「成年後見制度における家族の位置づけ」

「後見制度と家族の会」という団体があります。後見制度と家族の会 (kokenkaizen.com)

その設立時(令和3年7月)に、小池信行先生(元法務大臣官房審議官・弁護士)より、家族会へのメッセージを、今、改めて読み直したいと思います。

https://kokenkaizen.com/koikekoken/mr.koike.pdf

「成年後見制度における家族の位置づけ」

令和3年7月21日
小池信行(元法務大臣官房審議官・弁護士)

1 はじめに

「後見制度と家族の会」の皆さま、こんにちは。まだ、生まれたばかりのこの会が、皆さまのご尽力によってヨチヨチ歩きを始めたと伺っており、同会の設立趣旨に賛同している者の1人としてお慶び申し上げます。

今後の皆さまの自主的な活動が、後見制度を真に利用者のために機能するものとして育てて(あるいは作り直して)いく上で、有意な原動力に発展されることを切に願っております。皆さまのご健闘を祈ります。

既に多くの方が実感されておられるとことと思いますが、成年後見制度の現状には様々な問題が伏在しています。そのうちの一つが「本人の家族がこの制度の運用から遠ざけられているのではないか」という懸念です。

この制度がスタートした2001年には、全国の家庭裁判所が選任した後見人の約90パーセントが本人の家族だったのですが、20年を経過した2020年にはそのパーセンテージが約20パーセントに下がってしまいました。成年後見の先進国であるヨーロッパ諸国においては後見人の約60~70パーセントが本人の家族といわれている中で、これとの対比において、わが国の現状は異常と評するほかありません。

なぜそうなったのかについては、家族の高齢化、本人の相続をめぐる家族間の前哨戦の多発、家族との縁を切って独居を選択する老人の増加などにより、家族後見人の適格者が減少してきたという家族側の原因のほかに、近時における家庭裁判所の後見人選任の方針が弁護士・司法書士等の専門職を重用する傾向にあることなどが挙げられています。

これらの原因は今日の複雑化した社会的・経済的な要因が種々絡んだ結果として生じているものですから、一朝一夕の解決は難しいといわざるを得ません。そこで、ここでは、この問題は留保して、そもそもわが国の成年後見制度において本人の家族はいかなる位置づけを与えられているか?という制度論に立ち返ってみたいと考えます。皆さまが今後の活動を展開されていく上で、何らかの示唆をもたすものとなるならば幸いです。


2 2000年改正前の成年後見制度の概要

(1)禁治産・準禁治産の制度

この問題を論ずるためには、2000年改正前の制度(以下「旧制度」という。)に遡ってみる必要があります。旧制度の時代には、民法に「成年後見」という用語はなく、精神上の障害によって判断能力が不十分になった成人の財産管理や身上保護を支援する制度は、禁治産・準禁治産制度と呼ばれていました。前者が現在の法定後見のうちの後見類型に、後者が保佐類型にそれぞれ相当します(当時は、まだ任意後見の制度は存在していません。)。

これらの制度の中核にあったのが後見人・保佐人で、その選任及び職務権限に関する規定は民法第4編「親族」の部分に納められていました。民法第4編といいますと、夫婦、親子(養子を含む。)及びその他の親族相互間の様々な法律関係についての規律を定めている部分ですが、なぜ後見人・保佐人の選任・職務権限の規定がこの編に置かれていたかといいますと、家庭裁判所が本人に対して禁治産・準禁治産の宣告をしたときは、本人に配偶者があれば、その者が当然に後見人・保佐人に就任するものと定められていたからです。これを配偶者後見の原則と呼んでいました。もとより、本人に配偶者がない場合もあるわけで、その場合は、家庭裁判所は、親族その他の利害関係人の請求によって後見人・保佐人を選任しなければならないとされていたのですが、実際には親族の中から選ばれるのが通常だったのです。ですから、旧制度における本人支援の在り方は、配偶者を中核とする「家族後見」であったということになります。

