「風と土のカルテ」

序章 情と理の彼方へ

講堂は、一瞬、水を打ったように静かになった。

 二〇〇一年、秋、東京・日暮里「開成学園」。 

毎年、東京大学へ一七〇人以上もの合格者を送り込むエリート進学校の講堂に集まった人々は、心臓をわしづかみにされたような沈黙に陥った。

なだらかな傾斜がついた客席には、学生服姿の生徒と、地味なブランド物のスーツを着こなした母親、スーツ姿の父親ら六百人ちかくが、ぎっしり詰まっていた。

「ようこそ、先輩」の幕がかかった演壇には、ワイシャツの袖をまくった坊主頭の男が、立っていた。

 南相木村国保直営診療所長・色平哲郎、四十一歳(当時)。昭和五十三年卒。

 色平は、スクリーンに映し出された『医の道は村の心に通ず』と題されたフィルムの解説をしていて、突然、言葉に詰まってしまった。

NHK長野支局が制作した色平の活動を追ったドキュメンタリーであった。

「高校時代、私は、周囲の医者は、なんて高慢で、嫌な人間だろう。医者にだけはなりたくないと思っていました」

 と、客席を挑発するかの台詞で始まった彼の講演は、聴衆の反応が、それまでに登壇した物理学者や高級官僚になった先輩たちのときとは明らかに違っていた。

「えっ?」と戸惑いながらも、意表をつかれ、聞き耳を立てたのは生徒たち。

「フフフっ」失笑に紛らせ、若造が何を言うかという気配が、父親席からは漂ってきた。

医療関係者が来場しているのだろう。予定調和的な静けさとはかけ離れた雰囲気である。

「変わった人だわ。うちの子にこんな話を聴かせていいのかしら」

母親たちには、戸惑いの表情がありありと浮かんだ。

客席は波立ち、エリート教育への自負と期待にあふれる聴衆の心はかき乱された。

ところが、映像を見上げ、声は低いが、自信に満ちて語っていた色平が、いきなり、喉の奥に大きな塊がせりあがってでもきたのか、話を中断した。そして――

「すみません……、僕が、看取った方が、元気に過ごされていたころの姿が……出てきて……」

と、言ったきり、マイクの前で、嗚咽を始めた。

「ングッ、グッ、グッ」と激しく、しゃくりあげる泣き方であった。

こらえきれない悲しみが、がっちりとした全身から流れ出した。

講堂の空気が瞬時に張りつめ、静寂が客席を覆った。

色平哲郎はひとつの鏡であった。

シニカルな笑いを浮かべていた者は、そこに映った己の顔に色を失い、黙り込んだ。

筆者は、鳥肌が立った。

欧州、アジアを放浪、東京大学を中退し、一年ちかく家族と音信を絶ち、場末のキャバレーで働いて自活しながら己の道を見出そうと、もがき苦しんだ青年。

京都大学医学部に入学後もアジアを歩きつづけ、「地域医療」と廻りあった。

研修医時代、鉄のような意志で、周囲の反発をものともせず、外国人HIV感染者を勤務する長野県厚生連・佐久総合病院に受け入れた。

外国人労働者女性支援のNGO活動を立ち上げ、タイ国政府から日本人ドクターとして初めて表彰された。

村医者の日常を生きながら、田中康夫長野県知事に請われ、県の保健医療計画・策定委員会の最年少委員として県庁職員をふるえあがらせている台風の目。

NGOやマスメディア関係者の間では「医療の将来は色平に訊け」とまで評されている論客であり、エッセイスト、文化人類学的な踏査研究者……そうした彼のおもてのイメージからは想像もつかない涙だった。

 一人のセンチメンタルな医師が目の前にいる喜びを、感じた。

作家の深沢七郎は、若月俊一・元佐久病院長(現名誉総長)との対談『たったそれだけの人生』でこう語っている。

「ほかの商売にはうまい汁を吸わせておいて、お医者さんばかりになんで仁術をしろって押し付けるのか、わたしは意味がわからない。だけど若月さんは(略)、わたしに『おセンチです』っていいましたね(略)。ハハァ、お医者さんからセンチメンタルを抜いちゃうと、あとは高い薬と欲だけだと(笑)」

