ナクバの奈落の底 パレスチナ問題の現在を突破するには①

ナクバの奈落の底 パレスチナ問題の現在を突破するには

板垣雄三 いたがき・ゆうぞう1931年、東京生まれ。東京大学名誉教授、東京経済大学名誉教授。

『歴史の現在と地域学 現代中東への視角』
『石の叫びに耳を澄ます 中東和平の探索』
『イスラーム誤認 衝突から対話へ』なと、著書多数。



いま私たちが見ている現実から読み取れるのは、パレスチナ問題を「(民族・宗教)紛争」あるいは「土地争い」と片付ける見方や、当事者は互譲の精神で妥協点を見つけるべきだと言いくるめてきた「和平プロセス」言説が、無残に破綻している姿だ。

また、抹殺されようとしているパレスチナ人の運命を視野に入れないでホロコーストを語ることの、空虚さ・欺瞞性だ。

そして「冷戦」体制とその後、また20世紀社会主義とその後など、仮想を操る欧米中心の世界秩序の終局における自壊の姿だ。

そこでは、ポストコロニアル時代の植民戦争国家イスラエルの自滅への過程、キリスト教原理主義が命取りとなる可能性をもつ米国覇権の衰退のステップ、欧米中心主義に支えられた「民主主義」の偽善的な自己破産に巻き込まれる危険に直面する人類の危機、これらのことを、透視し感知しなければならない。

(1)パレスチナの現状をどう見るか

「ナクバ70年」の今年、パレスチナの惨状に世界中の心ある人びとが心を痛めている。

ことに70年前イスラエル国家の成立が宣言された5月14、15日、ガザ地帯とイスラエルの境界柵周辺で、パレスチナ難民の故郷への帰還をめざす非暴力「帰還大行進」がイスラエル軍の実弾による銃撃を受け、パレスチナ人参加者の内60人以上が殺される事態となった。

3月末からの死傷者は数千人に及ぶ。

子ども、医師、ジャーナリストが狙い撃ちされる。

さすがに、このような事態には、欧州でもイスラエル指導者の戦争犯罪を問う声が上がっている。

12年間も物資補給を厳重に遮断する封鎖と市民生活への軍事攻撃とによって窮乏・半致死状態に閉じ込めてきた200万人のガザ住民が、絶望のあまり大挙して境界柵に押し寄せるのを、イスラエル当局は恐れているのだ。

この恐怖は、封鎖の片棒担ぐエジプト政府も、今やイスラエルと提携するサウジアラビア政府も、自国内の反発の引き金となる予感とともに分かち合っている。

「ナクバ」とは、1948年、パレスチナにイスラエル国家ができる前後にシオニスト軍事組織が惹起したパレスチナ・アラブ住民の虐殺と追放、それにともなう離散のことで、大災厄・大破局などと訳される。

それから70年の節目である上に、昨年12月、トランプ米国大統領がエルサレムをイスラエルの永久・不可分の首都と認定し米国大使館をテルアビブからエルサレムに移転させると発表、それが5月14日に実行されるという緊迫した状況が、「ナクバ70年」をことさら劇的なものとした。

この事態は、単にパレスチナ問題がまたもや緊迫して深刻な新段階を迎えたことを意味するだけではない。

民族意識を形成し獲得してきたパレスチナ人の存在そのものが抹殺される、すなわち「民族浄化」としての「ナクバ」が70年で完成される局面にさしかかっていることに注目すべきである。

イスラエルは、占領下のヨルダン川西岸地区で2002年から複雑に張り巡らす分離壁を建設し、地下の水源のあるところをイスラエルの管理下に取り込み、パレスチナ人を水資源から遠ざける画策を実行してきた。

