都市部で増え続ける直葬

2011年3月11日に発生した東日本大震災は、「弔う」ということを根本から見直すきっかけになった。

私が津波で被害を受けた家々を訪問して泥出しを手伝う中、探してほしいものの中で最も依頼が多かったのは、仏壇とご先祖の「お位牌」を探してほしいと言うことであった。

また、岩手・宮城・福島の避難所や仮設住宅を訪問して、のべ2,000人以上の被災者の方々からお話を聞かせていただく機会があったが、津波が引いていった直後に真っ先に駆けつけた場所は何処か?という質問に多くの方は「自宅」と答えた。

その次が「先祖代々の墓」そして三番目に多かった答えが「神輿のある場所」という答えであった事には驚いた。

私たち日本人の多くは、既成宗教教団に帰依する感覚はなくても、死者追慕の感覚はかなりの方が持ち合せているのだ。

そして地縁が強い地域ほど「祭り」が機能している

祭りはその地域の結束を強める働きがある。

作物がたくさん取れますように、子どもが無事に生まれますように等という「祈り」がそこには存在する。

岩手県陸前高田市に行った時、「高田に生まれた男は、消防団員となってこの町を守り、祭りの時には神輿を担ぐことがステイタス」だと消防団員の方に言われた言葉は忘れられない。

よって、地縁が強い地域では、誰かが亡くなれば、火葬のみ=直葬で済ますということは、通常では考えられない。

そもそも葬式という言葉自体、略語であることをご存じであろうか?

タレントの木村拓哉さんを「キムタク」と私たちが呼ぶように、葬式も「葬」儀ならびに告別「式」の略語に丁寧語の「お」を付けた造語である。

葬儀の「儀」は、宗教的儀式の「儀」である

従って、宗教者を伴わない儀式は、葬儀とは呼ばない。

あなたが「○○さんの葬儀に行ってきた」という言葉を発する時に、そこに宗教者の存在が無く、宗教儀式が無いとしたら、それは葬儀とは呼ばないのだ。

今、葬儀業界では「直葬(ちょくそう)=病院や施設で亡くなった後、そのまま直で火葬場へご遺体を運ぶこと)」という言葉が飛び交っている。

直葬とは、一般的な通夜、葬儀ならびに告別式を行わず、病院や自宅で亡くなった直後に火葬場へ遺体を運び、荼毘にふすスタイルである。

直に葬(ほうむ)ると書くので直葬と言う呼び方が使われている。

世間一般で行われている葬儀式では、葬儀場から遺体を運ぶ前にお花を棺に入れて最期のお別れを行うが、直葬の場合は、お花も入れない場合が多い。

僧侶も呼ばず、遺影写真すらない場合もある。

直葬の費用は葬儀社によって異なるが、だいたい約20万前後から。

東京都の場合、生活保護受給者であっても約20万円が葬祭扶助費として国から支給される。

かつて直葬は、生活困窮者や身元不明の行旅死亡人、路上生活者、自殺などで遺体の損傷が著しく激しいケース、いわゆる「訳ありのケース」のみが行われていた。

しかし、今や直葬は市民権を得たと言ってもよいだろう。

私は今まで数え切れないほどの葬儀に立ち会ってきたが、その7~8割の家庭は「貧困」状態にあり、通夜葬儀を行わず、火葬前に読経するだけの葬儀であった。

ここで言う貧困とは経済的な問題は言うまでもなく、人と人とのつながりが希薄で、人間関係の貧困も意味する。

お金が無くても、人と人との繋がりが濃密にあれば、故人を弔いたいと言う人は必然的に増えてくる。

しかし、私が多く関わる人は、貧乏+社会的孤立を意味した「貧困」状態にある。

つまり、生活に困窮し、社会的に孤立した結果、行き倒れたり、孤立死という状態に陥ってしまう。

「一億総中流」と呼ばれた時代から、経済的な格差が広がり、金持ちと貧乏人が二極化されるにつれて、直葬の割合も増加傾向にある。

また、火葬する直前、民間の火葬場では、火葬場の職員に「心付け」というチップを手渡すことが、少し前まで一般的に行われていた。

(現在では、民間斎場でも、だいぶ減ってきたが、まだ完全になくなったわけではない)

