私たちは本当に「無宗教」なのか

人間にとって最も困難な事は何だろうか?

私は「現実を直視すること」だと考えている。

中でも「死」とどう向き合うか?ということが、人間にとって最も困難なことであると感じている。

「死」を考える上でヒントとなるのが「宗教」である。

だが、日本人の多くは自らを「無宗教」と言う。

本当に私たちは「無宗教」なのだろうか?

以下、東日本大震災の被災地の現場で私の体験したことをお伝えしたい。

私たちは本当に「無宗教」なのか

粉雪が舞う日だった。それは忘れもしない2011年3月下旬のこと。

私は福島県内で瓦礫の撤去作業を行っていた。

すると、人間の腕と思われるものが見つかった。

周囲を見渡すと、自衛隊、消防、地元住民の方々など約10名ほどが瓦礫の撤去を行っていた。

私は「ここに人間の腕があります。力を貸してください」と、ありったけの声を出し、周囲の人々に協力を求めた。

そして約2時間後、重機を使って中年の男性と思われるご遺体を、瓦礫の中から引きあげたのである。

ご遺体を毛布でくるみ、行政が指定する遺体安置所へ自衛隊の方の力を借りて搬送する。

その時だった。

ご遺体を囲むように、その場にいた誰しもがごく自然と輪になり、手を合わせ、深々と頭を下げたのである。

そして、自衛隊のリーダーと思われる方が一言、「瓦礫に埋もれていて、重かったでしょう。苦しかったでしょう。長い間、本当にお疲れ様でした」と、ご遺体に向かって語りかけたのである。

そして、自衛隊の方々はご遺体に一斉に敬礼をして、丁寧に車へ運んだ。

その姿を残された私たちは見つめ、車が見えなくなるまで見送った。

誰ひとりとして、そこから離れる人はいなかった。

ある人は合掌し、ある人は深々と頭を下げていた。

そこには死者に対する敬いがあった。

翌日、同じ場所を訪れると、ご遺体が発見された場所には花が供えられていた。

私たち日本人の多くは自らを「無宗教」と言う。

しかし、本当に「無宗教」なのだろうか?

「死ねば終わり」と考えるのであれば、亡くなった人に対して語りかけても無駄であろう。

特定の信仰を持っている、教団に帰依していると自認する人は少ないのかもしれない。

だが、宗教心や宗教的感性は、誰しもが潜在的に持ち合わせているのではないか。

圧倒的な自然の力の前では、人間は無力だ、人生は儚い、人間はいつか死ぬ。

そういった、「当たり前の現実」に否応なしに向き合わざるを得ない時、また、己の力を超えた世界に触れる時、祈りを捧げるという行為が自然と生まれることを、私は体験として学んだのである。

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