「時代の奔流」人の役に立つことが素直にうれしい

「時代の奔流」人の役に立つことが素直にうれしい
          ウェッジ2000年2月号

今月の旗手 色平哲郎
インタビュー・文 / 溝口 敦

 「ぼくは”風の人”、村の人たちは”土の人」と屈託なく語る色平哲郎の言外には村人への優しさがあふれている。

無医村での地域医療や外国人の支援に積極的に取り組んでいるにもかかわらず、気負いも衒(てら)いもまったくない。

人生の面白さを体で表現する色平の生き方は現代人が忘れた何かを思い出させてくれる。

[いろひら・てつろう]
1960年神奈川県生まれ。東大中退後、世界を放浪。その後、医師を目指し京都大学医学部へ入学。
長野県の無医村で診療所の所長を務める傍ら、外国人HIV感染者・発症者への生活支援、帰国支援などに取り組み、95年タイ政府より表彰される。民間NPO「佐久地域国際連帯市民の会:アイザック」事務局長。

地域医療に取り組む現代の赤ひげ

 色平哲郎(39歳)は現代にはまれに見る快男児である。優れたアジテーターであることも間違いない。

 人物像は公的には「長野県南佐久郡の山村で医療に従事する傍ら、外国人HIV感染者、発症者への生活支援や帰国支援に取り組む。95年タイ政府から表彰される」となるだろう。こうみてみると、精力的に医療と社会活動に取り組む現代の赤ひげ、頭が下がりますといった感じになる。

 事実、それはその通りなのだが、色平が快男児である由縁は、いとも面白がって土地の医療や社会活動に従っている点である。自分が何かを犠牲にしてといった様子はまるでなく、いまの仕事はもうけ物、楽しくて仕方がないといった感じなのだ。だから色平の話は抜群に面白くなる。こういう生き方があったか、自分も何かやるぞという気にさせるのだ。

 「ぼくは今でも女房に言われます。また、あんた、若い学生さんたちを騙(だま)してとか。事実、悪の道に誘い込んでいると思います。だってぼくが言うことをやると、ふつうに医者ができなくなっちゃうもの。というのは医者であっても、相手の物語を聞き取り、その人の生活が分かってから治療に取り組むべきだと、ぼくは思ってますから。担当医である以上、その人の生活を知るために一度往診して、その人の生活の中でアドバイスすべきと思うんだけど、それが都会ではできてない。村だとでき
るんです」(色平)

東大を中退した天才的な面白がり屋

 色平はもともと変な子どもだったようだ。一族はほとんどが新潟の農家だったが、色平の父親だけは台糖のサラリーマンだった。

横浜に生まれたものの、父親の転勤にともない、物心つく前に神戸に移住、その後、東京に戻って狛江市に住んだ。中学、高校と進学校で知られる開成で学んだが、小学校時代には将来、自分が漢字を使うとは思えないと子ども心に判断、漢字の試験はマルバツを書いて通した。

 同じように歴史も地理も自分の生活に関係するとは思えないとして、まるで関心をもたなかったが、あるとき、上空から地上を見れば、地図と同じように見えると気づいてがぜん、熱心に取り組み始めた。

 高校時代、世界史に出る人名などは可能なかぎり原典に近い関係の邦訳を読んだから、ローマの皇帝の名前など無意識に記憶、2年のとき全国模試でトップの成績を取った。浪人生ならともかく、わずか高2で該博な知識を要求される世界史で全国一など、ふつうではありえないことだろう。

中学時代、年間200・300冊の本を乱読したというのも、色平の意識の中では勉強のためでなく、あくまでも自分の興味に忠実なだけの「研究」だった。

 さぞかし頭脳明晰な家系の出と想像されるのだが、これが前記したように農民の一族で、大学出も、まして医者になった者もいないという。同期生は色平が東大の文三(史学など)に進むものと思い込んでいたが、実際に進んだのは理一(化学など)だった。

 「歴史は趣味でやりたい。プロで歴史をやったら面白くないだろう。歴史で飯を食っても面白くないぞ」

 色平は同期生にこう言い返したというのだが、人一倍努力はしても、その努力は成績のためでも、いい学校に進むためでも、いい生活を送るためでもなかった。ひたすら自分が面白いと思うもののために色平は努力する。この意味で色平は天才的な面白がり屋なのだ。それも無責任な面白がり屋ではない。

 大学3年のとき、初めて海外旅行に出た。横浜から船でナホトカに行き、ハバロフスクからシベリア鉄道でモスクワに。そこからヨーロッパに出て2カ月ほど滞在、帰りにインドとタイに寄って帰国した。この旅で色平はモンゴル人の女学生や、デュバリエ政権下からロンドンに逃れた亡命ハイチ人、ポーランドの老夫婦、オランダの片手片足の青年などと知り合った。

