(承前)休戦ラインだけで囲まれた異常な国
ナクバの奈落の底 パレスチナ問題の現在を突破するには(後半)
板垣雄三 いたがき・ゆうぞう
1931年、東京生まれ。東京大学名誉教授、東京経済大学名誉教授。
『歴史の現在と地域学 現代中東への視角』
『石の叫びに耳を澄ます 中東和平の探索』
『イスラーム誤認 衝突から対話へ』なと、著書多数。
いま私たちが見ている現実から読み取れるのは、パレスチナ問題を「(民族・宗教)紛争」あるいは「土地争い」と片付ける見方や、当事者は互譲の精神で妥協点を見つけるべきだと言いくるめてきた
「和平プロセス」言説が、無残に破綻している姿だ。
また、抹殺されようとしているパレスチナ人の運命を視野に入れないでホロコーストを語ることの、空虚さ・欺瞞性だ。
そして「冷戦」体制とその後、また20世紀社会主義とその後など、仮想を操る欧米中心の世界秩序の終局における自壊の姿だ。
そこでは、ポストコロニアル時代の植民戦争国家イスラエルの自滅への過程、キリスト教原理主義が命取りとなる可能性をもつ米国覇権の衰退のステップ、欧米中心主義に支えられた「民主主義」の偽善的な自己破産に巻き込まれる危険に直面する人類の危機、これらのことを、透視し感知しなければならない。
(4)ショアー(ホロコースト)とナクバの並行性
「ショアー」はヘブライ語、「ナクバ」はアラビア語で、いずれも大災難とか大災厄という意味だが、日本ではエリ・ヴィーゼルが捻りをつけて使ったホロコーストの語の方がわかりやすいかもしれない。
ナチス・ドイツのホロコーストがあって、その後イスラエル国家が成立し、その過程でナクバが起きた、というように、時系列としても、因果関係においても、まずホロコーストがあり、続いてナクバが起きたとする理解が一般的である。
そこで、このようなホロコースト観を改めて捉えなおす必要がある。
1933年にドイツでナチ政権が生まれると、ヨーロッパからパレスチナにユダヤ人を移住させる形での、ある種の棄民的な植民運動が起こる。
33年以降ヨーロッパ、ことに中央・東ヨーロッパからパレスチナへと、ユダヤ人の植民が押し出されることになり、パレスチナ社会の構成にも激変が生じることになった。
英国のパレスチナ委任統治は、パレスチナにユダヤ人の国を造ることがもともとの目的だったのだが、先に述べたように最初は思うように移民が流入せず、パレスチナ社会全体でのユダヤ人の比率はなかなか増大しなかった。
それが1930年代終わりにはパレスチナ人口の3分の1がユダヤ人となる。
ナチズムがあって初めて、パレスチナにイスラエル国家の土台ができあがった。
ナチズムとシオニズムは水と油のごとく相容れない関係というのではまったくない。
ナチズムとシオニズムの協力関係は重要な問題である。
ナチ体制下、ナチ関係の団体以外で認めらていたのがシオニストの活動だった。
ナチズムとシオニズムが被差別者ユダヤ人を炙り出し、前者が効果的に脅迫・排除し、後者がバレスチナへの移住者を選抜し移住者リストを作成する。
英国の領事館がバレスチナ入国ビザを発行する。
移住のための資金は米国の財団が課税免除の優遇措置のもとで援助する。
そのような国内的・国際的「連携」でパレスチナ植民は行なわれ、イスラエル建国の土台が作られていった。
パレスチナ人の立場から見れば、世界全体が一致協力して、イスラエル建国を進めていたことになる。
そのような状況の中で、ヨーロッパでは1938年に「水晶の夜」と呼ばれる、劇的な反ユダヤ主義暴動が起こる。
欧州で反ユダヤ主義の嵐が巻き起こった当時、パレスチナではユダヤ人入植者の増加とともにパレスチナの中のユダヤ人社会が大膨張した時期で、それにともない、労働・社会主義シオニズムの人種主義が刺激され盛り上がることになった。
シオニストの活動家としてパレスチナに入植した旧ロシア社会民主党員などの人びとが、欧州からのユダヤ人移住者に職を与えようと「労働の征服」と称して行ったアラブ労働者排除や土地の取り上げが1930年代後半に激化したのである。
