ノンフィクション作家のあとがきより 佐々涼子~・・記憶と記録(動画)

佐々涼子さん、ありがとうございました!そして、56年間、本当にお疲れさまでした。

佐々さんのその笑顔、忘れません。

歌舞伎町の玄さんの所でご縁を頂き、お話をさせて頂き、うれしかったです。合掌

以下、ノンフィクション作家のあとがきより「佐々涼子~・・記憶と記録」より引用


死ぬこと。 生きること。 このところ、ずっと考え続けている。

あるノンフィクション作家が、この10年余りの間に紡ぎ出したことば。

ひと言、ひと言を読めば、彼女が、ずっと「生と死」に思いをはせてきたことが分かる。

そして今、彼女が向き合っているのは、悪性の脳腫瘍。

残した文章の中には、次のような一節がある。

私たちは、その瞬間を生き、輝き、全力で愉しむのだ。そして満足をして帰っていく。 なんと素敵な生き方だろう。私もこうだったらいい。 だから、今日は私も次の約束をせず、こう言って別れることにしよう。 「ああ、楽しかった」と。 (佐々涼子 「夜明けを待つ」より)

なぜ、あなたは、こんなふうに書いたのだろう。

なぜ、あなたは、こんなふうに書けたのだろう。

SNSで発信された写真とことば 佐々涼子さんの「X」より 2023年9月、SNS上に発信された写真が、ふと目に止まった。

橋の上を走っている車の助手席から撮影されたものだろうか。

雲の間から見える青空が、やけにくっきりと見えた。

SNSの文章から分かったのは、発信者が、がんの病院に行ったこと。

そして、翌年のお正月を家族と迎えられそうだということだった。

「私、まだ生きていていいんですか。そうか。嬉しいな」

そんなつぶやきが、強く心に残った。

ノンフィクション作家・佐々涼子 調べてみると、発信者は佐々涼子さんという人だと分かった。

50代のノンフィクション作家だ。 若くして結婚し、子どもを産んだ。

その後、日本語学校の教員として働きながら、30代後半でライターの仕事を始めた。

これまでに7冊の本を出版している。

2012年には、「エンジェルフライト」という作品でノンフィクションの賞を受けている。

「紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている」や、「エンド・オブ・ライフ」でも高い評価を受けた。

そんな人が、がんになったという。

しかも、悪性の脳腫瘍=グリオーマ。

担当の編集者、田中伊織さんと連絡を取り、インタビューを申し込んでみたが、やはり「応じるのは難しい」という返事だった。

残念だが、諦めよう。

でも、1冊だけ読んでみよう。

青い表紙が印象的な「エンド・オブ・ライフ」を手に取った。

むさぼるように読み続けて 結局、立て続けにすべての作品を読むことになる。

1冊を読み終えるごとに、ため息をついた。 どの本の中にも、「佐々涼子」がいる。

取材を進めるなかで抱いた悩み、苦しみまでもが浮かび上がってくる。

そして毎回、佐々さんは、うつむきかげんの顔を上げて、前を向いていた。

本人の取材が難しければ、周辺にいる人たちに話を聞いてみよう、と考えた。

1人は、編集者の田中伊織さんだ。彼なら応じてくれるに違いない。

もう1人は、玄秀盛さんという人物。

いずれも、ノンフィクション作家・佐々涼子の誕生に立ち会った人たちだ。

玄秀盛さんと佐々さん 玄秀盛さん 玄秀盛さんは、1956年生まれ。

2002年、東京・新宿区の繁華街を拠点に、現在の「日本駆け込み寺」を設立した。

暴力や性的虐待、貧困、そして生きづらさ。 さまざまな問題を抱える人たちの相談にあたり、本人いわく「延べ5万人の悩みを聞いてきた」という。

今も、青母連=青少年を守る父母の連絡協議会の代表として、悪質なホストに売春を強要された女性などの相談に乗っている。

佐々さんが玄さんと知り合ったのは30代後半。

ライターの養成講座に通っていた佐々さんは、当時のことを、次のように書いている。

若くもなく、実績もないライターに、責任のある仕事を任せてくれる人もおらず、いつまでたってもうだつが上がらなかった。 (「駆け込み寺の男-玄秀盛-」より) ある人の紹介で訪ねたのが、玄さんだった。

自分の発行するメールマガジンの書き手を探していた。

「自信がなく、何かを探している」 前日には、東京でも雪が積もった。

まだ通行止めが続いているところもあった。

そうしたなか、出張先の神戸から車で帰ってきた玄さんに、話を聞くことができた。

「お疲れのところ、すみません」と声をかけると、「あぁ、涼子ちゃんのことな」と笑顔を見せ、佐々さんとの出会いについて、話し始めた。

当初から影のようなものを感じていたと振り返る。

(玄秀盛さん) この子には、何かが足らんと思っていた。 いつも自信がなさそうで、安定感がない。 何かを探しているようにも思えた。 メールマガジンでも、何を書きたいのか、何を言いたいのか、よく分からない。 結構、怒ったこともあるよ。 “あんた、それも分からへんの”って。 しかし、佐々さんは、諦めなかったという。