パレスチナ人がそもそも生きていけない、他に移らざるを得ない状況を系統的に作り出してきたのだ。

その或る決着点に、2018年がある。

「ナクバ70年」とは、重大な歴史的事件が70年前に起きたのを記念するという区切りではない。

70年間にわたって持続的・累積的に深刻化してきた事態が、ついに逢着している現実を熟視し達観する機会ということでなければならないだろう。

パレスチナ問題を考える際、日本の中にも参照軸があることに絶えず気付かされる。

辺野古の新基地建設に反対する人びとは、日本の中で孤立しながらも抵抗を持続している。

それにもかかわらず基地は建設されていく。

パレスチナでは実弾で撃ち殺され、沖縄ではごぼう抜きという違いはあるとしても。

私たちは、辺野古で座り込む人びと、道路牢の中で耐える人びとが、ガザと本質的に繋がり合う状況と対峙しているのだという直観力から学ぶべきだ。

また、福島原発事故で郷土を失い家族が散り散りになった人びとの問題も、パレスチナ人が「ナクバ」の中で今なお経験し続けていることと繋がり合っている。

私たちは「ナクバ70年」という言葉を、自分たちに引きつけて考えなければならない。

(2)トランプ「世紀のディール」


1917年「バルフォア宣言」(パレスチナでのユダヤ人の「民族郷土」設立を英国が支持表明した宣言)で、「ユダヤ人対アラブ」という対立構造が発明され、国際問題としてのパレスチナ問題が具体的に動き出した。

その帰結として第1次世界大戦後に設定された英国委任統治は操縦不能に陥っていくが、第2次世界大戦後の1947年、誕生まもない国際連合が住民の意思を無視し国連憲章に反するパレスチナ分割決議
(パレスチナをユダヤ人の国、アラブの国、国際化されたエルサレムに三分割する案)を採択。

これに乗じて48年5月14日深夜イスラエル独立が一方的に宣言されると、それに引き続くパレスチナ戦争(第1次中東戦争)となり、イスラエルとアラブ諸国との間で個別に休戦協定が結ばれるのが1949年。

それら休戦ラインを繋ぎ合わせる形で、イスラエルという国の形が浮かび上がることとなった。

エルサレムはヨルダンとイスラエルとにより東西に分割された。

その後、1967年六日戦争(第3次中東戦争)でイスラエルは大勝し、西岸・ガザ・ゴラン高原を占領、(国際的非難の中で)東エルサレム併合宣言、こうしてパレスチナ全土を征服し、さらにシナイ半島まで制圧した。

これを機に、六日戦争の後始末としての「中東和平」が国際問題となり、「土地と平和の交換」(六日戦争の占領地の返還とイスラエル国家承認との交換)が議題にされる。

こうして、1947、48年問題は不問に付され、イスラエル国家は既成事実になってしまう。

パレスチナ人という政治的主体がつよく自覚されパレスチナ解放機構(PLO)として動きだすのは、ここからだ。

国連では、出発点の誤りを正すため、1970年代以降パレスチナ人の自決権を繰り返し確認、シオニズムの人種差別批判を決議し(のち米国の圧力で取消し)、PLOをオブザーバーと位置づけた。

パレスチナ人の武装闘争の展開とこれへの国際的な連帯運動に対して、イスラエルは世界規模で「反〈テロ〉戦争」と称する対抗作戦を拡げた。

PLOは抵抗の拠点を追われ続け、80年代末以降、被占領地パレスチナ人民衆のインティファーダ(占領軍への抗議運動)とともに、西岸とガザが抵抗の主舞台となる。

圧倒的な力の差と米国の支持とを背景に、イスラエルがPLOを交渉の相手と認め、イスラエル国家とパレスチナ自治との釣り合わぬ二国家並立方式でパレスチナ問題「解決」をめざす原則合意がまとまるのが1993年のオスロ合意。

しかしその2年後、合意に調印したイスラエルのイツハク・ラビン首相が極右のユダヤ教徒青年に殺され、中東和平交渉は名目化し、ジグザグの停滞状況のもとで占領地でのユダヤ人入植地建設が進行する。

交渉が決定的に行き詰まり新たなインティファーダが弾圧される最中の2001年、米国で9・11事件が起こり、世界の局面は米国が先頭に立つ「反テロ戦争」に大転換。

04年にはイスラエル軍重包囲下のパレスチナ「大統領」ヤーセル・アラファートが不可解な死を遂げることになった。

そして06年を機にイスラエルはガザ地帯を封鎖。

仕事も油も薬も灯火も水道水も無い貧窮に加え、空襲・ミサイル攻撃で家屋が破壊され続けるガザは「青空監獄」と言われる。

かつてのワルシャワゲットーの悪夢の拡大・永続化が、ガザに身を寄せた難民たちの運命なのだ。

西岸地区でも、パレスチナ住民は失業・土地収用・家屋破壊・果樹伐採・恣意的逮捕・司法手続きを欠く投獄・壁に邪魔される救急患者・壁を越える通学・戒厳令・検問所での嫌がらせ、など、ありとあらゆる人間的屈辱と迫害と生命の危険に曝される。