「自分の体をセンチメンタルな気持ちで診て下さる先生がいて、その先生を信用していりゃ、死んだってもうわたしはいいです」 

この清澄なセンチメンタリズムが、若月医師から清水茂文・現佐久病院長を経て、色平に受け継がれているのを知ったのは、それからしばらくしてからだった。

「情」がすなわち「理」を成し、「理」がすなわち「情」を形づくる。

演壇の色平は咽びながら、語る。

「あの桜の木は、誰がどういう気持ちで植えたのか、さまざまな、語りが村にあります。生涯、家族にも話せなかった物語を私に打ち明け、亡くなっていかれた方がいます。私は、もちろん、その秘密を自分の胸に押しとどめ、お見送りしました。 村は、六十五歳以上の高齢者が三五パーセントを超え、半世紀先の日本を先取りしています。この村で、人間として人間をお世話する。その姿勢を貫きたい。

大学時代、アジアの国々を回り、医療に生きる決心をしました。 カンボジアやビルマ(現ミャンマー)には、内戦時代に残された地雷がたくさん埋まっています。地雷には三種類あります。子どもが手を出しそうなオモチャの形をしたもの。触ると手を吹き飛ばされます。これは失明させる目的でつくられました。踏むと足が飛ばされるもの、胸の高さに飛び上がって爆発するものもあります。地雷は、ひどい兵器です……。

皆さんのまわりには、きつい現場がありません。日本の若者は『貧困』を学ぶべきです。きみたちのおじいさん、おばあさんたちが貧しいなか、どうやって平和な日本をつくってきたか。話を聞いてみてください。 アジアの村も見てきてほしい。『国民皆保険』というかけがえのない制度で、日本人の健康が守られていることが実感できるでしょう。

受験は、みなさんの前にそびえています。しかし、受験を突破するのは、大学に入り、どういう人間として生きるかの準備でしかありません。話や書いたものには、誇張もあれば、誤解もある。しかし、生き方はごまかせません。

エリートと呼ばれる人たちの狭い社会ではなく、広い世間の人々とつきあって、幾つもの目で物事をとらえるようになってください。海外の友人たちと二十一世紀を一緒につくっていく日本の若者が、大勢、出てくることを期待しています」

 色平は、「地域医療」に進むきっかけを与えてくれた親友のバングラデシュ出身のスマナ・バルア医師(通称バブさん)を紹介し、演壇から降りた。

バルア医師は、世界保健機関(WHO)の医務官としてマニラに赴任することが内定していた。

彼は、流暢な日本語で、若い聴衆に向かって語った。

「名前はバブです。入浴剤です(笑)。 医学部を目指す人は、なぜ、お医者さんになりたいか、しっかり、考えてください。

震災が起きる前の神戸で、高校の先生方に講演をしたことがあります。スライドを使って、アジアの子どもたちの生活を紹介し、きれいな水が大切だということを何度も訴えました。すると、ある教頭先生が『日本人は、そんなに頭が悪くはない。何度も水が大事だとくりかえす必要はない』とおっしゃいました。 私は、なんと返答していいか、困りました。

大地震のあと、三週間ほどして『高校の教師です。バブさんに謝りたい』とその先生から電話がありました。『地震後、今日までお風呂に入れずにいます。本当にお水が大事だと理解できました。電話が通じたので、失礼を詫びたかった』と言いました。