そこで、36年から39年にアラブ大反乱が起こり、それに対する英委任統治政府およびシオニスト武装勢力によって徹底的な弾圧が加えられ、アラブの政治組織は壊滅させられた。
ナクバの前提条件は、こうしてヨーロッパでのホロコーストの前奏としての激しい反ユダヤ主義の嵐と並行して用意されていたのだった。
39年、第2次世界大戦の開戦でヨーロッパから移住者を自由に吐き出しにくくなると、今度はヨーロッパの内側で強制収容所を作り、ナチズムの心理を解剖すれば、オン・ザ・スポットのユダヤ人虐殺へと転化する。
いわば棄民方式から焼却炉方式への転換だ。
しかし、その動きだけをホロコーストと捉えていいのだろうか。
ナチ政権が進めたユダヤ人虐殺が30年代からの過程の帰結であったと考えるならば、ナクバも1948年に突如起きたのではなく、パレスチナ人の抵抗運動が徹底的に弾圧され、社会団体が解体される36年からの事態、否、17年バルフォア宣言からの過程の帰結だと言わなくてはならない。
冒頭に述べたように「ナクバ70年」とはナクバが70年間持続した問題として捉えるべきだが、同時に1930年代ないし10年代からの「ナクバ前史」を考えることも重要なのだ。
とするならば、むしろナクバが先にあってホロコーストへと拡がったとも言える。
ホロコーストがなければイスラエルという国は生まれなかったかもしれない。
しかしホロコーストがあって、その「償い」としてのイスラエル国家出現に意味があるという立場については再考することが必要である。
今日まで続くナクバの現実を徹底的に批判することなくして、ホロコーストを本当に批判することができるのか。
70年続くナクバへの批判、つまりイスラエル国家批判をしなければ、ホロコースト批判の立場を貫くことにはならない。
本当にホロコーストの犠牲者を悼むのであれば、これまでに殺された人びとを悼むだけではなく、今、私たちが立ち会っている現実の中で、差別され排除され殺される人がいることに対して私たち一人ひとりがどういう態度を取るのかが問われているのだ。
(5)既成事実化を進める「戦争国家」イスラエルの領域的可塑性
イスラエルという国は、「戦争国家」として生まれたーーー。
このことを、最初に押さえておかなければならない。
イスラエル国家の誕生時、シオニスト武装組織のテロ活動が大きな問題だった。
英国の中東パレスチナ問題担当大臣モイン卿(ウォルター・ギネス)の暗殺、委任統治政府のオフィスなどがあったエルサレムのキング・デイヴィド・ホテルの爆破などのテロ活動の中で、イスラエルという国ができていったのだ。
建国後も、エジプト人の犯行と見せかけたエジプトの米国文化センターや映画館の爆破といった偽旗テロ事件(後出)を起こした。
エジプトでのテロ作戦はその後表沙汰になり、イスラエル国防相が責任を問われた(ラヴォン事件)。
パレスチナ戦争さなかの48年9月には、国連パレスチナ調停官として活動していたスウェーデン王族で外交官のベルナドッテ伯がエルサレムで暗殺される。
シオニストの地下組織「レヒ」(イスラエル自由戦士団)の手によるもので、事件の責任者イツハク・シャミールは後年、イスラエル首相に就任する(第8、10代)。
王族を殺されたスウェーデンはイスラエル国家に対して当然のことながら批判的な立場を取っている。
47年の国連パレスチナ分割決議の後、その分割予定線を暴力的に変更させようとして、ユダヤ人の国の範囲を拡張しようとするシオニストの計画が組織的に遂行され、その一環として、48年4月には地下組織「イツル」(イスラエルの地の民族軍事組織)がデイル・ヤーシーン村のアラブ人村民を虐殺する事件が発生する。
このナクバを象徴する事件の実行者リーダーだったメヘナム・ベギンも後にイスラエル首相となるのである(第7代)。
47年のパレスチナ三分割決議でユダヤ人国家は成立したことにされているが、アラブ国家はできず、エルサレムの国際化も実現するどころか街の真ん中に南北の軍事境界線が通り、イスラエルとヨルダンとにより東西に分割された都市となった(67年6月初めまで)。
これが1949年の現実だった。
国連分割決議が守られないことによって、決議を遵守しないシオニストの軍事国家が、予定された分割とは似ても似つかぬ景色を伴って出現したのだ。