タカ派化、右翼化が進む21世紀のイスラエル社会は、エルサレムの米大使館開設式典でネタニヤフ首相が「エルサレムを首都にしたのはダビデ王以来」と述べたように、パレスチナ人を「イスラエルの民の敵」とされ滅ぼされた存在として聖書に登場する「アマレク人」に擬し、彼らを抹殺せよ、エレツ・イスラエル(イスラエルの地)からパレスチナ人を消去せよとの叫びがこだまする、そんな社会になっている。

反対するイスラエル市民の声を圧倒する。

こうした現状に合わせて、パレスチナの未来を描くのが、トランプ大統領の自賛する「世紀のディール」なのだ。

トランプはこの「ディール」を中東で、パレスチナ問題で、実現すると言う。

では、「世紀のディール」とは何か。

今年3月サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマーン皇太子が訪米した際、ホワイトハウスでトランプの娘婿ジャレド・クシュナー中東和平問題特使、その補佐で中東・パレスチナ問題担当のジェイソン・グリーンブラット外交交渉特別代表と会談し、その内容をパレスチナ自治政府サイドに伝えたという。

パレスチナ側の中東和平交渉責任者のサーエブ・エレイカートがそれを公表してしまったので、間接的だが、その中身がほぼ判明した。

曰く、「パレスチナ国家」の首都はエルサレム東南郊外の小村アブ・ディースに置かせ、エルサレムからは分離。

統一した東西エルサレムをイスラエルの首都とし、その主権下に置く。

さらに西岸全体の10%から15%に相当する入植地ブロックのイスラエル併合を承認する。

両サイドで安全保障観念の共有が必要であり、「パレスチナ」は強力な警察力は持つが非軍事化を原則とする。

ヨルダン・エジプト・米国が提携して「パレスチナ」の安全保障に協力し、イスラエル軍はヨルダン渓谷沿いに常駐。

非常時にあっては、イスラエルが安全保障上の優越的な責任を担保することを条件とする。

また、この「ディール」の具体的実現状況に応じて、1995年のオスロIIが定めたヨルダン川西岸のパレスチナ自治区の三分類(A地区=パレスチナの自治、B地区=行政・警察権の半分をイスラエルが分担、C地区=イスラエルが全権を担う)設計に基づき、A地区(西岸のわずか2%)とB地区およびC地区の若干部分から、イスラエル軍の撤退を米大統領は提案する、という。

さらに、この取り決めは、イスラエルが「ユダヤ人国家」であることを国際的に承認させ、パレスチナ人にそれを絶対条件として認めさせることを意味するという。

ここで言う「ユダヤ人国家」とは、パレスチナ人の介在を許さない、いわば新しい意味合いのもの。

パレスチナ人には西岸ーガザ間の連絡路の往来、アシュドッドとハイファの二つの港湾施設の一部ならびにベン・グリオン空港の使用が制限付きで認められる。

「パレスチナ国家」の対外連絡には絶えずイスラエルが関与し、通す人と通さない人とを仕分けする。

イスラエルとアブ・ディースを首都とする「パレスチナ」との間の境界線や、両者それぞれの永続的地位についても、まず「ディール」が先で、その後にそれらの将来を最終決定する方向に進んでいくこととする、というのである。

以上がサウジのムハンマド皇太子が聞いたとされるトランプの「パレスチナ」将来像だ。

現状よりさらにパレスチナへのイスラエルの管理は強化されそうで、パレスチナ自治の実質的否定と言うべきものだ。

パレスチナ人の住む場所は、アパルトヘイト体制下の南アフリカの原住民居留地(ネイティヴ・リザーブス)と同様、ばらばらに分散・分断される。

そのような「ディール」が、イラン核合意離脱や米朝首脳会談を開いて北朝鮮の体制保証に踏み切るかどうかというグローバル局面での諸「ディール」と組み合わせて一体的に考えられいるはずだ。