 旅から帰って、色平は惜しげなく東大を中退した。卒業後、企業の技術者として生きることに飽き足りなさを感じたのだ。家も出て、日本のあちこちを放浪した。茨城のキャバレーで住み込みで働いたり、都内のパン工場や大学生協の食堂に勤め、北海道の牧場でアルバイトもした。

 「学歴とは全然関係のないところで多くの人々が”どっこい”生きていることがわかった。私は医者というのは、なにか鼻が高くて嫌なやつだと思っていたけれど、漠然とながらも医学というのはアジアや外国の辺境に行けば民衆のために役立つのではないかとも思ったんです。それに、広い世間のいろいろな人と付き合ううえで、医者であることは『とっかかり』になる」(色平「ひもじさを忘れた日本人へ」=『月刊MOKU』99年4月号)

 色平は京都に行き、京大医学部で一から医者になる勉強を始めた。

 ここでもわかることだが、色平にとって医療はまずコミュニケーションのためのとっかかりなのだ。医者になって高収入を上げるとかは、テンから頭にない。

 医学生のとき、何度かフィリピンを旅し、無医村の医師になろうとイメージを固めていく。3度目、レイテ島への旅で、バングラデシュ出身の医学生スマナ・バルア(通称バブ)と出会ったことが色平の進路に大きく影響した。

 バブは76年、日本に医学を学ぶため来日するが、先端医療は故郷に無理と考えを変え、フィリピン大学医学部のレイテ分校に留学した。もともとレイテ分校は日本の佐久総合病院の若月俊一総長が唱えた「農村医科大学構想」に共鳴したフィリピン大学が設立したものだった。

 「地域医療の道に進みたい」という色平に、バブは「日本には佐久総合病院がある」

と教えた。90年色平は京大を卒業し、バブの教え通り佐久総合病院で医師としての道を踏み出す。

人が大事なんだ、人の歴史が大事なんだ

 この間、色平は87年、27歳のとき、京都の市民合唱団でピアノを弾いていた嘉須美と知り合い、結婚した。嘉須美は4年前「私の夫は医者」という興味深い文章を記している。

 「私達が結婚した頃、結婚するなら”三高”の人と言う言葉がはやりました。私達の場合”三高”どころか、背が低い、学歴なし、収入なしの”三低”(学生結婚だったので)。おまけに短気、単純、短足の”三短”にもかかわらず、うまく騙され、婚姻届に印を捺してしまいました。

 家庭での彼は、夫として、父としての自覚が全くなく、子どもの為に食べやすく作ったおかずを食べるし、いじわるを言って子どもを泣かせるし、子どもに焼きもちを焼くしと、35歳の頭のハゲた万年反抗期の子どもなのです。オーブンレンジの使い方、留守番電話の聞き方、自分の衣類の場所も判らない本当に手のかかる夫で、五歳の息子が彼の世話をしている事があるくらいです」

 地域で篤(あつ)く信頼され、諸外国の医療関係者から深く尊敬されている色平も、くそみそである。こうしたエピソードからも色平が並々でない天才とわかろう。

 「外国人たちが佐久病院のすぐ隣の駅でたむろし始めたとき、ぼくはスペイン語が少しできるせいもあるけど『どうしたの、ぼくは医者だからいつでも』と言って、だんだんと関係ができてきた。そのうちタイの女の子たちが『色平先生、仲間が風邪引きました』。ぼくが行って、おなかを触って『よかった、大丈夫だよ。お薬上げるからね』。次はもう『飲んでね』って、パーティーを開いてくれる。タダ、もてなしはすごいですよ。こんな素晴らしいこと、なんで日本の医者はやらないのか。診てやれ
ばいいのに、と。全然大変なことなんてない。もちろんエイズとかいろいろあるけど、人間なんだからあるのは当たり前のことです」

 色平はたしかに「風の人」で、こだわりがない。人の役に立つことが素直に嬉しい。
現在は南相木村の診療所にいて、一隅を照らす灯火の役を果たしている。

 「私は足下を掘っていきたいと思います。ニーチェの言葉に足下を掘ると泉が湧(わ)くという言葉があるようですけど、私としては泉の水脈が海にまで通じていて、大海原に出て、その向こうに外国も含めて友人たちがいるという感覚なんです」

 インターネット時代に突入してローカルが文字通りグローバルに通じる。色平は佐久という一隅に居を定めながら、日本に、世界に「人が大事なんだ、人の歴史が大事なんだ」と発信しつづけている。

タイトルとURLをコピーしました