『パックス・アメリカーナと日本の植民地化』宇沢弘文(東京大学名誉教授)
第二次世界大戦の終結とともに始まったパックス・ルッソ=アメリカーナ、一方ではソ連の力によるソ連のための平和、他方ではアメリカの力によるアメリカのための平和がお互いに厳しい緊張関係を形成しっつ、世界中いたるところで、自然、歴史、社会、文化、そして人間を破壊してきた。
2007年に出版された Tim Weiner, Legacy Ashes :The History od the CIA(日本語訳、ティム・ワイナー『CIA秘録』文藝春秋、2009 )は、1945年8月、日本の無条件降伏に始まったパックス・アメリカーナ、「アメリカの力によるアメリカのための平和」の深層にわたる実態について、含蓄に富んだ分析を展開したものである。
この全過程を通じて、CIAはもっばらカネで買収するという手段を使って全世界にパックス・アメリカーナを広めた。
この間の経緯をニューヨーク・タイムズの記者ティム・ワイナーが、封印を解かれた公文書と当事者のインタビューに基づいて、克明に描写したのである。
CIAのAshes「灰燼」に残されたLegacy「負の遺産」がいかに巨大で、現在の世代に重く残されているかが詳しく記述されている。原題はアイゼンハウワ一大統領の残した有名な言葉である。
出版と同時に、たんに米国だけでなく、世界的に広く読まれて、大きなインパクトを与えてきた。
この書物には、日本の占領時代のことに関しても詳しく描写されている。そこには、全く想像を超えた陰惨な事実が、克明に、またくvividに描き出されている。
私自身も、この書物を読んではじめて、戦後日本の置かれてきた悲惨な状況を生み出した真の流れの、残忍な、非人間的な背景を知り、その反社会性、非倫理性について、改めて深く思いをいたさざるを得なかった。
アメリカは朝鮮戦争に始まって、ベトナム戦争、アフガン侵略、イラク侵略のすべてに際して、沖縄にある米軍基地を兵站基地、また中継基地として、そしておそらくは膨大な量に上る核兵器の貯蔵基地として、軍事的に最大限利用してきた。
そしていま、米軍は新たな世界戦略の下、沖縄の軍事基地を拡大、強化して、世界の平和に恒久的な脅威をもたらそうとしているのではないかという危倶を、私は持たざるを得ない。
普天間基地問題はまさにそのことを象徴している。
<マーシャル・プランとCIA>
マーシャル・プランは、1948年から5年間に亘って、合計137億ドルに上る予算が組まれた。
マーシャル・プランの援助を受けた国は、同じ額を自国通貨で積み上げ、アメリカ政府の指示に従って使うことが義務づけられていたが、その5%、6億8500万ドルが自動的にCIAに回された。
CIAは、この巨額に上る資金を自由に使って、パックス・アメリカーナの形成、拡大に狂奔した。
その営為は全体としては必ずしも効果的ではなかったが、日本の場合には、もっぱらCIAの活躍によって日本を de facto の植民地化することに成功した。
<日本占領とCIA>
敗戦後の日本で最初にマッカーサー総司令部のスパイとなったのは、戦時中、帝国陸軍参謀本部第二部長として諜報責任者のポストにあった陸軍少将有末精三である。
1945年7月、日本軍の降伏を目の前にして、戦争犯罪人として処刑されることを怖れた有末は、諜報関係資料を極秘に集めた。
敗戦後直ちに、有末はそれをGHQの諜報関係の責任者チャールズ・ウィロビー少将に差し出し、その秘密工作員となることを申し出た。
ウィロビーの指示に基づいて、有末は、参謀次長の陸軍中将河辺虎四郎を中心とする帝国陸軍の高級指揮官から構成されるスパイ・チームを編成し、積極的な諜報活動に従事することになった。
有末の工作員として活躍したのが、児玉誉士夫であった。
児玉は戦時中、占領下の中国を舞台に数千人の工作員を使って、戦略物資からアヘンにいたるまで、日本軍が必要とするありとあらゆるものを買い付け、盗みとった。