私は驚いて、先生、お身体はだいじょうぶでしたか? ご家族はいかがでしたか? とおたずねしました。

つまり、人間は、困難に直面しないと、気がつかない。病気にならないと健康のありがたさが分からないのです。

医師になりたい人は、そのまえに患者さんになりなさい。患者さんの気持ちになってください。お金持ちより、人の心がたくさん分かる『心持ち』になってください」

 春まだき、標高一三〇〇メートルを走る高原列車に行楽客の姿は、見当たらない。

長野県の小諸と山梨県の小淵沢を結ぶ小海線は、高校生や老人たちの生活の足である。

二両編成の列車にコトコト揺られて、小海駅で降り、クルマで山へ向かって、さらに三十分走る。

せせらぎの木立の間に、出征兵士を見送る家族を象った「不戦の像」が見えてきたら、南相木村だ。

この人口千三百の小さな村が、色平哲郎のホームグラウンドである。

その日も、彼は、診療所でお年寄りと向かい合っていた。

「痛むかい」 と、八十歳を過ぎた男性の膝に手を当てた。

「そんなでもねぇな。こないだの注射、効いたよ。ずいぶん楽になった」

「じゃあ、湿布だけ出しとくよ。少しでも痛くなったら来てよ」

 その老人は、三年前、突然、高熱を発した。

村の役場での審議会に出席していた色平は、急遽、会を抜け出し、クルマを運転し、一時間ちかくかけて、老人を臼田町にある佐久病院本院まで連れて行った。風邪をこじらせていた。

男性は、痴呆症の妻と二人暮しであった。日ごろ、老夫婦は寄り添い、互いを杖のようにして生きているが、どちらかが体調を崩すと、ぬきさしならない状態なる。

村の誰かが、手をさしのべなければ、生きていけない。診療所長は、老夫婦にとって最も近い存在なのだ。

めったなことでは診療所に来ない働き者の女性が、ある日、「先生、疲れた。身体が動かない」と言ってきたことがある。夫を亡くして、日が浅かった。

色平は、小海駅に隣接する佐久病院分院に彼女を入院させた。

ふだん、彼は、往診に走り回り、極力、入院ではなく、自宅療養で病気を治そうと努めている。

実際、四年前に村の常駐医となってから、入院する村人は、めっきり減った。

結果的に村の医療費は抑えられている。しかし、このときばかりは、迷わず、入院させた。

「彼女は、誰もが認めるガンバリ屋なんだよ。一目も二目も置かれている。そんな人が『疲れた』と言ってきたら、よほどの状態だ。心労もあったろう。しばらく、村から少し離し、安静な時間が必要だと判断したんだ。村のがんじがらめの人間関係から距離をとれば、疲れも癒せるしね」

 しばしば、色平は昼食を食べ忘れる。

この日もそうだった。診療の合間を縫い、沖縄から訪れた三人の女子医学生と、栃木の医科大学に通う男子医学生を伴い、村人の家を回った。

庭先で草鞋をこしらえながら、戦争体験を語る長老、機を織りつつ、ブルーベリーの育て方を語るおばあさん、資料館として一般に開放されるほどの旧家に嫁いできた女性の苦労話……、さまざまな「ものがたり」を聴きながら、医学生たちは、硬質でピカピカ光る高度医療機器に囲まれた大学病院とは対極の医療=「ケア」の世界が広がっていることに気づく。

行く先々で、しゃきっと歯ごたえのある漬物類や、野菜の煮付け、ゴマもちなどのおいしいお茶うけをいただくものだから、昼ごはんは「食ったか、どうだか、分らなくなる」のである。

東京で生まれ、少女時代をタイのバンコクで過ごした女子医学生は、こう語った。

「村での二泊三日の実習の間、ずーっと映画のなかにいるみたいでした。外国にきている感じなんだけど、ご老人たちのお話は十分、理解できる。感動しました。不思議な感覚。医療をいろんな角度から勉強したくなった。アジアの人々の役に立つ医療が、できそうです」

都会育ちの医師の卵たちは、心地よいカルチャーショックを受けて、各地へ帰ってゆく。

小さな村。地球儀に載せれば、針先ほどの広さもない村だけれど、医療というフィルターを通して眺めてみると、その懐はじつに深い。

日本の医療制度は、現在、市場原理導入によって、大きな曲がり角にさしかかっている。

戦後の復興期から高度成長、バブル期を経て、閉塞状況に落ち込んだ日本は、経済、行財政、社会、政治の分野に溜まった膿を出し、構造改革を断行しなければ、立ち行かなくなった。

