孤立死の現場から~30代男性のケース~

その男性は、大学を卒業後、一般企業に就職。

しかし、人間関係のもつれから3年で退職した。

このご時世、なかなか正社員の仕事が無く、夜勤で荷物の仕分けのバイトの仕事を細々とこなしていたという。

しかし、不規則な夜勤の仕事をこなす中で、生活が荒んでいき、気持ちがふさぎがちになる。

世間ではちょうど、「勝ち組」「負け組」という言葉が流行っている頃だった。

しかし「何とかしなければ」と気持ちが焦れば焦るほど、体が動かない。

うつ病と診断され、その男性は生活保護を受給。

「まだ頑張れる」「何とかなる」「はい上がれる」という確信はあるが、「俺は負け組」「こうなったのは自分が悪い」と自分を責め、助けてと言えないまま、布団から出れなくなり、引きこもりの生活へ入った。

しばらくして、隣の部屋から異臭がするという通報を受けた大家さんが警察に電話して、その男性の突然死が発覚した。

遺族が遺骨の引き取りを拒否したため、民生委員を通じて、私に声がかかった。

火葬を済ませ、遺骨を引き取った後、男性が亡くなった部屋に入り、遺品整理のお手伝いをした。

部屋に残された遺品は、その人の人生を物語っていた

万年床の布団の上で亡くなった男性の枕元に置かれていたのは、彼の高校時代のサッカー部の時の写真。

以前付き合っていた彼女との写真。

バイトの給料明細。

バッテリーの切れたスマホ。

コンビニの袋に包まれた大量のゴミとマンガ本。

そして大量の求人雑誌。

最後の最後まで仕事を探していたのだろうか、求人雑誌のいくつかの箇所に赤のボールペンで丸が付けられていた。

最後の最後まで仕事を探し、今の生活からはい上がろうとしていた矢先、亡くなったようだ。

「遺品は一切必要ありませんから、そちらで全て処分して下さい」という遺族の言葉は、忘れることが出来ない。

30代の若さで亡くなった人のことを思うと、何のために人は生まれてくるのだろう、生きている意味とは何なんだろうかと自問自答をせずにはいられなかった。


筆者は、家族に囲まれて亡くなったからといって、故人が「孤立」を感じていたならば、それは孤立死とも言えると考える。

一方、ひとりで亡くなったからといっても、幸せの中で亡くなるならば、それは孤立死ではないとも思う。

しかし、単身世帯で、ひとり誰にも看取られることなく亡くなられた「孤立死の現場」は、時がたてばたつほど壮絶なものだ。

ウジやハエが飛び交い、強烈な死臭を放つ部屋にあなたは入ったことがあるだろうか?

「他人に迷惑をかけたくない」というのは日本人の美徳である。

しかしながら私たちは、自分の死後、自らの遺体を柩に納棺し、火葬することは出来ない。

誰かの力、他者の力を借りなければ出来ないのだ。

しかし、「迷惑をかけたくないから、ひとりで死ぬ」という思いが、孤立死を産み出し、逆に家主やご近所に多大な迷惑をかけてしまうと言うこの現実。

「孤立死の何が悪い」「孤立死でもいいではないか」「自己責任だ」という言葉が依然として社会に根強いのを私は知っている。

しかし、孤立死の現場を数多く見てきた私は、同じことをとても言えない。

ひとり暮らしの高齢者であれば、誰だって孤立死のリスクはある。

孤立死がたとえ起こってしまっても、直ぐに発見されるような人的ネットワークを最低限作っておくこと、それが社会に今求められているのではないだろうか。


そのような私の発言がテレビや新聞で取り上げらえると、世間の方々に、私の活動が徐々に知られるようになった。

その一方で、私の無償の行為につけ込むかのように、「あんたらは、無料で葬儀も納骨も何でもしてくれるんだろう。だったら、死んだ親父の納骨まで全部頼む」というような悪質な依頼も同時に増えてきたのも現実だ。

よく話を聞いてみると、家族関係の折り合いが悪く、単に父親の弔いをしたくないだけで、生活も特に困っていないような方から、まるで「姥捨て山」に捨てるような感覚で私に依頼をしてくる人も多い。

さすがにそのようなケースには、怒りを通り越して、呆れてしまう。

私は、葬儀や供養を「したいけど出来ない」という方を対象として活動している。

葬儀を「出来るけどしない」という方を対象とはしていない。

そのような依頼は、私たちとは考え方が明らかに違うので、丁重にお断りさせていただいている。

人の死を悼み、弔い供養するという考えは、時代と共に変化してきていることを感じている。

さらに、葬儀社さんより、「あなたは無料でお経をあげてくれるんでしょう。私どもの会社の仕事でお坊さんにお布施を包みたくないと言う人がいるので、ボランティアでお経を読んでくれませんか」という依頼が来ることがある。

要は自分の葬儀社のサービスの一環として私を使いたいだけであることが分かり、何のために葬送支援をやっているのか、分からなくなってしまうこともあった。

筆者の願いは、経済的な問題で故人をしっかりと見送ってあげたいが、残念ながら出来ないという方の力になりたいということ。

経済的に余裕のある方からは適切な金額を頂くことによって、その分を生活困窮者の葬送支援に回したい。

そこを理解しないで、無料という行為につけ込んで依頼してくる業者がいることは本当に腹立たしい。

自分の都合のよい時だけ連絡をしてきて、こちらが困った時には一切協力しないという業者から「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉を学んだように思う。

しかしながら一方で、ありがたいことに、「あなたの行動に感動した」というメッセージ入りで、現金書留が全国各地から送られてきたこともあったのである。

殺伐とした世の中ではあるが、まだこの社会は捨てたものではないと実感した瞬間だった。

また私に葬儀を依頼した人の中には「まとまったお金がないが、親父の供養のため、毎月千円ずつでも一年間、あなたにお布施をさせていただきたい。毎月続けることが、親父の供養になるから」と言って、毎月欠かさず、お布施を持参してくださる方もいる。

そのような多くの方々の善意によって、今の筆者の活動が支えられていることを付け加えておきたい。

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