足の引っ張り合い

保守的な宗教界において、私の宗教界だけにとどまらない活動は奇異に見えるようだ。

私は菩提寺のある人・特定の信仰を持たれている方の相談には乗っても、葬送支援を行うことは基本的にはしていない。

病院でいうと、長い間、主治医(菩提寺)が決まっている患者(檀家)さんには、まず主治医がしかるべき処置を施すのが筋だと考えるからだ。

私が関わるのは身寄りのない人・生活困窮者等の檀家制度からこぼれ落ちた人の葬送支援である。

選挙でいう所の特定の支持政党なしの層(浮動票)を対象としている。

しかしながら、そういった方々の葬送支援に携わる中でも、「檀家を取られる」と勘違いした僧侶から避難や攻撃を受けるのが実態だ。

私に言わせれば、仏教界という狭い世界で物事を見ているからそうなるのであって、社会全体を見ると、僧侶やお寺の存在価値は限りなくゼロに近づいていると言える。

日常的に僧侶やお寺と付き合いがある、もしくは付き合いたいと思える人が、現代社会にどれほどいるのだろうか?

私はもともと組織から飛び出した人間なので、仏教界の内部の問題には正直言って全く興味が無い。

自分が信じる活動を続けていくのみなので、教団や組織論には関心がないが、そうは言っても足を引っ張られるのが実情だ。

そもそも私は誰かの評価のために活動を始めた訳ではない。

見返りを全く期待していないわけではないが、自分自身のために活動を続けている。

私の活動は、社会が必要としてくれれば生き残っていくと思うし、社会から必要とされなくなれば、一般企業と同じように自然淘汰されていくだけだ。

ただし、自分自身が傲慢になってしまい、他者の話に耳を貸さなくなってしまうこと、自分自身を絶対化してしまうことの危うさは常に感じている。

謙虚さを持ちつつ、常に自分自身を疑ってかかる別の視点を持ち合わせることも忘れてはならない。

仏教では諸行無常という言葉がある。全てのものは移ろいゆくのだ。

人生は短い。他人の評価など気にせず、自分自身の歩むべき道を淡々と進んでいけばそれでよいのではないか?

他者は騙せても、自分自身は騙せない。

私が今まで看取ってきた患者さん達、そして葬儀の導師として関わった仏さまは、常に見ているのである。

そもそも「葬式仏教」はほとんど形骸化していると良く言われている。

確かに、意味不明の儀式、お経や戒名に対して何の説明責任も果たさず、高額なお布施ばかりを要求する僧侶が多いのも事実である。

お釈迦さまも親鸞聖人も、生前の発言から読み解く限り、自らの葬儀には全くこだわっていなかった。

むしろ、生きている間の苦しみにどう立ち向かい救われるのかという点にベクトルは向かれていた。

その意味で、苦と向き合わず、むしろ弱いものから搾取する傾向の仏教界は、本来の宗教的意義を喪失していると言える。

そしてそれは、宗教界だけでなく、一般企業から行政・政治・医療・司法・教育・労働組合等、ありとあらゆる場所で、似たような現象は多かれ少なかれ起こっているのではないだろうか。

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