が、その中途半端さと荒っぽさをないまぜにした政府の手法は、しっかり吟味しなくてはならない。

医療改革で、サラリーマンの医療費三割負担や診療報酬の引き下げで国の医療費総額を一時的に抑制することは可能だ。

しかし、その先に市場原理導入による競争の道しかないとすれば、医療機関は、儲かる患者とそうでない患者の選別にかかるだろう。医療の「公的」な役割はどうなるのか。

そもそも、医療費を抑えるには、全国一律に「分かりやすい数字に大なたをふるう」ことが最善手なのか。

色平が暮す長野県は、男性の平均寿命は全国一位、女性のそれは第四位の長寿県であり、なおかつ老人医療費は最も低い。

長野県の老人医療費は、最も高い福岡県の約六割に抑えられている。

「長野モデル」とでもいうべき、この好成績の背景には、佐久病院や諏訪中央病院などの準公的な中核病院の医師たちが、保健婦や看護婦と気軽に町や村に入り、道端で血圧を測り、健康講座を開くなどして育んだ「地域密着型医療」がある。

長野では、予防と早期発見によって、医療費が、ぎりぎりまで抑えられてきたのである。

その内実を知ることは、わたしたち病院にかかる側の人間にも大いに意味があるだろう。

経済指標にしか依拠しない医療改革の盲点と、その代替案が、見つかるのではないだろうか。色平は語る。

「国家試験をパスした医師の臨床研修必修化の動きがありますが、この初期二年間が勝負なのです。どんな医師に育つかを決める、大切な二年です。研修医は、医学博士を志向する大学の医局ではなく、実地臨床を重視する病院の医療の第一線に送り込むべきです。

その二年間、厚生労働省が研修医の経済的な保障をしてでも、彼らの白紙の状態の頭に『患者さんに向き合う』ことの大切さを刷り込む。第一線できちんと働く医師が増えれば、結果として医療費は大きく削減されるでしょう。医師教育は、医療費抑制のみならず、現代の医療における、根源的課題なのです」

本書は、色平哲郎という極めて稀有な医療実践者の半生をヨコ糸にし、彼の「肉声」をできるだけとりこみながら、医療や教育、社会一般が抱える諸問題をあぶりだすように書いた。

 第一章「脱『国際化』宣言」では、市場原理導入で揺れ動く現在の医療制度改革に対する色平のオピニオンを引き出した。いわば「情」に裏打ちされた「理」の章である。

 専門的な言説も含まれているので、やや「重い」とお感じになった読者は、二章以下を読み進めてから、もう一度、一章に立ち戻っていただけるとありがたい。

 第二章「青春放浪」は、彼が医師として立つまでの苦悩の軌跡を描いた。進学校から東大に進みながらも、鋳型にはまったエリートとしての生き方を拒み、放浪する。

青春期の自己との葛藤の果てに、いかにして医の道にたどりついたかを追った。

 第三章「微笑みの国の娘たちを救え」は、研修医時代、HIV感染者に対する差別、無理解が蔓延していたころに、医療保険から見放された外国人感染者をどのように支えたかをドキュメントした。

「ひとりの患者のプライバシー保護が、残り九九人の生命を守る」ことの意味を説いた。

 第四章「村医者の遥かな『まなざし』」では、山村の診療所長としての生活、彼を取り巻く村人、訪れる医学生たちとの対話を紹介し、「地域医療とは、医療の一分野というよりは、農村の一役割」でもある現実を記述した。

二章~四章は、時系列的なつながりをつけたが、トピックによっては前後関係を飛び越えて、書いた。どの章からでもお読みいただけるよう工夫したつもりである。

――では、「風と土のカルテ」色平哲郎の世界へ。

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