「ディール」の内容は明らかに国際法を無視するものだが、特に問題なのは、1948年以降のパレスチナ難民の帰還権についてトランプが何も言及しないこと。

言及しないのは、パレスチナ難民の帰還権の否定と同じことである。

ブッシュ息子大統領の暗示の実行者になろうとするのだろう。

1948年12月の国連総会決議194は、難民の帰還権または補償を受ける権利の可及的速やかな行使を保障し、実施のための仏・トルコ・米の三国で構成する調停委員会を成立させたのだった。

米国はこの決議に賛成し、その責任を受け入れていたのである。

トランプは目先の利益、具体的には11月の中間選挙に向けて、政権支持層を固め広げるために動いている側面が目立つ。

ロシアも中国も、パレスチナ問題で大きく動こうとはしない。

インドも含めて、いずれも米国・イスラエルの「反テロ戦争」に関して同調国なのだから。

「ナクバ70年」のパレスチナ人民衆は、世界中のあらゆる勢力から見放されたかのようにも見える。

しかしこのような現象は、あとで再度触れることになるが、欧米中心の世界秩序の断末魔を示すものだと私は見ている。

そして現在の、一見イスラエルと米国が勝ち組となっているかと見える状況は、結果的には、自ら墓穴をひたすら掘っている過程なのだということになるのではないか。

(3)「中東諸国体制」の正体


バルフォア宣言が予定したユダヤ人国家(イスラエルとして実現)を含む「中東諸国体制」とは何か。

その成立の経緯と現状とを見直しておこう。

私はかねてより、その解体の可能性や経路に関心を持って観察を続けてきた。

第1次世界大戦さなかの1916年、サイクス・ピコ協定が結ばれた。

これは英仏露の秘密条約で、オスマン帝国、ことにそのアラブ領域を山分けする戦後計画をこっそり策定して、連合国の主要三カ国である英仏露が長期化した戦線での軍事的協力関係を固め直そうとするものだった。

その秘密の協定文書が、1917年11月のロシア革命において、革命勢力ボルシェヴィキの手でサンクトペテルブルク(当時はペトログラード)のロシア帝国外務省金庫から取り出され、世界に暴露された。

第1次世界大戦を「ドイツの軍国主義との自由の戦い」などと宣伝していた連合国側はあわてて、それぞれの国内で第1次大戦の戦争目的を正当化する釈明に追われる。

このサイクス・ピコ協定で、主として英仏がアラブ地域を地図上で色分けして将来の勢力範囲を決めた時点では、パレスチナ問題はまだ具体化していなかった。

その後1920年に開かれた英仏伊日など連合国のサン・レモ会議(後出)で、サイクス・ピコ協定による領土分割計画の具体化のための変更・調整が取り決められた。

サイクス・ピコ協定ではフランスが取ることになっていたジャズィーラ(北イラク)で石油が出ることを知った英国がこれを横取りし南のメソポタミア(南イラク)と合体させて、サン・レモではイラクの枠組が出来上がる。

英国はさらに、1921年帝国内のカイロ会議で、ヨルダン川の西側を「シスーヨルダン(ヨルダン川のこちら側)」、東側を「トランスーヨルダン(ヨルダン川の向こう側)」とし、パレスチナの範囲をシスーヨルダンと定める。

新たに設立された国際連盟が、或る強国に或る国の住民の自治能力が発揮されるようになるまで代わって統治に当たることを委託する「委任統治」という新しい植民地支配の方式を創ることになり、それを利用して、英国がパレスチナとトランスーヨルダン(現在のヨルダン)とイラクを、フランスがシリアとレバノンを、それぞれ治めるサン・レモ体制が成立した。

こうしてバルフォア宣言を実現する予定地としてのパレスチナの範囲を決める縄張りの縄を伸ばしていってイラン、トルコからエジプト、北アフリカにかけての国分けの仕組み=中東諸国体制が、英仏を中心に大国の線引きによって造り出されたのである。

英国のパレスチナ委任統治は、このような経緯を経て1922、23年頃から機能しはじめる。

ビラードッシャーム(シャームの地=ダマスクスを中心とする歴史的シリア)の南西部の漠然とフィラスティーンと呼ばれた地方で、支配領域の枠組としてパレスチナの範囲が決められた。

そこで最初「パレスチナ人」とは、この英国のパレスチナ委任統治下に括り込まれた人びとのことだった。

だから、彼らは広い意味でのシャームの人であり、アラブであり、イスラーム・キリスト教・ユダヤ教・ドルーズなど諸宗教・諸宗派のいずれかに属する人であり、あるいは中・東欧・ロシアなどから移住して来たユダヤ人植民者だったりもした。