(2)配偶者後見の意味

民法における禁治産・準禁治産の制度は明治31年の制定時に導入されたものですが、配偶者後見の原則は、その当初から採用されていたのです。いうまでもなく、この原則は、夫婦の一方が精神上の障害によって判断能力が不十分となった場合、同人の財産の管理や身上の保護に当たるのは、その配偶者が最も望ましいという考え方に基づくものです。旧制度時代の民法学者も、後見人の職務においては本人の療養看護が主となるべきものであるといい、配偶者が後見人を努めることの意味については、禁治産者に対する療養看護は、未成年者に対するそれとは異なって終わりが見えず、後見人に重い負担を掛けるものであるから、相互に愛情を抱いている者同士にして、初めてその任(後見人としての任)を全うできるものだと説いています。

旧制度における後見人の職務権限規定も財産管理に関するものが大部分を占めていたのですが、これは、たとえ配偶者であっても、後見人として他人の財産を管理することになる以上は、その管理の方式を厳格に定めて、後見人が自己の財産と混同したり、本人との間に利益相反の事態を生ずることは避ける必要があるわけですから、いわば当然のことです。それよりも、旧制度において重要視されていたのが、「禁治産者の後見人は、禁治産者の資力に応じて、その療養看護に努めなければならない」とする民法858条1項の規定で、配偶者後見の原則は、まさにこの規定の要請に応えるものと理解されていたのです。

ちなみに、現行の民法858条は、成年後見人がその職務を行う場合には、本人の意思を尊重し、かつ、その心身の状態及び生活の状況に配慮しなければならないと定めていますが、旧制度の時代には、このような規定は存在していません

配偶者は、他の一方の生活歴や健康状態を熟知し、その生活の在り方についての希望や意向も十分に承知していたわけですから、殊更に、本人の意思の尊重や心身の状態等に対する配慮を民法で定める必要はなかったのです(現行法の上記の規定は、主として、家族以外の第三者が後見人に就いた場合を慮ったものとみるべきです。)。


3 現行制度への移行

(1)現行制度における家族の位置づけ

さて、2000年の民法改正において配偶者後見の原則は廃止されました。これは、わが国の高齢化社会の進展、後見事務の複雑化・多様化などを考慮して、家庭裁判所が個別の事案ごとに後見人の適格者を選任しようという発想によるものですが、だからといって、立法者の意図が旧制度における後見人選任の考え方を完全に断ち切ってしまうところにあったとみるのは、行き過ぎでしょう。

既にみたように、わが国の成年後見制度における「配偶者後見の原則」は、明治31年の明治民法制定以来、約百年に長きにわたって続いてきた制度であり、家族の愛情に基づく、本人の意に沿った、きめの細かい支援という成年後見の根本理念は、わが国社会の伝統・慣習・倫理観に合致するものとして、現行法の基礎に存在し続けているとみるべきです。それはまた、ヨーロッパ諸国の成年後見制度の運用においても垣間見ることができるところであり、この面での世界標準と称しても過言ではないと考えます。


その証拠として、仮に2000年改正の立法者において、配偶者後見の理念を完全に捨て去るという意図であったならば、従前の民法が採っていた「親族と後見」とのつながりが失われることになりますから、後見人の選任やその職務権限に関する規定を民法第4編から切り離して別の部分に移していたはずです。それをせずに、依然として民法の同じ位置に規定をとどめたのは、やはり、後見人は第一次的には家族が担うべきものであるとの考え方を維持した上で、家族に適格者がない場合に第三者を活用する(併せて、その第三者の供給源を拡大する)という考えに基づいて立法を行ったものとみるべきです。

要するに、現行の成年後見制度も、明文の規定はないものの、明治以来の制度の沿革に照らして、後見人の太宗は家族に任せられることを前提に成り立っているということができます。その「太宗」とはどの程度を指すのか、数字で表わすのは難しいのですが、同制度と家族との「つながり」という観点からすれば、「少なくとも50パーセント」と言いたいところです。

(2)関連する条文の解釈・運用について

上記(1)の考え方に立てば、現行の民法の規定及びその運用についても、改めて留意が必要な点がいくつかあります。以下に、この点に触れておきましょう。

ア 後見人の選任について

民法843条は、家庭裁判所が後見人を選任することを定めた規定です。この規定は、一見すると、後見人の選任について家庭裁判所にフリーハンドの裁量権を与えたかのように読めます。すなわち、家庭裁判所は、後見人の候補者として、本人の家族のほかに専門職、法人、市民後見人などを横一線に並べて、その中から適任と考える者を選任できるかのようです。