イスラエルは1948年5月に独立を宣言、49年春には(イラクとは戦争状態のまま)休戦ラインだけで囲まれた異常な国として形をなすが、国連総会は、49年5月決議273によりイスラエルの国連加盟を認めた。
「ピース・ラヴィング・ステイト(平和愛好国)」と認定する決議だった。
賛成した国が37、反対13、棄権19。
中東・イスラム圏の諸国家の賛同が欠ける状態でイスラエルは国連加盟国となった。
欧米中心主義の前哨・尖兵の役割を担って。
日本では「イスラエルは国連決議に基づき生まれた」と認識している人が多い。
国連の構成国も成立直後に比べて著しく多様かつ広範なものとなった。
しかし、イスラエル国家の行動に対して国連の場で挙げられる批判・非難の声が米国の拒否権で封殺されてきたことに注意する人も、日本では少ない。
それでも、1970年代から80年代、国連総会はパレスチナ人の固有で不可譲の権利を繰り返し認め、2012年国連はパレスチナをオブザーバー国家に格上げ、つまり国連はパレスチナの国家承認に踏み込んだ。
だが、ナクバ70年の現実のもとで、パレスチナ人は「パレスチナ国家」の幻想を、そして「国」を超える課題を、今どのように捉え返しているだろうか。
イスラエルの「領域的可塑性」に話を移そう。
「戦争国家」として生まれたイスラエルは、その出発点では国境線を持たない国だった。
パレスチナ戦争の休戦ラインが「境界線」だったのだ。
周囲から認知された国境線を持たず、国の範囲は確定されていない。
それこそ、イスラエルが膨張し続ける条件でもあった。
1956年のスエズ戦争では、国連緊急軍の配置をエジプト側は受け容れたけれども、イスラエル側は拒否、それが67年の六日戦争(第3次中東戦争)に繋がる原因となる。
その2年前の65年、マレーシアから分離独立したシンガポールが国軍を創設する際、イスラエルが協力支援を行い、イスラエルは東南アジアに重要な拠点を確保する。
今年6月、米朝首脳会談の予定の場所がなぜシンガポールなのかということにも繋がる。
アーデルソンの賭博商売の話だけではない。
さらにイスラエルは、東南アジアの華人をつうじて、中華人民共和国への多様な影響力浸透チャンネルを開拓するようにもなる。
シンガポールはイスラエルのアジア東方へのアクセス基地だ。
1967年の六日戦争は、すでに幾度も強調したように、イスラエル国家の地位確立や社会の変質にとって画期となった。
異常な人工的植民国家が仮想「国民国家」的「既成事実化」を果したのだ。
国際的認知は得られないが統一エルサレムの実質的支配が成り立った。
73年には十月戦争(第4次中東戦争)が起こり、やがてエジプトついでヨルダンと国境を共有することに道を開く。
シオニストの運動経験を参照するパレスチナ解放闘争が全面に立ちはだかり、国際的にイスラエル批判が高まる中、反〈テロ〉戦争コンセプト発案とその実行の地球的展開。
76年には国境線を無視してイスラエル空軍がウガンダのエンテベ空港を奇襲、ハイジャックの人質救出作戦を敢行。
79年にはエジプトーイスラエル平和条約締結、イスラエルがシナイ半島でエジプトとの間に確定した国境線はイスラエルが初めて持った国境。
同じ79年、米国の探知衛星が捉えた閃光から、南インド洋で、イスラエルと南アフリカが共同の核実験を行なった疑いが世界的に取り沙汰された。
南アは後に核を放棄するが、48年以降、この二つの国は人種差別のアバルトヘイト体制とその法整備などで歩調を合わせていただけでなく、秘密の核共同開発も進めていた。
81年にはイスラエルがイラクの原子炉を越境爆撃、国連でイスラエル非難決議が採択される。
同じ81年、イスラエルはゴラン高地を併合し、翌82年にはレバノンに侵攻して首都ベイルートを占領、PLOをレバノンから追い出す。
85年にはチュニジアに遠洋爆撃を行ない、首都チュニスのPLO本部を攻撃。
同じ年、米国でジョナサン・ポラードのイスラエル・スパイ活動が発覚。
ロビー活動により米国政治を底辺から操作する技術を磨きつつ、同時に米国内でのスパイ活動も行なっていたのだった。