死を忌み嫌う現代人が、火葬場の職員に対して「心付け」と言う名のチップを渡すことで、死穢を散らす(清める)作用があると言われている。

しかし、「心付け」は強制されたり、請求されるものでは決してない。

しかし、現実的にそのチップをけちると、露骨に嫌な顔をする火葬場の職員もいた。

私はそれが嫌なので、少しばかりの金額を自腹で包んでいた。

すると火葬場の若い職員は「生活保護の方で僧侶の方がお経をあげるのに立ち会うのは珍しいですよ」と私によく言う。

私が導師として向き合っている故人は、いわゆる葬祭扶助費として国と自冶体から支払われる費用の中から、棺や火葬料金など全てを捻出しなければならないケースが多い。

そのようなケースに僧侶が立ち会うことは、ほぼ皆無らしい。

直葬が都心部で増えていると言っても、まだそれは一部の大都会の問題であり、血縁・地縁・社縁が色濃く残る地方ではまだまだ一般的でない。

しかし、直葬が全国的に広がるのは自然な流れではないかと私は感じている。

何故、直葬が増えるのだろうか?理由は主に4つあると思う。

葬儀をするお金がない

家族に迷惑をかけたくないから、簡素にしてほしい

僧侶・葬儀社に対する不信感

家族(血縁)・地域(地縁)・会社(社縁)の繋がりが薄れた結果、葬儀に呼んでも誰も来ない


葬儀をするお金がないと言うのは、物理的に「貧困」という問題が絡んでいる。

生活保護を受けていたり、貯蓄が限りなく少なければ、葬儀をしたくても行えないと言う現実がある。

一般的な葬儀費用は、地域によっても異なるが、お付き合いのある東京の葬儀社数社に尋ねたところ、コロナ禍であっても、葬儀社への支払い・飲食接待費・寺院へのお布施等を全て含めると東京近郊では、約百数十万前後が平均ではないだろうかということだった。

家族だけで行う家族葬や小規模葬なら百万程度で可能である。

しかし、それだけの金額を直ぐにあなたは用意できるだろうか?

出来なければ、よりシンプルで簡素化した葬儀をすることになる。

その行きつく先のところが「直葬」となるのである。


家族に迷惑をかけたくないというのは、日本人が一般的に持っている概念であろう。

少子高齢化・核家族化が進み、先の見えない経済状況が続く中、葬儀にお金をかけず、少しでも安く済ませたいと考えるのは、ある意味当然だと思う。

だから面倒くさい葬儀など行わず、「私が死んだら、焼くだけでいいよ」となる。

その気持ちも分からなくもない。しかし、本人が直葬を希望したからと言って、家族や親戚全員が直葬に賛成しているかと言えば、必ずしもそうではない。

また、排除すると言う意味の「村八分」という言葉がある。

では、反対の排除しないという意味の「村二分」は何か?答えは火事と葬式である。

火事と葬式だけは地域の共同体としての行事であり、地域の絆、コミュニティを再構築する儀式でもあった。

遺体を放置しておくと村の伝染病の原因にもなる。

また日本人独特の「死んだら全てが許される」という考えもあるため、葬式くらいは村の共同作業として地域が一丸となって行うのが日本人のかつてのしきたりであり感覚であった。

