「震災から12年。もっと東北、特に福島在住の方々を取材して、当事者の声を伝えてよ」と知人のテレビ関係者に伝えたことがある。すると彼はこう答えた。
「もう震災ネタは視聴率が取れないのです。だから、番組を作りたくても作れないのです。国民の多くはもう、被災地の話なんか聞きたくないのです。野球のWBCの話ならばいくらでも番組は作れますが・・・」と。
「もう震災ネタは飽きた」という声を東京にいると、あちこちで耳にするようになった。
福島県では、震災後、子供の虐待率、自殺率は全国トップクラスとなった。
やり場のない怒りは、より弱い立場の者へ向けられ、そして最終的には、自らに向かう。それが自死である。
数えきれないほどの多くのいのちが一瞬にして奪われ、今、この瞬間も「もうダメだ」「死ぬしかない」と、死の淵に立つ人が大勢いる。全く先の見えない現状にもがき苦しみ続ける人々がいる。
そんな苦しみを「ネタ」と呼び、もう「飽きた」と吐き捨てる人もいる。
だが、自戒を込めて言うと、私たちは、なかなか自分がその当事者にならないと、他人の痛みを自分の痛みのように感じ、想像することは難しいのが現実ではなかろうか?
実際、仮設住宅内(当時)に泊めて頂き酒を飲みかわす中で、こんな話を聞いたことがある。
南相馬市60代男性
『大震災が起こっても、人間の本質はそう簡単には変わらないと思うよ。自分の生き方を変えるとか、見つめ直すとか、簡単に出来ない。火の粉が自分に降り注がない限り、所詮は他人事。もし東京に直下型の地震が起きても、俺たち東北の人間が東京に駆けつけるかと言えば、意外と少ないと思う。これだけ全国各地からお世話になっているのに、酷いもんだ。でも、実際、そんなもんだよ』
福島市50代男性
『結局人間は、自分が当事者にならない限り、原発が爆発しても、福島の仮設でストレスで離婚したり、子どもの虐待が増加しても、他人事。皆、自分のことで精一杯。他人の事なんて構っていられない。新聞記者が取材に来たから、そんな話をしたら<そんな話は記事にならない。もっと明るい話を>だって」
いわき市60代男性
『俺たちは学校教育の中で「他人に勝つこと・蹴落とすこと」は学んでも、「他者の痛みを想像し、共感すること」はあまり学んで来ていない。復興庁・水野参事官のツイッター発言は、その象徴だろう。人は追い詰められ、余裕がなくなると、暴言を吐き、人を簡単に傷つけてしまう弱い生き物』
いわき市50代女性
『結局、日本中の人々にとっては、自分の身に危険が及ばない限り、福島の事なんて他人事。原発が爆発しようが、放射能で大地が汚染されようが、子供が被曝しようが、自分が被害者にならない限り<あら、お気の毒ね~>で多くの人は終わってしまう。皆、自分が一番可愛いから』
会津若松市60代男性
『俺の家(大熊町)から数キロの所に原発がある。だから、原発にも昔から関心があり、それなりに勉強もしてきた。しかし、都会人にとって原発は身近なものではない。今回の事故をきっかけに、原発や放射能についてそれなりに関心が集まっているが、それはいつまで持続するのか?すぐになかったことにされてしまうのがオチだと思う』
私も含め、人間は、自分にとって都合の良いものしか見ない。
福島で暮らす人々の生活や思いなど、意図的に見ようとしないと見えないのだ。
マザーテレサは言った。
愛の反対は憎しみじゃない。無関心だと。