書評『植物は〈未来〉を知っている』『イスラームから見た「世界史」』

ITを利用したニューエコノミーへ適切に移行するためには、協同組合のようなかたちが必要だ。ニューエコノミーのコンセプトは、少数の人の手に莫大な利益を積み上げていくウェブ業界の巨人たちの理念と結びついているが、このまま放置していると、いずれ大惨事を招くだろう。したがって、組織の創造性と危機に対する抵抗力を高めるには、植物の脱中心的構造を模倣するだけでなく、分散という新しい所有形態を考えるべきだ。

ステファノ・マンクーゾ、アレッサンドラ・ヴィオラ「植物は〈未来〉を知っている」197p


実際、少なくともヨーロッパでは、植物モデルにしたがって組織された構造は、しばらくまえから存在している。それは、“協同組合“である。協同組合はヒエラルキーのない組織で、全組合員が組織を支えている。具体的には、個々の組合員が資産を所有する権利をもつ。組合員一人ひとりが自由な考えで投票する権利をもつ、だれもが組合員になれる、など。このような構造の特徴により、協同組合は、外的または内的な危機に対して、より大きな抵抗力をもつ。

ステファノ・マンクーゾ、アレッサンドラ・ヴィオラ「植物は〈未来〉を知っている」197p


イスラームから見た「世界史」

世界は〈西洋〉と〈東洋〉だけで成り立っているのではない.
9・11──その時はじめて世界は〈ミドルワールド〉に目を向けた西洋版の世界史の後景に追いやられてきたムスリムたちは自らの歴史をどう捉え、いかに語り伝えてきたのか

歴史への複眼的な視座を獲得するための、もうひとつの「世界史」

西洋世界と今日のイスラーム世界の中核部分は歴史の大半をつうじて、いわば二つの別個の宇宙を形成していた。いずれも内輪の問題に没頭し、みずからを人間の歴史の中心に位置づけ、それぞれ独自の物語を生きていた──十七世紀後半に二つの物語が交差するようになるまでは。その時点で、いずれかが譲歩せざるを得なくなった。なぜなら、二つの物語は互いに逆流として作用したからだ。そして、より強力だった西洋の潮流が優勢となり、イスラームの潮流を撹乱した。
しかし、表舞台から追われた歴史はそこで終わらなかった。それはあたかも潜流のように水面下を流れつづけ、現在もなお流れている。

(「はじめに」より)

イスラームから見た「世界史」 タミム・アンサーリー著/小沢千重子訳 ~人物描写、文化事象の記述で類書にない迫力
評者 山内昌之 東京大学大学院教授

アフガニスタンの歴史好きの少年は9歳から10歳の頃に優しい英国人からヴァン・ローンの『人間の歴史の物語』をプレゼントされた。この老紳士は『歴史の研究』の著者アーノルド・トインビーであり、少年は本書の著者のアンサーリーにほかならない。早熟の少年は成長してイスラームを軸にした世界史を書いた。「世界史」というよりも「イスラーム世界史」の感もあるが、とにかく人物描写の精妙さや文化事象の記述で類書にない迫力がある。

預言者ムハンマドや4人の正統カリフの事績は、欧米や日本の学者の著書と違って、すこぶる人間くさく正業でも成功した職業人として淡々と描かれるのは意外なほどだ。それでいて、11世紀から12世紀に活躍した「世界史に残る知の巨人」ガザーリーの業績を立体的に描く筆致は読者を一挙にイスラーム文化史に引き込むだろう。

ガザーリーの『哲学者の意図』は、ヨーロッパに伝わって西欧人にほぼ最初のアリストテレスとの出会いを可能にさせた。ガザーリーのあまりにすばらしい哲学解釈に、著者がアリストテレスその人だという誤解さえ与えたほどだ。数学や自然科学の結論が神の啓示と矛盾する場合にはどうなるのか。ガザーリーは結論のほうが間違っていると断定した。しかし著者も言うように、科学は啓示と同じ結論に達した場合にのみ正しいのなら、科学の必要性はどこにあるのか。実際に、イブン・ルシュド(アヴェロエス)は反駁を加えたが、論争に勝利を収めたのはガザーリーだった。

これ以来、ギリシア思想に基づくイスラーム哲学は衰退し、ムスリムは自然科学に対する関心を失った。著者は明言していないが、イスラームに学びながら、それにかわって自然科学を発達させたのはヨーロッパなのだ。この差こそ近代化の成功をめぐる明暗につながる。著者は、宗教改革を経たヨーロッパでは信仰と自然の解明は別物であり、別個の探究領域が一致する理由もないと人びとが考える訳を人物紹介とともに解き明かす。しかし、イスラームそのものに停滞の原因を見いださない。

