今も昔も変わらぬ真情

先日、長野市の「西山」戸隠(とがくし)地区に健診業務に伺った。

山岳修験の戸隠神社と戸隠そばで有名な、急峻な山間地である。

戸隠地区の高齢化率は48・7%。住民の約半数が65歳以上の高齢者だ。

とはいえ、仕事を退職しても家の畑で農作業をしたり、地域の活動に参加したりする人も多く、街場の高齢者よりも元気なお年寄りが多い印象を受けた。

高齢者の生活を支える「地域たすけあい事業」も機能している。

これは、身のまわりのお世話、たとえばゴミ捨て、草刈り、除雪、給油、見守りなどのサービスを30分=500円のチケット制で提供するしくみだ。

戸隠の高齢者たちは、ふだんかかっている医師でない、健診医の私には今後、長くつき合うことのない気安さからか「本音」を漏らす。

主治医の誰それは、患者の話を聞かず、パソコンばかり見ているとか、薬をたくさん出されて、何をどう飲めばいいかわからない、逆に薬を出してくれないとか、不平不満が次から次に出てくる。

そうなんだね、そうなんだねと聞いていると、だいたい話は「もう、いつお迎えがきてもいいだよ。
死なない人はいないんだから」といったところに落ち着く。

戸隠の高齢者は、ケアをしてくれる人、とくに女性の介護者に厚い信頼を寄せているように感じられた。

これは今も昔も変わらない真情だろう。

江戸時代後期の僧侶、良寛(1758から1831)は、無欲恬淡な性格で生涯寺をもたず、庶民に頼られた人物として知られている。

質素な生活を送り、簡単な言葉でわかりやすく仏法を説いた。

長い間、越後国蒲原郡国上村(現・燕市)の国上山の「五合庵」で暮らしたが、61歳のとき、山の上り下りがつらくなり、乙子神社の境内に草庵を結んで起居する。

70歳を迎え、信者の木村元右衛門邸(現・長岡市)に移り住んだ。

1828年、良寛71歳のときに「三条地震」という大地震が起こり、1000人以上が命を落とした。仲の良かった俳人も被災して子を亡くす。

その俳人に送った見舞文の末尾に、次の一文を添えている

〈災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候〉

仏教では、四苦八苦から逃れようとして苦しみが生じると説く。それは「四諦(したい)」として受けとめ、克服するしかないという。

良寛は、最晩年、木村家の人や弟子たちに介護された。

どうも大腸がんを患っていたようだ。

こんな長歌を残している。

〈この夜らの いつか明けなむ この夜らの 明け離れなば 老女(をみな)来て 尿(ばり)を洗はむ
展転(こまろ)び 明かしかねたり 長きこの夜を〉

自力で厠に行けず、オシメをし、糞尿にまみれている。

苦しくて眠れない夜も必ず明ける。

朝がきたら女性がきて、尻を洗ってくれると希望を託す。

率直な真情だろう。

良寛は、次の辞世の句を残し、73歳で逝った。

〈うらを見せ おもてを見せて ちるもみぢ〉

色平 哲郎(いろひら てつろう)
JA長野厚生連・佐久総合病院地域医療部地域ケア科医長

大阪保険医雑誌2024年11月号掲載

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