ステージ4のがんになった緩和ケア医は何を思うのか 「病院で死ぬということ」の著者山崎章郎さん、15年前に自宅で母親をみとった筆者が訪ねた(47NEWS) – Yahoo!ニュース
人生の最期を自宅で迎える人が徐々に増えている。
15年前に筆者(40)は、乳がんだった母を家族と共に自宅でみとった。
当時在宅で診療してくれた緩和ケア医が、今はステージ4のがんと診断されながらもライフワークの診療を続けていると知った。
心境を聞きたいと訪ね、改めて在宅で母をみとった意味を考えてみた。(共同通信=星野桂一郎)
▽患者が主役なのに治療の決定権がないのはおかしい
終末期医療に長年携わる緩和ケアの第一人者の山崎章郎医師(75)は、東京都小金井市にある「聖ヨハネ会桜町病院」で、当時と変わらない優しいまなざしで迎えてくれた。
闘病中の影響だろうか、やや痩せた印象だ。
山崎さんは1975年に千葉大医学部を卒業し、当初大学病院などで外科医として勤務していた。
病名の告知がタブーだった70~80年代、病棟でがん患者の悲惨な姿を目の当たりにしたことが、山崎さんの原点となっている。
当時、患者は詳しい病状が分からないまま孤独と恐怖の中に置かれ、医師は回復不可能と知りながら人工呼吸や心臓マッサージなどの過剰な蘇生術を行っていた。
山崎さんは、患者が主役のはずなのに治療の決定権はないのはおかしいと思い、90年に著書「病院で死ぬということ」を出版した。
病院内で仕事をする山崎章郎さん=2023年4月、東京都小金井市
理想の終末期医療を追い求めて91年に聖ヨハネ会桜町病院のホスピス科部長となり、緩和ケア医に転じた。
2005年には、患者に最期まで住み慣れた自宅で過ごしてもらおうと在宅診療専門診療所「ケアタウン小平クリニック」を東京都小平市に開設した。
勤務医時代も含め、これまで計2500人超の患者をみとってきた。
▽がんと診断され感じた「患者さんのつらさを共有できていなかった」
山崎さんが大腸がんと診断されたのは2018年夏。
手術後の抗がん剤治療は苦しむ患者を診てきたので迷ったが受けることにした。
「今まで多くの患者さんとお付き合いをして、いろいろなつらさをお聞きした。だが共感はできても共有できていなかった」。
患者の立場になってみてこうした思いが強まった。
半年後の19年5月、治療を終えられる期待を抱いて臨んだ検査で、両肺への転移が判明し、ステージ4と診断された。
手術や放射線治療は難しく、抗がん剤を薦められた。
だが、前回の治療では強い副作用に苦しんだ。
また副作用が出れば、医師としての仕事ができなくなる。大切なものを失ったままで人生を終わりたくはなかった。抗がん剤治療は最終的に断った。
ステージ4でも一定期間は日常生活を送ることができる。
いずれは苦痛を和らげるための緩和ケアが必要になるかもしれないが、今の状態をできるだけ維持できないか。
それ以来、関連書を取り寄せてがん細胞の増殖を抑えるために食事や薬の組み合わせなど一定の理論に基づく代替療法に心血を注いできた。
取り組みは近著「ステージ4の緩和ケア医が実践する がんを悪化させない試み」でも取り上げた。
因果関係は立証されてないものの、ステージ4から丸4年たっても転移は縮小したままだ。
平日は名誉院長を務めるケアタウン小平クリニックや、取り組みのエビデンスを得るための臨床試験担当の非常勤医師として聖ヨハネ会桜町病院に勤めている。
山崎さんを訪問診療に駆り立てるのは「最期の時まで尊厳を持って生きてほしい」という信念だ。
緩和ケアの本質とは「最期の時を迎えていく人たちが生きている場面場面を、自分のことを肯定しながら生きていけるように、お手伝いする」ことだという。
「死後の世界は〝居酒屋風〟がいいなと思う」と話す緩和ケア医の山崎章郎さん=2023年4月、東京都小金井市
▽「死後の世界は居酒屋風がいい」
当事者になっても死への恐怖や不安は生じなかった。自分が診てきた患者のように適切な緩和ケアを受けられれば、死ぬまでの時間は自分らしく過ごせるはずだからだ。
一方で、変化が生じたのは死生観だ。
これまで患者と話題にしてきた「死とは何か」という問いへの思いが強まった。
チャンスがあれば患者と「死後の世界」について話を交わす。死が現実的に迫る中で「死後の世界は『あったらいい』から『あるべき世界なんだ』」と思うように。患者の中には「先生、先に逝きますけど、いい場所を取っておきますからね」と言い残す人もいる。
山崎さんはそうした言葉をかけられると「死後の世界は“居酒屋風”がいいなと思う。心置きなく話をして飲んで楽しく」。そんな世界に想像を巡らす。
訪問診療は、慣れ親しんだ昔のままのスタイル。自ら車のハンドルを握り、白衣は着ないで看護師も伴わない。1人の方が患者や家族とゆっくりと話せるためだ。
自らの病状も打ち明けこんな和やかな会話が生まれる。
「実はがんになっちゃってね」 「先生、私をみとってくれるはずじゃなかったんですか」 「そのつもりだけど…でも多分みとってあげられると思うよ」