家族に迷惑をかけたくないから葬式をしないというのは、地域社会がしっかり機能していた時代では、考えられなかったことである。

葬式をしないことは、本人が望んでも、地域社会が許さなかったのである。

現在でも地方都市には「隣組」「講」「結(ゆい)」などの制度が色濃く残っている地域がある。

しかし、直葬が増えているということは、それだけ地域社会が崩壊していることの象徴として考えるべきであろう。


僧侶・葬儀社への不信感が、葬儀をしないという選択に走らせることも見逃せない。

喪主側は、日常的に接点が無い僧侶への高額なお布施、葬儀社へ支払う高額な葬儀料金に意味が見い出せない場合が多い。

また僧侶側は「何故、戒名が必要なのか」「葬儀にはどういう意味があるのか」、葬儀社側は「葬儀費用はどうして高いのか」等、はっきりと喪主に説明責任を果たしていない。

その結果、料金体系が不明瞭となり、不信感を招く。

よって双方関係に信頼関係が構築できないまま高い請求書ばかりが届き、「もう二度と葬儀はゴメンだ」ということになる。

勿論、信頼できる僧侶や葬儀社も多数存在するが、まだまだ世間の多くの方は、僧侶や葬儀社に対して厳しい目を持っていることは事実であろう。

「葬式はいらない」という考えに対して、「葬式は必要」という確固たる思いを僧侶や葬儀社が、喪主側に納得してもらうだけの力量が無いこと・僧侶と葬儀社の信頼関係なさも大問題である。


定年退職後、長く寝たきりだったりすると、家族を含め、地域や会社との繋がりも薄れ、葬儀に呼んでも誰も来ないという現実がある。

また、若年層の引きこもりや高齢者の閉じこもり等、様々な理由によって自ら人との関係性を絶ってしまった人も存在し、そのようなケースは直葬となり、ひっそりと火葬されるケースが多い。

しかしながら、路上生活者であっても、故人に人望があるケースなどは、葬儀にはたくさんの人が来て手を合わせるケースを私は何度も経験している。

要は、生きていた時の「生き様」が、死後の弔いにまで影響を与えると言うことである。

特に、故人が社会的に名声があったり、家族や地域との繋がりが濃かった場合、葬儀をしないと言うことは周囲の者が許さないということもある。

さらに言うと、直葬の主な増加要因として、都市化・価値観の変化・人口構造の変化は見逃すことが出来ない。

現在、死亡者の約半数は85歳以上と言うところまで迫っている。

高齢になって、家族や地域、社会と密接なつながりがある人は別として、繋がりが希薄であれば、必然的に葬儀の参列者も減る。

無縁社会と呼ばれている社会の中で直葬が増えるのは、今後も間違いないが、いのちの尊厳という観点から見ると、「本当にそれで良いのか?」という何だか割り切れない感情も正直にいうと私にはある。

ただでさえ「安ければいい」という価値観が蔓延している中、様々な事情があって直葬で故人を送る場合であったとしても、そこに死者に対する「想い」が無ければ、単なる遺体処理に終わってしまうのではないかと私は危惧している。

分かりやすいたとえ話をしよう。

例えば、私たちは一般的に会社などの職場を去る際、上司や同僚から送別会をしてもらい、「今までお世話になりました」と、感謝の気持ちで会社を去る場合と、そうでない場合がある。

前者の場合、残される者は拍手で送り出す気持ちになる。

しかしながら、後者の場合のようなケース、つまり会社に何の連絡もなしに、いきなり来なくなって退職するケース、送別会も何もないケースでは、会社に残される者の心情は、去る者に対して複雑である。

それと同じようなことは人生の最後の儀式、お葬式にも直結している。

人は誰とも関わらずに生きて来れた人はいない。だからこそ、今までお世話になった方へのお礼を述べる社会的な機会を設けてもよいのではないか?

それが私の考える葬送儀礼である。

学校に入学する際は入学式、卒業する際は卒業式がある。

人生の節目節目には様々な社会的「儀式」が伴う。

人生最期の儀式は「葬式」だ。

しかし、その葬式に金がかかる。

だが、お金をかけずとも、十分な事前準備があれば葬式は出来るのだ。

現代社会は忙しすぎる。

葬式の時にしっかりと「悲しむ」ことをしなければ、一体いつ人は「悲しめる」ことが出来るというのか?