敗戦時、児玉の個人財産は1億7500万ドルに上ったとCIAの記録に残されている。
敗戦後間もなく、児玉はA級戦犯として、巣鴨刑務所に収監された。
CIAはまた、アメリカの日本占領が終わってからも、日本をアメリカの完全な支配下に置くために、アメリカの国益を忠実に守る日本人を選び、日本の政治的指導者として育成するという目標を掲げ、実行に移した。
国家安全保障会議に提出されたCIA報告によると、「日本政府と日本人の間に、日本国内およびその周辺に駐屯するアメリカ軍の任務を受容する態度と積極的な責任感」を育むことを目的とした。
そのために、もっぱらカネで買収するという手段を使った。
実は1948年以降、CIAは世界の政治家をカネで買収しつづけてきた。しかし、世界の有力な国で、将来の政治的指導者をカネで買収することに成功したのは日本だけだった。
CIAが選んだのは、当時A級戦犯として巣鴨刑務所に収監されていた岸信介である。
1948年12月23日、東條英機を始めとする7名のA級戦犯の絞首刑が執行された、その翌日、岸信介と児玉誉士夫の二人は巣鴨刑務所から釈放された。
東條内閣の重要な閣僚として、また「満州国」の経営に中心的な役割を果たした岸信介と昭和の極悪人ともいうべき児玉誉士夫の釈放が、当時の日本の国家官僚に与えた衝撃は大きかった。
釈放された岸はすぐその足で、官房長官をしていた弟の佐藤栄作に会うために首相官邸を訪れた。
佐藤は用意した背広を岸に渡して、囚人服を着替えさせた。
そのとき、岸が言った言葉がCIAの記録に残されている。
「今や我々は、みんな民主主義者だ」。
それから、CIAの積極的な援助の下に、自由民主党の党首となり、首相になり、その後、半世紀も続く政権政党を築きあげ、日本をアメリカの植民地化するために狂奔した。
その過程におけるもっとも象徴的な事件が、日米安全保障条約の締結である。
<アメリカの日本占領の基本政策>
マッカーサーの日本占領は厳しい。しばしば悪意的な公職追放によって、国家官僚を徹底的に脅し、かれらの多くをパックス・アメリカーナの忠実な僕とすることに成功した。
その遺伝子は、今もなお日本の政治・行政に拭うことのできない汚点として残っている。
アメリカの日本占領の基本政策には、二つの原則があった。
第一は、アメリカの自動車産業が、自らの利益は無視して、対日戦争の遂行に全力を尽くして協力したという名目をつくつて、日本占領とともに、日本をアメリカの自動車産業に提供することであった。
そのために、日本中の主な都市を、ナパーム焼夷弾を効果的に使って、徹底的に破壊した。
広い道路を中心とした町をつくり、自動車の普及のために有利になる条件をつくり出すことが可能になるようにした。
同時に、日本人の心を砕いて、有史以来聖なるものとして大事に守られてきた山、森、川、海を壊して、工業化と自動車道路の建設を理性的限界を超えて押し進めることを可能にしたのである。
占領当初は、重工業、とくに自動車の生産を禁ずる規制が設けられていたが、朝鮮戦争の勃発とともに、その規制は取り払われた。
第二は、日本の農業が、当時余剰農産物に苦しんでいたアメリカの農業と競合しないように、選択制農業を日本に強要した。
日米安全保障条約の重要な目的であった。現在の日本の農業が置かれている苦悩に充ちた状況をつくり出す決定的な要因となつたものである。
2009年8月30日の総選挙で、歴史的な政権交代が起こつて、自民党は壊滅的な敗北を喫し、政党としての存続自体が危ぶまれるという、危機的な状況に追いやられてしまった。
そして民主党・社民党・国民新党からなる新しい連合政権が誕生した。
しかし、新しい連立政権の下で果たして、日本が、パックス・アメリカーナのくびきから自由になって、リベラリズムの理念に適った、真の意味での民主主義の国になることが可能であろうか。