むしろ、科学上の偉大な発見は、イスラームでは社会秩序崩壊の時期と重なっていた反面、西欧では長く崩壊していた社会秩序の回復期と重なったからだと分析を試みる。これは、イスラームの秩序最盛期に偉大な科学的発見をしながら、なぜに伝説的な停滞に陥ったのかを十分に説明していない。天才ガザーリーにイスラーム没落の全責任があるという結論にもなりかねない。とはいえ、事物の確かな叙述に加え、議論の枠組みが確かな好著というべきだろう。

Tamim Ansary
作家、米サンフランシスコ・ライターズワークショップのディレクター。アフガニスタン出身、サンフランシスコ在住。米国の複数の世界史教科書の主要執筆者。サンフランシスコ・クロニクル、ロサンゼルス・タイムズなどに寄稿。

紀伊国屋書店 3570円 685ページ

https://toyokeizai.net/articles/-/7995?display=b 2011/10/31


イスラームから見た「世界史」 タミム・アンサーリー 紀伊國屋書店

 日本人がもつ「世界史」の観念は、基本的にヨーロッパ中心である。むろん、日本人はそれだけでなく、東アジアから世界史を見る視点ももっている。しかし、その間にある西アジアに関しては、無知も同然である。
西アジアはある時期からイスラム圏であり、それはアラビアやアフリカからインド、インドネシアなどに及ぶ。2001年9・11以来、このイスラム圏が突然、大きく浮上してきた。ところが、われわれにはまるで見当がつかない。その政治社会についても、宗教についても、皮相的で紋切り型の知識しかない。しかし、それを補うためにたくさんの本を読んでも、いよいよ不鮮明になるばかりだ。

 本書は、イスラム圏の内部でふつうに考えられている「世界史」を書いたものだ。これを読むと、この世界を外から観察するのではなく、その内部で生きてきたかのように感じる。そして、イスラム圏の人々が他の世界をどう見てきたのか、あるいは、現代のグローバリゼーションをどう考えているのか、を身近に感じられるようになる。読者はこれを読んで、このような史観(物語)に与(くみ)することにはならないだろう。しかし、いつのまにか、ヨーロッパ中心主義ないし日本中心的史観から抜け出ているのを感じるはずである。

 私は本書から、これまで宗教学の本を読んでわからなかったイスラム教の諸派が、具体的にどういうものなのかを学んだ。また、モンゴル帝国の崩壊というと、われわれは東アジアで、元のあとの明帝国を考えてしまうが、それは同時代の西アジアで、三大イスラム帝国(オスマン、イラン、ムガール)の形成に帰結している。それらが、近代ヨーロッパの支配の下で変形され、現在のような多数の国民国家に分節されてきたのである。現在の状況を見るとき、本書に書かれたような「世界史」認識が不可欠である。

    ◇

 小沢千重子訳、紀伊国屋書店・3570円/Tamim Ansary アフガニスタン出身、米国在住の作家。

評者: 柄谷行人 カラタニコウジン
哲学者 1941年兵庫県生まれ。著書に『漱石試論』(群像新人文学賞)『マルクスその可能性の中心』(亀井勝一郎賞)『坂口安吾と中上健次』(伊藤整文学賞)『日本近代文学の起源』『隠喩としての建築』『トランスクリティーク』『ネーションと美学』『歴史と反復』『世界史の構造』など。2005年4月より書評委員。

朝日新聞掲載:2011年10月09日


特筆すべきは、モンゴルがペルシアを襲ったときにカナート(またはカレーズ)を破壊したことだ。
カナートとは古代から用いられてきた灌漑用地下水路のことで、川のない土地で農業に依存する社会にとっては文字どおりの生命線だった。
カナートの一部は完全に破壊された。
一部は砂を詰められただけだったが、これとても修理する人間が一人も生き残れなかったので、破壊されたと同様に消滅してしまった。
アラブの地理学者ヤークート・アル・ハマウィー(1179から1229)はモンゴルが襲来する2、3年前に現在のイラン西部からアフガニスタン北部、オクソス川北方の一帯にまたがる広大な地域について、肥沃な土壌に恵まれた豊かな土地と記していた。だが、モンゴルが侵略した2、3年後には、この土地は砂漠と化していた。そして、今でもそれは変わっていない。