現在のパレスチナ人意識は最初からあったのではなく、英国統治、そしてナクバを経て、イスラエル国家ができる歴史の動きとその支配の現実の中で、生活・生業・環境・人間的尊厳を護るための抵抗をつうじて獲得されてきたものである。

国際連盟の英仏への委任は表向きで、実際にはすべて英仏中心に進められた。

パレスチナ委任統治規約も英国が策定するが、その内容はほぼ逐条的にバルフォア宣言を受け継ぐものだった。

それゆえ、英国のパレスチナ統治とは、アラブの中からユダヤ教徒を切り離し、アラブとユダヤ人の人口統計を見比べつつ両者間の対立を利用・操縦する統治をつうじて、ユダヤ人代表機関を使ってイシューヴ(パレスチナのユダヤ人社会)の拡大を管理して「ユダヤ人国家建設予定地」の看板を掲げる支配だったと言える。

19世紀末葉にはロシア帝国のツァーリズム(皇帝支配)下でのポグロム(ユダヤ人襲撃・虐殺)を逃れてパレスチナに移住した人びとがいたが、英国委任統治の初期には植民者の到来は低迷していた。

この状態を一変させたのは1933年ドイツにおけるナチ政権の登場だった。

やがてイスラエル建国が成る人口的基礎条件を整えたのは、ナチズムだった。

こうして、英国のパレスチナ委任統治においては、「住民の自治能力が発揮されるようになるまで」という場合の「自治能力を持つ者」とは、そこに現に暮らしていた先住民ではなく、パレスチナに将来入植してくるであろうコロン(植民者)たちを予定してのものだった。

「中東諸国体制」は最初から、後にできるユダヤ人国家イスラエルを基軸に、上から「ユダヤとアラブの対立」構図を操る道具立てとして作られたものである。

「アラブーイスラエル紛争」などという言葉に惑わされて、それを固定的に捉え、イスラエルがアラブ諸国に割り込んだため紛争が起こったとするような見方には問題がある。

実際には、シオニズム運動を利用しながら、中東全体の支配・管理システムが組み立てられてきたのであり、アラブ諸国はもちろん、さらにその縄張りと連結して形づくられたトルコやイランのような国々も含め、中東諸国のシステムは本来イスラエルとワンセットの装置であることを見分けなければならない。

駐イスラエル米国大使館をエルサレムに移転したことも関係する5月14日、15日のガザの惨状を、アラブ連盟は「国際法上問題だ」としながらも、実際にはなんら特別な対応を取れずに終わった。

このことで、アラブの国々も変わったという受け止め方があるが、それはそもそもアラブ諸国というものの在り方の理解を吟味する必要がある。

中東諸国は、いわば欧米の中東支配の「装置」として最初から予定されたものであり、急にアラブの人びとの考えが変わったとか、最近米国への依存度が高まって、反対したくてもできなくなっているというようなことではないのだ。

ちなみに「イスラム国」(IS)は、イスラエル国家の存在に極力触れないようにしていた。

彼らが対抗意識を燃やすのはシーア派、ことにイラン。

ISがことさらサイクス・ピコ体制の打破を掲げる一方で、サン・レモ体制は一顧だにしようとしないのは、つまりはイスラエルに、またパレスチナ問題に、できるだけ触れないで済ませようとしたからだ。

ISの思考戦略がそのような構造になっていることは、最初から見破られなければならないことだった。

1920年のサン・レモ会議には、日本も参加していた。

第1次世界大戦の戦後体制(ベルサイユ体制)を取り決めるパリ講和会議の日本側代表は、主席全権が西園寺公望、次席全権が牧野伸顕(吉田茂はその娘婿に当たる)で、牧野の全体的な差配の下で日本代表としてサン・レモ会議に参加したのが松井慶四郎駐仏大使だった。

松井は、太平洋での日本の委任統治や、山東半島をはじめ中国でのドイツ利権の継承など、日本の利権を確保・認知させるため、オスマン帝国の分割と中東新体制に積極的に賛成する推進役の立場を取った。