その試金石の一つが、沖縄の普天間基地移設の問題であったが、社民党の志は無視されてその国民の願いは無惨に打ち砕かれた。
この問題を考えるとき、岸信介がCIAの全面的な援助の下に日本の政治の最高権力者にのぼりつめた経緯について、改めて振り返ってみる必要があるように思われる。
岸信介、有末精二、児玉誉士夫と並んでCIAの協力者となったのが賀屋興宣である。
東條内閣の大蔵大臣を務めていた賀屋はA級戦犯として終身刑の宣告を受けたが、1955年に保釈され、1958年に赦免された。
同じ年、国会議員に選出され、CIAの協力者となった。
岸にもっとも近い顧問となり、自民党外交調査会の中心的なメンバーとして活躍した。
賀屋とCIAの協力関係が極めて重要な役割を果たすことになったのは、ベトナム戦争の最中である。
米軍は、沖縄の広大な軍事基地をベトナム爆撃の重要な後方基地として利用するとともに、兵員、武器の中継基地として、また、野戦病院や死体処理施設として、さらに膨大な量に上る核兵器の貯蔵場所として、使っていた。
米軍は、日本の安全保障を名目として、実際には日本の軍事基地を利用して、ベトナムで歴史上最大規模の自然と社会の破壊、そして人間の殺教を行っていたのである。
アメリカの、この非人道的、反社会的、残酷極まりない侵略行為に対して、世界中で激しい反米闘争が展開された。
日本の場合も例外ではなかった。日本全国のほとんどすべての大学で、学生たちが立ち上がって、人間としての良心を守り、sanityを保つために反米、体制批判を掲げて、激しい闘争を展開した。
日本の大学の歴史を通じて、もっとも崇高な心と高貴な精神が発揚された感動的なときであった。
しかし、自民党政権は、パックス・アメリカーナの忠実な僕としての役割を全うした。
苛酷なまでに警察力を投入して、学生たちを徹底的に弾圧し、多くの大学はまさに「灰燼」に帰してしまった。
あれから、半世紀近い歳月が流れたが、日本の大学は、社会正義の感覚を全く失って、知的な観点からも、また人間的な観点からも、世界でもっとも魅力のない存在となってしまった。
1968年11月に予定されていた選挙を自民党に有利に動かそうとして、CIAは秘密工作を展開し、賀屋はその過程で重要な役割を果たしたが、その試みは成功しなかった。
しかし、沖縄自体は1972年日本の統治に返還されたが、沖縄の米軍基地は今日まで残っている。
というよりアメリカの世界戦略の大きな見直しの結果として、沖縄の米軍基地の重要性はますます増大しつつあるのではないだろうか。
普天間移設に関わって起こつている諸問題はまさにこのことを象徴しているとしか思えない。
この過程で、パックス・アメリカーナの僕となって、日本の国民と国土を「灰燼」に帰してしまった自民党政権の残した負の遺産はあまりにも大きく、日本国民全体の肩に重苦しくのしかかっている。
国民の多くが政権交替を望んだのは、究極的には米軍基地の日本全土からの全面的撤退を求めてのことであったが、新しい民主党連立政権は全く、その期待に応えようとはしなかった。
アメリカ政府は、この弱腰を見て、かってないほど、高飛車に出てきている。
この際、最小限望みたいのはまず、歴代の自民党政権がパックス・アメリカーナの完全な傀儡となって、平和憲法の志を踏みにじり、日本の歴史、自然、社会、そして人間を壊してきた全過程を詳細に調査して、国民の前に開示することである。
そのとき、歴代の自民党政権の指導的な立場にあった政治家たちの果たした役割を明らかにし、その社会的責任を徹底的に追及することが、いま日本の置かれている悲惨な、望みのない状況を超克するためにもっとも肝要なことである。
その上で、日本国民すべてが力を合わせて、沖縄の米軍基地を始め、日本国内に存在する米軍基地の全面的返還を求めて、大きな国民的運動の展開をはかるべきではないだろうか。
『普天間基地問題から何が見えてきたか』