イスラームから見た「世界史」293p


イギリス東インド会社は日常的な行政業務は現地人にまかせて、同社の商売上の利益にかかわる案件だけを取り扱った。
つまり、実際には、(無力な)「ベンガル州政府」があらゆる問題を解決する責任を負っていたのに対して、(有力な)東インド会社はあらゆる利益を手にいれる権利を与えられた一方で、人民の福利に対する責任をいっさい免れたと言うことだ。
なにしろ、わが社は州政府ではないから、と。
強欲な東インド会社の幹部連は、ベンガル人のもてるものすべてを搾り取った。
だが、ベンガル人が不平を訴えても、「州政府」に言えとあしらわれるばかりだった。
同社の過酷な収奪はベンガル地方に飢饉をもたらし、わずか2年で人口の3分の1ーおよそ1000万人ーが命を落とした。

この時点で、イギリス政府は介入する決意を固めた、、、

イギリスはその後まもなく、インドの地方王朝の王が男子の跡継ぎを遺さずに死去した場合、〔養子を認めずに〕イギリス国王がその領土を相続すると布告した、、、

イギリスはインドの支配権を掌握するのとほぼ時を同じくして、北米大陸の植民地を失った。
ヨークタウンの戦いに敗れてジョージ・ワシントンに降伏したことでアメリカ史ファンにはよく知られたコーンウォリス将軍が、第2代インド総督に就任し、イギリスのインド支配を真にたしかなものとした。
アメリカ史の文脈でみるかぎりコーンウォリスは敗者だったが、彼はおそらく、おのれの業績を誇りつつ生涯を終えたものと思われる。
というのは、インドは「イギリスの王冠の宝石」と謳われたイギリス屈指の貴重な植民地となり、その世界制覇を進める拠点となったからだ。

インド亜大陸の無尽蔵の資源を思いのままに使って、イギリスはアフリカをはじめ世界のいたるところで植民活動を展開した。
それゆえ当然のことながら、おのれの「宝石」を脅かすものに対してきわめて敏感だった。
そして、18世紀から19世紀に変わる頃に、そうした脅威が露わになりはじめた。
そう、拡大を続けるロシアの脅威がしだいに高まってきたのだ。

イスラームから見た「世界史」433p


とかくするうちにムハンマド・アリーの子孫たちは、エジプトの将来は綿花にかかっていると思うようになった。
ヨーロッパでは織物工業が最初に産業化されたため、市場は綿花を貪欲に求めており、ナイル渓谷できわめて良質の綿花が生産されていたからだ。
1860年頃に、世界市場における綿花の相場が急激に高騰した。
当時のヘディーヴのイスマーイールは、東方世界で名だたる浪費家のプレイボーイだったが、自分と自国が裕福になることを夢想した。
彼は一夜でエジプトの綿業を産業化すべく、ヨーロッパの銀行家たちから巨額の融資を受けた。
そして、莫大な資金を費やして、綿操り機などの機械類を購入した。
エジプトは永久に綿布を売りつづけるから借金は容易に返済できる、とイスマーイールは見積もっていたのだ。

けれども、綿花の市場価格が高騰したのは、アメリカで南北戦争が勃発したことに起因する一時的な現象に過ぎなかった。
南部諸州からの綿花の輸出がとだえたので、イギリスの綿織物工場がほかの産地の綿花を求めていたのだ。
南北戦争が終結するやいなや、綿花の市場価格は急落し、エジプト経済は壊滅的打撃を受けた。
すぐさま、銀行家と金融コンサルタントがこの国に殺到した。
結局、エジプト政府の役人一人一人に専属のヨーロッパ人顧問が配されることになった。
だが、東方問題は依然として解決されないままだったーフランスもイギリスも、エジプトの全面的な支配権を獲得しようと身構えていた。

イスラームから見た「世界史」450p


1830年、フランスはアルジェリアに侵攻した、、、
その後の100年間で、アルジェリアのフランス人コミュニティーは70万人のフランス系市民を擁するまでに発展した。
彼らは国土の大半を所有し、みずからを土着のアルジェリア人とみなすようになった。
なぜなら、彼らはアルジェリアの国土で生まれ、その多くは両親もアルジェリア生まれだったからだ。
ところが生憎なことに、アルジェリアには500万人ほどのアラブ人も住んでいた。
彼らがどこから来たのか、ここで何をしているのか、アルジェリアのフランス系市民の誰にも理解できなかった。
一見したところ、彼らはいかなる役割も担っていないように思われた。
何で生計を立てているにせよ、彼らが営んでいる経済活動は、フランス系アルジェリア人が携わっているそれとはまったくといってよいほど共通点のないものだった。

イスラームから見た「世界史」451p

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