、Nさん家族の家に、食事に招待されたことがある。
Nさんの残したノートは、家族のみんなが食事をするテーブルの上に置かれてあり、時折、家族全員が折に触れて見返しているという。
子供たちは言う。
「毎日朝起きて学校に行く前には仏壇に手を合わせていくようになったよ。家に帰ってきて、今日はねぇ、学校でこんなことがあったよとお母さんに報告するようになったよ。嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、お母さんに報告しているんだ」
Nさんは既にこの世にはいない。しかし、家族の記憶の中で今もNさんは生き続けている。
ネイティブ・アメリカンの教えに
「あなたが生まれたとき、みなが笑って、あなたは泣いたでしょう。だから、あなたが死んだとき、みなが泣き、あなたは笑っているような、そんな人生を送りなさい」という言葉があります。
また、『淡々と生きる』(小林正観著)という本の中に以下のような言葉がある。
『親孝行というのは、親が生きている間にしてあげるものではありません。本当の親孝行は、親が亡くなったときからはじまります。親が亡くなりあちらの世界に行って、こちらの世界をみているときに、『ほら、見てください。あれが私の子どもです。あんなに人に喜ばれながら楽しそうに生きているのが、私の子どもです』と親が自慢できるような生き方をすることが、最大の親孝行なんですよ』
元気で健康な時から、その言葉をかみしめ、味わっておきたいものです。