86年には、米レーガン政権のイラン・ニカラグアにまたがる一大政治スキャンダル=「イラン・コントラ事件」が発覚し、仲介したイスラエルの役割も露見した。
イラン・イラク戦争で米国はイラクにイランを攻撃させ、他方、その攻撃で困っていたイランにイスラエルが武器を密輸する。
それに米国が便乗して、イスラエルのエージェントを使い、イラン・イスラム革命のホメイニ政権に武器援助を行ない、イランが支払った代金を、今度はニカラグアのサンディニスタ民族解放戦線の主導する革命政権に対して蠢動(しゅんどう)していた勢力「コントラ」(中米ニカラグアの親米反政府民兵」を支援する資金として使う。
こうした複合的な陰謀を画策していたホワイトハウスの隠密活動の実行局面で、証拠の隠匿・改ざんが綻び、たえず敵・味方を跨境するイスラエルの影が浮かび上がった。
88年にはヨルダン国王が西岸地区における主権を放棄し、パレスチナ問題打開の主体をめぐる中東政治地図の変化に一石が投じられた。
91年の湾岸戦争は、イラクのサダム・フセインが、占領地から撤退しないイスラエルを放置する「国際社会」の二重規準に反省を促すため、クウェートを占領・併合したという動きでもあり、アラブ民族主義の名による中東諸国体制への挑戦でもあった。
その後、92年から93年、イスラエルは北朝鮮との秘密の多面的協力を議する国交樹立交渉を北京で行なった。
湾岸戦争でイスラエルにミサイル攻撃を行なったイラクだけでなく、シリアやパキスタンなどにもミサイルを輸出している北朝鮮を、むしろ味方に抱き込もうとする戦略。
しかし米国から横槍を入れられたイスラエルは交渉相手を北朝鮮からPLOに転換、こうして成立するのがオスロ合意である。
中国での北朝鮮との秘密交渉からノルウェーでの社会主義インターを媒介とするPLOとの秘密交渉に舞台が変わった。
米国は交渉進行を後になって知り、形だけ調印式をワシントンDCのホワイトハウスで行ない、メンツを保った。
米国はイスラエルに引き回されたと言える。
93年から95年にかけて、オスロの原則合意から、前述した西岸を「自治」の形態でABC三地区に分けイスラエル軍の一部撤退を実施する協議をまとめたオスロIIの調印などがあった。
パレスチナ暫定自治政府が影響力を持てたのは西岸全体の2%にすぎぬA地区だけ。
ここでも、可塑性つまり境界線をきちんと決めないでいることがイスラエルのメリットと化すのである。
2000年、イスラエルは南部レバノンから一方的に撤退する。
実は80年代からレバノンではイスラエルが自在に行動できる状況があったが、シーア派のヒスボッラーの抵抗力もイスラエルに脅威となりつつあった。
2001年、第2次インティファーダの弾圧と再征服が進み、シャロン政権登場に伴い、オスロ合意の建前は実質的に壊滅する。
02年から西岸でパレスチナ人を隔離するアパルトヘイト政策が強化され、前述した壁の建設がはじまる。
2005年、イズラエルはガザから一方的に撤退、2006年には再びレバノンに侵攻し、シーア派のイスラム政治組織としての性格を強めてきたヒズボッラーの抵抗にひるむことになるが、その年、ガザでハマースの政権が成立すると、ガザ地区を封鎖、生活必需品を含むあらゆる物資の供給を断つ。
これが現在まで続いている。
その間、イスラエルのガザ軍事攻撃が何度も行なわれ、08年から09年はオバマ大統領の就任式の直前まで、日夜を分かたぬ市民殺害・生活破壊となった。
2007年にはシリア東部の、イスラエルが核施設だと見なす施設を空爆で破壊、これが今日までのシリアに対するイスラエルの公然たる越境攻撃の開始点となった。
現在シリアではイスラエル軍がシリア領内のイラン兵を公然と攻撃する、もはやシリア「内戦」を越えて、露・米・イラン・トルコ・ヨルダン・クルド人・ヒスボッラー・IS等々が角逐する戦争の国際化状況だが、ロシアは、イスラエルが抑えるゴラン高地の周辺までイランの軍事的影響力が拡がった状況のもとで、その攻撃を黙認している。
これらのことが、今、東アジアでの米朝関係の行方と深く絡み合い繋がり合っているのだ。