じっくりと涙を流し、故人との別れを惜しみ、悲しむ。

その悲しむ時間が葬式である。

残される者の心情は、その儀式があるとないとでは、だいぶ変わってくるのである。

だから葬儀はした方がよいというのが私の考えである。

もっと言うと、生きている間の関係性や繋がりが、死後の繋がりに結びつくのは、故人の死後「法事」をするかしないかにも影響してくる。

法事をするかしないか、墓参りをするかしないかは、故人を偲ぶひとつのバロメーターとなる。

家族関係がしっかりと機能した家庭であれば、四十九日法要、一周忌等の法要も残された家族が揃って故人を弔う場合が多い。

しかし、生前からの関係が希薄であれば、法事に意味が見い出せない。

よって、死後の弔いもなくなる。

現代は、故人と共に生きていくという発想が希薄な時代である。

金の切れ目が縁の切れ目」とも言える。

葬儀や法事などの仏事は、本来、故人の死から学び、やがて訪れる自らの死を見つめ、生きることを見つめ直すと言う意味がある。

無縁社会の問題として、生きている人々との関係だけを言うのではなく、亡くなった後の関係も含むことも忘れてはならない。

わが国では通常、人が亡くなると自宅や葬儀場等にご遺体を安置し→通夜→葬儀・告別式→火葬という流れが一般的であった。

しかし直葬は、死亡→火葬場と、途中の儀礼を取りはらい、亡くなられた後、そのまま火葬場へご遺体を運び、火葬場の予約が取れ次第、火葬することである。

もちろん、一部の生活困窮者などの間では昔から行われていた。

しかし、現在の東京23区内の直葬の割合はどの程度かご存じであろうか?

私が東京23区にある町屋斎場・落合斎場など6ヶ所の火葬場に勤務する職員約100名にひとりひとり「直葬の割合はどのくらいか」と尋ねたところ、約30~40%近くが通夜・告別式を行わないケースで、火葬のみ=直葬であると答えてくれた。

火葬のみの場合でも、釜の前で僧侶が読経するケースも多々見受けられるが、直葬の場合の多くは、宗教者抜きで行われ、場合によっては生花も遺影写真も位牌も何もなく、ただ火葬してお終いというケースが多いと言う。

通常であれば、葬儀場や自宅で通夜・告別式を行っていれば、出棺の前に最後のお別れとしてお花を棺に入れて故人との別れを偲ぶ時間がある。

何故、これほど多くが直葬であると火葬場の職員は分かるのだろうか?

次々に火葬場へ運ばれてくる遺体を火葬する火葬場の職員は、常に火葬場の釜の前で待機している。

遺族が火葬場の釜の前で、また改めて柩に生花を入れたりして、お別れを行うケースが全体の3~4割あるという。

通夜・告別式を別会場で行っていれば、釜の前で最後のお別れということは通常ありえない。

これだけ多くの方が火葬場の釜の前で「最初で最後のお別れ」という現象は様々なことを教えてくれる。

そもそも葬式とは、宗教的儀礼を通じて魂をあの世へ送る儀式と同時に、お世話になった家族や地域社会・会社関係等に別れを告げる場=告別式が混在しているものである。

従って東北の被災地のように地域の結びつきが強いほど、葬式をしないということは考えられない。

本人が葬式を望んでいなくても、周囲が許さない。

だが、東京をはじめとした都市部では、家族・地域・会社といった縁や個人のライフスタイルの変化によって、直葬は既に市民権を得ていると言える、私自身、生活困窮者の葬送支援を行う上で、その多くはいわゆる「火葬のみ」である。

しかし、火葬場で必ず読経し、宗教儀式を行っている。

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