帰り際には患者家族から気遣われ「先生もお大事にね」。
そんな時は申し訳ない気持ちになる。
▽何もが理想通りではなかった…「幸せだった」と口にした母の最期の30日間
筆者との接点も触れておきたい。
2008年に亡くなった私の母=当時(58)=は、亡くなる直前の30日間、入院先での治療を打ち切り、自宅に戻ってきた。
自宅から約3キロの距離にある山崎さんのクリニックの訪問診療を受けることになり、山崎さんや同僚医師らが車で訪れるようになった。
この時期には、友人のピアニストが自宅で演奏してくれ、酸素吸入が手放せなかった母が喜んでくれた。
亡くなる前、人生を振り返るように家族に「幸せだった」と言葉にしていたのが記憶に残る。
ただ在宅だったからといって何もが理想通りに、とはいかなかった。
末期がん患者の世話をするのは体力的にも精神的にも容易ではない。
日々できることが少なくなり衰弱が進む中、初めての対応に戸惑うことも多かった。
痛みを訴える母に処方された薬をどこまで飲ませていいのか。
緊急時にどのタイミングで連絡すべきか。
当時20~30代だった姉や私からは夜間に「来てください」と何度も電話しにくい場面もあった。
改めて当時の私の日記を見返してみた。最期までそばにいられたことを「良かった」と率直に受け止めていた。
ただ、「頑張らせすぎたのかもしれないが、家族も初めてで試行錯誤しており、全ては分からなかった」などと、痛みを訴える母を前に戸惑い、苦慮する様子も書かれていた。
私の次姉(45)は、母の脚のむくみをマッサージしてくれたり家族を交えて話し相手になってくれたりした看護師にも救われたと言う。
在宅医療を選択することは「本人と家族の覚悟が必要」と話し、こう振り返った。
「母は自分のために在宅を選んだようでいて実は私たちに人が死ぬってことを、まざまざと見せてくれたように思う。最期までどう生きるか。誰に囲まれて死にたいのか。死を遠ざけて忘れて生きている私にとってそれはつらい日々だった。でも母と一緒に家族として過ごす最後の尊く濃い時間だった」
実はことし4月に山崎さんに取材を申し込むと小さな驚きがあった。
山崎さんが、私の家族を覚えていたのだ。
母が亡くなった翌年の遺族会で会ったのを最後にやり取りはなかったのだが、理由はすぐに分かった。
母が亡くなった後、家族で山崎さんら宛てに要望書を出していたからだ。
呼吸数といった医師を呼ぶために急変の目安を教えてほしいことなど、家族で気付いた点を紙にしたためて渡した。
家族としては在宅の訪問診療を肯定的にとらえていて、要望書では苦言を呈したわけではない。
要望書について、山崎さんは「こちらも足りないところがあったと思い、いろいろと反省した」と話して「待つ方としては少しでも早く来てほしいという思いがある。特に夜間は1人の医師がいろんな所に行っているのですぐに移動できないこともあるのだが、思いはよく分かった」と続けた。
▽尊厳を保ちながらどこで最期を迎えるか
山崎さんのベストセラーの著書「病院で死ぬということ」で取り上げた医療現場の状況は、この30年で改善してきた。
山崎さんも在宅医療に限らず、緩和ケア病棟(ホスピス)など選択肢が増え「当時の状況と比べたら本人の意思にかなり近い支援ができるようになってきた」と語る。
いかに尊厳を保ちながらどこで最期を迎えるか。
選択はそれぞれの価値観に加えて支援態勢でも変わりうる。
設備の整った身近な病院を望む人も多いだろう。
1人暮らしなら在宅医療をためらう人も少なくないはずだ。
内閣府の2012年の意識調査では、54・6%が自宅で最期を迎えることを希望。
高齢化社会による死者数の増加に伴い、国の調査によると、自宅での死者数は05年に約13万人だったのが、21年には25万人近くにまで増加した。
それでも21年時点の死亡場所では、自宅は17・2%にとどまり、病院が65・9%と大きく上回る。
これらの数字は在宅医療への理想と、現実との隔たりを表しているように見える。
今となっては母に聞くことはできないが、私にとって試行錯誤しながら在宅で母を家族でみとれたのは代えがたい時間だった。
当時私は3年間の海外生活を切り上げ帰国したばかりで久々に家族と過ごすことができた。
「尊厳」というと難しく聞こえるかもしれないが、昼食は何を食べたいかなど日常のことから、どのような葬儀にしたいかなど、時間があればできるだけ母の意向に耳を傾けた。
もちろん全てがうまくいったわけではなかった。
当初、在宅医療の事情をあまり知らずに著名な山崎さんに対応してもらえることに安堵し過度に期待した部分もあった。
家族で衝突したのも一度ではない。だから家族の美談に仕立てるつもりもない。
それでも山崎さんらの医療チームに寄り添ってもらい、どうにか乗り切ることができた。
そんな家族が旅立つ姿を間近で見届けられた時間は亡くなった母だけではなく、残された家族にも大きな意味があったと思う。