しかし、これはこの規定の正しい解釈ではありません。上記3(1)に述べたとおり、わが国の成年後見制度は、家族に後見人の適格者がいる場合には、その者を優先的に後見人に選任するという根本原則を前提にしていますから、家庭裁判所としては、まずその点について審査し、適任者がないと認められる場合にのみ家族以外の第三者から適任者を選任するという判断のプロセスをたどるべきなのです(ヨーロッパ諸国でも、同様に家族優先の選任が行われているようです。)。

現に、この規定の4項は、家庭裁判所が後見人を選任する場合の考慮事情を定めていますが、ここに掲げられている事情(本人の心身の状態並びに生活及び財産の状況、後見人となる者の職業及び経歴並びに本人との利害関係の有無、本人の意見その他一切の事情)は、家族を後見人に選任する場合には通常は意味の乏しいものであり、第三者を後見人に選任する場合にこそ考慮に値するものと考えられます。

複数後見人の選任について

旧制度においては、後見人は1人に限るとされていました。本人に対して家庭裁判所から禁治産の宣告がされると、本人に配偶者がある場合には、その者が後見人に就任することとされていましたから、この面から、「後見人は1人」と限定することは当然と考えられるのですが、ほかに、後見人を複数選任すると、本人に対する支援の在り方について後見人間で意見が対立したり、早急になされるべき支援の時機が遅れるなどの弊害が生じかねないという判断もあったのではないかと思われます。

現行制度では複数後見人を容認していますが、これは、本人の財産管理・身上保護に関する事務が複雑・困難なものである等、その事務の量や性質に照らして必要と判断される場合にのみ認められるべきであって、そのような特段の事情もないのに、安易に財産管理後見人と身上保護後見人の2名を選任するような運用は避けるべきでしょう。後見人が複数ある場合の弊害も考慮すべきです。


ウ 後見監督人の選任

後見監督人による後見人の監督は旧制度でも存在していたのですが、家庭裁判所が後見監督人を選任することができるのは、本人の親族又は利害関係の請求があった場合に限るとされており、家庭裁判所が職権で後見監督人を選任することはできなかったのです。旧制度においては、後見人(原則として本人の配偶者)の職務執行が適正を欠くおそれがある場合などに、日頃からその職務執行を監視している本人の他の家族のイニシアティブによって後見監督人を付すという仕組みだったのです。

現行制度では、家庭裁判所の職権による後見監督人の選任も認めることとしたのですが、この選任は、上記の旧制度の内容にかんがみて、後見人の職務執行につき後見監督人を付すべき具体的な事由が存在する場合に限ると解すべきです。現在では、家族を後見人に選任すると同時に、第三者を後見監督人に選任する運用がされているようですが、後見人の職務執行状況をみることもなく、最初から職権で後見監督人を選任するのは行き過ぎといわなければなりません。


エ 家庭裁判所の監督権の発動としての処分

上記ウと同じような問題は、家庭裁判所が民法863条2項の規定による「必要な処分」をする場合にも存在しているようです。すなわち、現在の実務では、家庭裁判所は、後見人を選任すると同時に、職権で、本人の金融資産について後見支援信託に付すべ旨の処分をしているのですが、上記の民法の規定が家庭裁判所の職権による「必要な処分」を認めているのは、後見人による本人の財産の管理その他の事務の執行が適正を欠く場合(又は適正を欠くに至るおそれがある場合)に限られるべきです。後見人の職務執行の状況をみないままに、いきなり後見支援信託に付する処分をすることは上記の規定の趣旨に反するではないでしょうか。

4 結びに

以上に述べた私の意見は、民法に明文の根拠がない解釈論です。しかしながら、わが国の成年後見制度(禁治産・準禁治産制度を含む)において、「家族による後見」という原則が1世紀以上にわたって貫徹されてきた歴史的事実は、極めて重いものです。我が国の憲法に定める基本的人権も、憲法によって初めて認められたものではなく、憲法以前の天賦の権利であると考えられています。

それと同じように、わが国の成年後見制度における「家族による後見」は、国会が定めた民法の前に存在する根本規範であって、民法によって、又はその運用によっては侵すことのできないものと考えるのです。この根本原則が何となく隅に追いやられているかのような今日、是非ともその「復権」を目指したいものです。

以上

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