昼でも暗いような深い山奥で、音吉じいさんは暮して居りました。
三年ばかり前に、おばあさんが亡くなったので、じいさんはたった一人ぼっちでした。
じいさんには今年二十になる息子が、一人ありますけれども、遠く離れた町へ働きに出て居りますので、時々手紙の便りがあるくらいなもので、顔を見ることも出来ません。
じいさんは、ほんとうに侘しいその日その日を送って居りました。
こんな人里はなれた山の中ですから、通る人もなく、昼間でも時々ふくろうの声が聞えたりする程でした。
取り分け淋しいのは、お日様がとっぷりと西のお山に沈んでしまって、真っ黒い風が木の葉を鳴かせる暗い夜です。
じいさんがじっと囲炉裏《いろり》の横に坐っていると、遠くの峠のあたりから、ぞうっと肌が寒くなるような狼の声が聞えて来たりするのでした。
そんな時じいさんは、静かに、囲炉裏に掌をかざしながら、亡くなったおばあさんのことや、遠い町にいる息子のことを考えては、たった一人の自分が、悲しくなるのでした。
おばあさんが生きていた時分は、二人で息子のことを語り合って、お互に慰め合うことも出来ましたけれど、今ではそれも出来ませんでした。
来る日も来る日も何の楽しみもない淋しい日ばかりで、じいさんはだんだん山の中に住むのが嫌になって来ました。
「ああ嫌だ嫌だ。もうこんな一人ぼっちの暮しは嫌になった。」
そう言っては、今まで何よりも好きであった仕事にも手がつかないのでした。
そして、或日のこと、じいさんは膝をたたきながら
「そうだ! そうだ! わしは町へ行こう。町には電車だって汽車だって、まだ見たこともない自動車だってあるんだ。それから舌のとろけるような、おいしいお菓子だってあるに違いない。そうだそうだ! 町の息子の所へ行こう。」
じいさんはそう決心しました。
「こんなすてきなことに、わしはどうして、今まで気がつかなかったのだろう。」
そう言いながら、じいさんは早速、町へ行く支度に取りかかりました。
ところが、その時庭の片すみで、しょんぼりと咲いている、小さなすみれの花がじいさんの眼に映りました。
「おや。」
と言ってすみれの側へ近よって見ると、それは、ほんとうに小さくて、淋しそうでしたが、その可愛い花びらは、澄み切った空のように青くて、宝石のような美しさです。
「ふうむ。わしはこの年になるまで、こんな綺麗なすみれは見たことはない。」
と、思わず感嘆しました。けれど、それが余り淋しそうなので、
「すみれ、すみれ、お前はどうしてそんなに淋しそうにしているのかね。」
と、尋ねました。
すみれは、黙ってなんにも答えませんでした。
その翌日、じいさんは、いよいよ町へ出発しようと思って、わらじを履いている時、ふと昨日のすみれを思い出しました。
すみれは、やっぱり昨日のように、淋し気に咲いて居ります。じいさんは考えました。
「わしが町へ行ってしまったら、このすみれはどんなに淋しがるだろう。こんな小さな体で、一生懸命に咲いているのに。」
そう思うと、じいさんは、どうしても町へ出かけることが出来ませんでした。
そしてその翌日もその次の日も、じいさんはすみれのことを思い出して、どうしても出発することが出来ませんでした。
「わしが町へ出てしまったら、すみれは一晩で枯れてしまうに違いない。」
じいさんはそういうことを考えては、町へ行く日を一日一日伸ばして居りました。
そして、毎日すみれの所へ行っては、水をかけてやったり、こやしをやったりしました。
その度にすみれは、うれしそうにほほ笑んで「ありがとう、ありがとう。」
と、じいさんにお礼を言うのでした。
すみれはますます美しく、清く咲き続けました。
じいさんも、すみれを見ている間は、町へ行くことも忘れてしまうようになりました。
或日のこと、じいさんは
「お前は、そんなに美しいのに、誰も見てくれないこんな山の中に生れて、さぞ悲しいことだろう。」
と、言うと
「いいえ。」
と、すみれは答えました。
「お前は、歩くことも動くことも出来なくて、なんにも面白いことはないだろう。」
と、尋ねると
「いいえ。」
と、又答えるのでした。
「どうしてだろう。」
と、じいさんが不思議そうに首をひねって考えこむと
「わたしはほんとうに、毎日、楽しい日ばかりですの。」
「体はこんなに小さいし、歩くことも動くことも出来ません。けれど体がどんなに小さくても、あの広い広い青空も、そこを流れて行く白い雲も、それから毎晩砂金のように光る美しいお星様も、みんな見えます。こんな小さな体で、あんな大きなお空が、どうして見えるのでしょう。わたしは、もうそのことだけでも、誰よりも幸福なのです。」
「ふうむ。」
とじいさんは、すみれの言菓を聞いて考え込みました。
「それから、誰も見てくれる人がなくても、わたしは一生懸命に、出来る限り美しく咲きたいの。どんな山の中でも、谷間でも、力一パイに咲き続けて、それからわたし枯れたいの。それだけがわたしの生きている務めです。」
すみれは静かにそう語りました。だまって聞いていた音吉じいさんは
「ああ、なんというお前は利口な花なんだろう。そうだ、わしも、町へ行くのはやめにしよう。」
じいさんは、町へ行くのをやめてしまいました。
そして、すみれと一緒に、澄み切った空を流れて行く綿のような雲を眺めました。