信州から憂うパレスチナ1 問題の発端は「ホロコースト」以前から
「互いに悪い」の誤解解く 信州イスラーム世界勉強会10年(1)
信濃毎日新聞2024年11月20日
昨年10月7日の戦闘をきっかけとしたイスラエルのパレスチナ自治区ガザ侵攻は、世界を巻き込み、いまだに終わりが見えない。
パレスチナ問題は難解なだけに、私たちは敬遠しがちで、日本の解散総選挙や米大統領選挙の陰で関心は薄まっている。
そんな中、信州でも遠い国のひとごととせず、憂えている人たちはいる。中東イスラム研究の第一人者で東京大名誉教授、板垣雄三さ ん(93)=諏訪市=らが2015年に「信州イスラーム世界勉強会」を立ち上げて10年。6回にわたっ て県内の活動をたどりつつ、対立の底に何があるのかを考えた。
ガザ侵攻のきっかけの戦闘から1年となる10月7日、板垣さんの姿は松本市のマツモトアートセ ンターにあった。市民有志が企画したパレスチナを取材する写真家、高橋美香さん(50))=さいたま市=の写真に足を運んでいた。
ヨルダン川西岸地区の二つの家族を約15年間撮影してきた高橋さんの写真には、オリーブを収穫する女性やクロスワードパズルを楽しむ八百屋の主人など、笑顔も写る。
一方、停電でスマートフォンの光を頼りにおむつを交換する母親や、イスラエルの占領地とパレスチナを隔てる壁のそばで、命がけで家畜を世話する酪農家の写真もあり、パレスチナ人の暮らしが日常的に破壊されてきたことを示している。
1 枚ずつ丁寧に写真を見つめた板垣さん。 「侵攻は、1 年前に突然始まったのでない。」と強調した。
板垣さんは東京都生まれ。東大卒、東大大学院(西洋史)修士課程修了。
エジプト研究から中東イスラム研究に入り、戦後、第一人者としてイスラム理解を牽引、日本中東学会会長などを歴任し た。 1973年の第1次石油危機や90年からの湾岸戦争、2001年の同時多発テロの際も一貫して欧米中心の価値観からの脱却を訴えた。
パレスチナ問題を70年研究してきた板垣さんにとっていつも気がかりなのが、パレスナナ侵攻を「お互いさま」とする意見や風潮だ。
「テロは良くない、暴力は駄目だ」の一言で、けんか両成敗としてしまう。
パレスチナ問題、イスラエル建国を巡って誤解も多く、日本でイスラエル側に立った ニュースに偏ったりする一因になっているとみる。
「そもそもイスラエル建国自体が、ユダヤ教に反 している」と板垣さん。
ユダヤ教は本来、「約束の地」に導く救世主が現れるまで、固定した場所に 住まず世界に散らばる「ディアスポラ」を受け入れている。約束の地を占有する権利も認めていない。
イスラエルを約束の地と決め、帰ろうという思想は、近代に一部のユダヤ人が意図的に作りだ したものである。
イスラエルの「超正統派」と呼ばれる信仰心のあついユダヤ教徒が徴兵に抵抗した背景には、こういった事情があるという。
しかし第2次世界大戦後、アウシュビッツ強制収容所に代表されるナチスドイツによるホロコースト (ユダヤ人大量虐殺)に遭ったユダヤ人が安心して住 めるようにイスラエルを建国したと誤解する人も多い。「違う。パレスチナの問題は、第2次世界大戦以前に端を発している」
さまざまな民族が国民国家の建国を目指した19世紀は「ナショナリズムの時代」と言える。
ユダヤ人からも、19世紀半ばからユダヤ人国家建設を目指すいわゆる「シオ ニズム運動」が現れる。
1897年には第1回「シオニスト会議」がスイスで開かれて、すでにパレスチナへのユダヤ人入植は始まっている。
日本人は極めて重大な犯罪であるホロコーストを前にすると、同情でイスラエルを支持し、批判をタブーとしてしまう。
板垣さんは「それこそ思考停止だ」と 危ぶみ、「シオニズムを支持する一部のユダヤ人は、ホロコーストと『共犯関係』にあった」と解説 する。
迫害されれば、安定を求めてナショナリズムが高揚される。
少数派だったシオニズム支持の ユダヤ人にとって、ホロコーストは都合が良かったのだという。
「その正当性に疑義を発したユダヤ人自身が最も抵抗してきた。日本のわれわれが無批判でいいのだろうか」
板垣さんは2015年、混乱する中東地域やイスラム社会への理解を広げようと「信州イスラーム世界勉強会」を発足させた。
県内外の研究者や教育関係者らが会合やシンポジウムで学んでいる。
板垣さんは今年、代表の職は辞したが、情熱は衰えない。この1年でも東京都や北海道で講演を重ねている。
侵攻により、パレスチナでガザ地区だけで4万人が犠牲になったといわれる。
「ホロコーストへの同情で、新たな民族浄化を看過するのか。それとも認識を改めて平和を希求するのか」。板垣さんはわれわれに問うている。
重なるパレスチナと満州
板垣さんは、パレスチナ問題の本質は「植民地主義とそれへの抵抗だ」と指摘する。
そして、パレスチナへのユダヤ人移民と日本の満州移民を重ね、「信州人なら満蒙開拓を通じて理解できるのではないか」と提案している。
板垣さんの手元には1919~40年の「パレスチナへのユダヤ人入植状況」というグラフがある。
19世紀後半から始まった移民は、20世紀に入っても年間 1 万人に満たなかったが、1932年以降、年間数万人に達する。
それは、30年ごろから満州移民を急激に増加させ、32年に満州国建国を宣言する日本の動きと呼
応するかのようだ。
日本は20年にイタリアで開かれたサンレモ会議で、中東での権益拡大をもくろんだ英国による 「三枚舌外交」を支持した。この三枚舌外交こそが、現在まで続くパレスチナ問題の要因とされる。
第1次世界大戦中、英国は「サイクス・ピコ協定」(1916年)でオスマン帝国の領土分割をフランス、 ロシアと内密に取り決めながら、「フセイン・マクマホン協定」 (15年)でアラブ国家の独立を約束して反乱を呼びかけ、「バルフォア宣言」(17年)でユダヤ人がパレスチナに民族的郷土を建設することに同意した。
結局フセイン・マクマホン協定はほごにされる一方、バルフォア宣言は守られ、第2次大戦後のイスラエルの建国につながった。
日本が英国の三枚舌外交に賛同したのも、中国などでの権益確保のためとされる。
「ユダヤ人と日本人は、パレスチナと満州で、相似形のように他者の土地を侵略してきた」と板垣さん。
都道府県別で全国最多の約3万3千人の満蒙開拓団を送った長野県もひとごとではない。