その意味で、日本もパレスチナ問題の設定に加担することで手を汚している。

イスラエル建国の過程で、日本も歴史的責任を負っているのである。

イスラエルという国を生みだす初動の態勢を整えたのは英仏だったが、第2次世界大戦後、その推進の主導者は米ソへと交代する。

イスラエル建国の際のパレスチナ戦争を第1次中東戦争とすると、第2次中東戦争は1956年のスエズ戦争で、これは、生まれたばかりのイスラエルを引き入れて英仏が内密の三国軍事同盟を結成し、スエズ運河を国有化しようとしていたエジプトのナセル政権をつぶしにかかった侵略戦争だった。

米ソが三国の動きに反対したため、この戦争は失敗に終わり、ナセルはスエズ運河の国有化を達成する。

この時点で中東の主導権は米ソに移り、英仏の覇権は凋落する。

この間の経緯で特徴的なのは、独立宣言したばかりのイスラエルを軍事的にもっとも強力に支えたのがソ連のスターリンだったことだ。

ソ連社会主義の支持なしにはイスラエル独立は成り立たなかった。

スエズ戦争に際しては、米国のアイゼンハワー大統領が、フルシチョフ率いるソ連のブルガーニン首相と呼応するごとく、英仏イスラエル三国に圧力をかけてその動きを阻止し、スエズ戦争後は、米ソがイスラエルを軸心とした「中東諸国体制」に対する国際的な操縦の仕組みを作り上げる。

ここでイスラエルは核武装に進もうとするが、その動きを特に主導的に支援したのが、ギー・モレらのフランス社会党だった。

20世紀社会主義は、コミュニズムも、社会民主主義も、イスラエル労働党など社会主義シオニズム勢力が主導するイスラエル国家確立と深い繋がりを持っていたのだった。

アイゼンハワーを継いで、1960年代初め米国大統領となるJ・F・ケネディは、イスラエルの核武装計画を阻止するために強力な圧力をかけ、イスラエルのベン=グリオン首相は退陣を余儀なくされる。

ドゴール仏大統領もまたイスラエルの核施設建設支援をやめさせようとした。

そうした動きにもかかわらず、フランスを中心に英・米・ノルウェイ・アルゼンチン等々の国々からの極秘裡・非公式ルートのイスラエル核武装支援が続けられていくのだった。

63年ケネディ大統領の白昼謎の暗殺事件が起こり、それとともにジョンソン政権からニクソン政権にかけて、イスラエルに対する関わり方に決定的変化が生じる。

米国内でイスラエル・ロビーが1960年代後半以降、大きな力を持ちはじめたからだ。

米国政治の深部にイスラエルの利害が埋め込まれていく。

一方、ソ連社会主義は、イスラエル支援の立場から完全に切り替わり、アラブ社会主義を支援、イスラエルとは対立する形となる。

ソ連社会主義は、中東諸国体制の操縦において「冷戦」論的分業という意味で、見かけ上アラブ側につき、他方、1970年代末からアフガニスタンへの武力干渉に乗り出し、ここでは米国CIAが支援するモジャへディーン(ムスリム義勇兵ら)を相手に戦うこととなり、米国がベトナムで陥ったように、アフガンでの泥沼にはまることとなった。

これが1991年のソ連邦解体につながるのだ。

89年ベルリンの壁の崩壊が20世紀社会主義の退潮の合図となったのは、67年エルサレムの壁の崩壊が社会主義シオニズムの終わりを告げるものだったのをエンドースする事件だったのだ。

このように、各国のイスラエルとの関わりを通じて冷戦体制を見ると、いままでと違うものが見えてくる。

20世紀後半、少なくとも1989年までは冷戦体制が世界の基軸構造だったと思われているが、これはかなり仕組まれたものであり、そこにある種の暗黙に協同する陽動作戦的な目くらましという嘘・騙しが生じていたと考えざるを得ない。

パレスチナ人の目でみれば、米ソが協同してイスラエル国家を成立させた。

その視点で冷戦を見直すことが重要である。

アラブ・イスラエル紛争は、冷戦の代理戦争と見られていたが、それも中東諸国体制の本来の性質から見れば見かけの駆動仕様であったと捉えておくべきである。

サウジアラビアとイスラエルとの野合は、現れるべきものが表面化したに過ぎない。

【岩波書店 「世界」 2018年7月号掲載(前半)】

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