緩和ケア病棟内で数百名の末期がん患者さんの看取りに立ち会った後、私は在宅での看取りにシフトすると同時に、私は社会にあふれる自殺や貧困、孤立死などの「苦」の現場にも積極的に関わり出した。
死生観を育むはずの宗教が、現代社会の中で生きる拠り所となっていない。
ならば、「苦」の現場に自ら向かい、地べたを這いずり回るような活動を通じて、社会的に孤立した人々と共に生きていこうと決意したのである。
自死念慮者から二十四時間態勢で相談を受け、孤立死の恐れがある方の家を訪問し、東日本大震災発生直後から、遺体の搬送や弔いに従事してきた。
それらの活動が新聞やテレビで紹介されると、様々な生活困窮者から弔いの依頼があり、今まで2000名を超える方々の葬儀を、僧侶として、葬儀社として立ち会ってきた。
人は、生きてきたように死んでいく
人間の「生と死」の現場に一貫して身を置き続けるうち、私は三つの事に気がついたのである。
①人間は急には変われない。人は生きてきたように死んでいく。逝き方=生き方である。
②人の死は、多かれ少なかれ、周囲の人に何かしらの影響を与える。
③現代社会は、死から生を見る視点が欠けている。
①死に様は生き方だ。
どういう風な死を迎えたのかということは、どういう風に他者との関係性を結んできたのかを集約する。
あなたがもし最期に、ひとり孤独の中で死んでいきたくない、家族に囲まれて死んでいきたいと願うのならば、普段から家族との関係を良好にしておく必要がある。
死の間際になって、家族の絆が急に回復することなどあり得ない。
人は生きてきたようにしか死ねないのである。
人間は、普段から出来ないことは、イザという時にできない。
②東日本大震災で被害の大きかった東北三県を訪問していて、私は大切な人を亡くされたたくさんの方々からお話しを聞いた。
地震発生直後、津波が来ることを察知し、子供を高台まで背負って避難させた後、自宅にいる高齢の親族を助けに行って津波にのまれ、いのちを喪った人が大勢いる。
自分自身の避難を後回しにして、地元住民の避難を最優先させた結果、いのちを喪った消防団員や警察官も大勢いる。
そして、生き残ってしまった人々には、どうしてあの時、助けられなかったのかと自分を責めている人が多い。
つまり人間の「生と死」は、自分ひとりだけで完結するものではない。
周囲の人に確実に何らかの影響を及ぼすのである。
③世の中にはいろいろな人がいる。
お金持ちな人・貧しい人・有名な人・無名な人、頭のよい人・そうでない人・・・・。
人間は、生まれながらにして不平等である。
だが、死は誰にでも平等に訪れる。
人間の死亡率は100%である。
仏教用語に「生老病死」という言葉がある。
この世に生を受け、年を重ね、病気になり、死んでいくということは誰しも逃れられない。
にもかかわらず、私たちは「幸せになること」「長生きすること」「お金持ちになること」は考えても、自分自身の死について、また、どうやって死んでいくかについては、「縁起でもない」と言って考えることすら拒絶しがちである。
生と死は互いを内包しあう。
「死」を大切に扱えない社会が、どうして人間の「生」を大切に扱えようか?
子供たちに「死」を語れない大人が、どうして「生きる」ことの素晴らしさ、「いのち」の大切さを語れるだろうか?