カネのこと、ヤクザのこと、作業員の派遣業のこと… 主婦であれば、用語さえ知るよしもなかった世界のことを懸命に学んだそうだ。 あまり自分のことを語ろうとしない玄さんにも、食らいつくようにして話を聞いていった。

(玄秀盛さん) あの子、聞き上手やねん。 「それから、玄さん」って聞いてくる。 まだ分からへんのって、俺がしゃべるやん。 そしたら、「それで、それで」って。 もともと、そういう素質があったと思うねん。 どう言ったらいいんかな。 洞察力じゃないけど、物事をどんどん深掘りしていくような。

きっと、このときの佐々さんは、必死だったのだろう。 底知れない人物の実像を、そして生き抜くために彼に頼ってくる人々の姿を、自分の筆で、広く伝えるために。

佐々さんは、2年半ほどを玄さんの事務所で過ごした。

その“成果”は、「駆け込み寺の玄さん」(のちに「駆け込み寺の男-玄秀盛-」に改題)という作品にまとめられた。

これが、佐々さんの初めてのノンフィクション作品だ。

編集者・田中伊織さんとの出会い 田中伊織さん

実は、このころ、佐々さんは編集者の田中伊織さんとも出会っている。

田中さんは、ライターや編集者の養成講座の講師を務めていた。 佐々さんは受講生の1人だった。

(田中伊織さん) 明るい人だなっていう印象はありますね。 見た目も華やかですし、話し方も非常に明るくて、結構、笑い上戸なところもあるかな。 誰と話をしていても、彼女に心を許すというか、本音を話してしまう。 警戒心を解かせるようなそういうキャラクターといいますかね。

それは、テクニックというわけではなく、人柄なんだと思います。 玄さんのことを取材した本の原稿も、田中さんは読んでいた。

(田中伊織さん) おもしろかったですよ。 臨場感のある書き方だなと感じました。 佐々さんの書き方の特徴だと思うんですが、読者をその場に連れていく、つまり読者に、まるで現場にいるように感じさせる。 映像が頭の中に浮かんでくるような書き方をしているなと思いました。

「エンジェルフライト」 佐々さんが、次の取材対象に選んだのは、当時はほとんど誰にも知られていなかった“仕事”だった。

羽田空港に拠点を置く会社が手がけていた「国際霊柩送還」。

海外で亡くなった日本人の遺体を、あるいは、日本で亡くなった外国人の遺体を、それぞれ帰国させ、遺族のもとに送り届ける。 その間、遺体の腐敗を防ぎ、生前に近い姿を取り戻すための処置も行う。

著作、「エンジェルフライト」によれば、佐々さんは当初、取材を断られたという。

それでも、羽田空港に何度も足を運び、ようやく認められた。

会社には佐々さん専用のデスクが用意された。 佐々さんは、毎日のように“出勤”していったそうだ。

(田中伊織さん) 当時、佐々さんのお母さんは神経難病で、お父さんが介護をしていました。

ただ、佐々さん自身は、人の死の場面に立ち会うことは、ほとんどなかったと思うんです。

そういう意味で言うと、「エンジェルフライト」の取材は、初めてさまざまなご遺体を目の当たりにした経験だったと思うんですよね。

佐々さんは、毎日、朝から晩までつきっきりで、会社の人たちの仕事を取材していました。

損傷の激しいご遺体もたくさんあるでしょうから、心理的にはね、プレッシャーもかかっていたと思います。

取材の現場で、佐々さんが目の当たりにしたのは、人の「死」と、遺族の悲しみだった。

国際霊柩送還という仕事の意味も、深く理解するようになっていった。

彼らは遺族の涙を止めようとは思っていない。

国際霊柩送還の仕事とは、遺族がきちんと亡くなった人に向き合って存分に泣くことができるように、最後にたった一度の「さよなら」を言うための機会を用意することなのだ。 (「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」より)

生きている人が、亡くなった人を悼み、その存在を心に刻む。

そのためにこそ、彼らは“仕事”を続けていた。

この作品は、2012年の「開高健ノンフィクション賞」に選ばれた。

出版に際して、佐々さんと田中さんはタッグを組む。 “足らない”取材を2人で加え、本の中に盛り込んでいった。

「私たちはバディだね」 のちに佐々さんは、田中さんに伝えることになる。

「紙つなげ!」 「紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場」で、佐々さんは、東日本大震災とその被害から復活する製紙工場の姿を描いた。

なぜ、製紙工場の人たちはいち早い復旧に取り組んだのか。

彼らの届けた紙を使った本や雑誌が、どれほど多くの出版社、取次、印刷所、製本所、書店員、そして読者を勇気づけたのか。

「佐々さんは、この作品で、一回り大きくなったと思います」と田中さんは話す。

しかし、実は、「紙つなげ!」については、田中さんは担当していない。

「エンジェルフライト」のあと、2人は話し合いを重ねたが、出版に至る企画は、なかなか現れなかった。

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