2010年以降、国連の場でも国際的にも、イスラエルの入植政策、戦争犯罪を批判し、パレスチナ国家を承認する動きが拡大、イスラエルの孤立が目立ってきていた。
14年夏のガザ攻撃は、それに対するイスラエル側からの挑戦であったとも言えよう。
そのような状況下で15年、イランの核合意(JCPOA:包括的共同作業計画)が成立するのと並行して、NPT(核拡散防止条約)再検討会議が開かれて160カ国が参加し、会議での最大の課題だった中東の非大量破壊兵器地帯化構想が取り上げられた。
しかしイスラエルはイラン核合意には強く反対する一方、NPT再検討会議では自国の核について曖昧政策を貫きながら、米国とともに中東の非核地帯構想を葬り去るように動いて会議を決裂させた。
イスラエルの孤立は目立つが、イスラエルの核をめぐる問題の壁は突破できない状況がある。
そんな中、17年にトランプ政権が成立した。
トランプ大統領は、米国の中で特殊な終末論に立つ福音派(エヴァンジェリカルズ)を重要な支持基盤としている。
彼らは熱烈なイスラエル支持者で、トランプはオバマ前政権を敵視して、オバマがイスラエルの入植政策を厳しく批判しイランとの核合意を決めた政策を全面拒否し、親イスラエルの立場を顕示してキリスト教原理主義者たちからの人気を煽りながら、現在は中間選挙の勝利を目標に動いている。
国際法も国際人道法もないがしろにしつつ、パレスチナ問題のなかのエルサレム問題がポピュリストの宣伝材料に使われ、イスラエルの「民族浄化」への野望が実現されつつある。
(6)ポストコロニアル植民地主義の批判が根本の課題
「ポストコロニアル・コロニアリズム」という視点で問題を見ることの重要性を最後に指摘しておきたい。
「『植民地の時代は終わった』ことにしている時代の植民地主義」、それがイスラエル国家の在り方の問題性を表しているだろう。
ポストコロニアル植民地主義批判をきちんとできるかどうかが、将来に向けての私たちの認識の可否が決まっていく「鍵」であると考える。
民族対立、宗教・宗派紛争のように、第三者が「困ったものだ」と眺めるような外側からの視点では、当事者双方ともに頑迷で、決着点も落としどころも見つからない「紛争」としか見えない。
しかし実際には、つねに問題を「紛争」にすり替えるようなような政治宣伝やメディア操作が行なわれているのである。
それは欧米中心主義の世界秩序が終焉を迎える過程における、破れかぶれの、しかし技術だけがひとり歩きしてしまう状況と関係している。
西洋のキリスト教(教義的に「正統派」と名乗ってきた諸教会)に連なる歴史的に根の深い反ユダヤ主義を引きずりながら、最先端技術でいかに騙して支配するかという、せっぱつまった現実主義として展開しているのだ。
そのような悪しき科学技術利用と大衆心理操作の現実主義とが組み合わさっている状況への批判として、ポストコロニアル・コロニアリズムのイスラエル国家に対する批判が重要となる。
パレスチナ人を一人ひとりファイリングして把握、或る人がやったことにして別の人間が事件を引き起こす「偽旗(フォールス・フラッグ)」という国家テロ手法など、「戦争国家」イスラエルの在り方・動き方は尋常ではなく、いろいろな謀略が渦巻き、新しいインテリジェンスの下で新しい支配方法、
新しい欺瞞の技術、新しい嘘の物語が生みだされている。
元来だが、殊更1990年代から急速に拡がるようになったこの状況の中で、パレスチナの現在を捉え直してみるべきだ。
イスラエルは、今、再定義した「ユダヤ人国家」を標榜し、それを世界中に受け入れさせようとしているが、ユダヤ教徒の中からもイスラエル批判が高まっている。
欧米ではイスラエルを批判する者には反ユダヤ主義のレッテルを貼り、あらゆるイスラエル批判をタブー視してきたが、その呪縛は今や溶解しようとしている。
ホロコーストを、日本の戦争犯罪・植民地犯罪もろとも、それらが起きるのを許してしまった歴史を反省し批判しようとするなら、現在のガザ・西岸の状況を見て、私たちはどうするべきであるか、歴史の審問の前に立たされている、と感じる。
【岩波書店 「世界」 2018年7月号掲載(後半)】