この世を旅立つ時、人はどんな言葉を最期に残すのだろうか?
現実問題として、死ぬ瞬間まで周囲の人と会話を交わせる人は私の経験ではごく僅かである。
病状にもよるだろうが、多くの人間の最期は、意識が朦朧としていて、会話が出来るような状態ではないのが実情ではなかろうか?
だからこそ、元気なうちに、大切な人に「伝えたい」ことは伝えておくべきである。
今でも忘れられないKさんという70代の女性がいる。
Kさんと出会った時、Kさんは既に末期の肝臓がんだった。
自営業をしている旦那さんは、めったに病室を訪れることはなかった。
後妻だったこともあり、家族との関係もあまり良くないようで、亡くなった前妻の娘さんが時折お見舞いに来られる程度。
しかしKさんは信仰心の篤い人で、毎日「祈り」の時間を欠かさない人だった。
しかし、Kさんは決してそのことを愚痴るわけでもなく、淡々と日々を生きていた。
そして笑顔を絶やさず、いつも優しい言葉を私にかけてくれるような人だった。
私がKさんの病室を訪問すると、「あれ?何かあったの?」私の表情から「何かあった」ことを察するような鋭い感覚の持ち主だった。
「私でよかったら話してみなよ。何でも話は聞くよ」と言われたこともある。
何故、末期ガンであるにもかかわらず、ここまで他人に優しくできるのか?私には分からなかった。
Kさんと一緒に過ごせることが、当時の私は何より幸せな時間だった。
毎日のように病棟では人が亡くなって逝く。
私とKさんの関係も一過性にすぎない。
しかし、私にとってKさんは、病院のスタッフと患者さんという関係を超えて、ひとりの人間として出会えてよかったと心から思える人であった。
自分自身が末期がんという極限状況であるにも関わらず、未熟者で失敗ばかりを繰り返していた私を思いやる感性を持っている人がいるというのには、驚かされた。
お母さん
そのKさんが、いよいよ自力で歩けなくなり、食事も自力で食べれなくなってきた時のことだ。
Kさんは最後の時を覚悟したのだろうか?
一枚の写真を手帳から取り出しこう言った。
「お母さん」と。
その後、昏睡状態に入り、しばらくたって眠るように亡くなった。
その死に顔は安らかだった。
「亡くなった母にまた会える」と、まだ歩ける時にKさんは私に話してくれたことがあった。
「死ぬことは怖くないわ。あの世で母にまた会えると思うと楽しみだわ」そう言っていたのが忘れがたい。
亡くなった時、枕元には手帳があり、その手帳には「母親の写真」があった。
娘さんが見せてくれた手帳には辞世の句がこう書かれていた。
「みほとけの 願いに救われ 往生す 先立つ人に 会うぞ嬉しき」
葬儀が終わった後、娘さんと話をした。
娘さんは言っていた。
「いのちは親から戴いたものなんですね。いつかお返しする時が来るその時まで、大切に使いたいと思います」
今でも目を閉じるとKさんの微笑みが思い出される。
葬儀が終わった後、娘さんから手紙を渡された。
そこには「あなたと出会えてよかった。ありがとう」と書かれたKさんの思いが綴られてあった。
第二次世界大戦末期、ナチス強制収容所に入れられたこともある精神科医のV・Eフランクルは「それでも人生にイエスと言う」という著書の中で、人生はどんな状況になっても生きる意味・価値はあると言っている。
具体的には①創造価値②体験価値③態度価値があるという。
末期癌になっても歌を詠んだりする「創造的」な行為は、周囲の人に影響を与えるではないか?
Kさんはよく戦争体験を私に話してくれた。
そのように、戦争を知らない世代に今まで人生体験を周囲の者に話すことは、意味があるではないか?
また、その人と接することで穏やかな気持ちになるというような「態度」は、周囲を和ませ、あたたかい気持ちにさせるではないか?
だからこそ、フランクルは「それでも人生にイエスと言った」のである。
あなたは人生の最期に自分自身にも周囲の人にも「イエス」と言えるだろうか?
また「イエス」と言えるような生き方をしているだろうか?
松下幸之助は言った.
「誰にでも与えるものはある。笑顔を与える、笑いを与える。求める活動から与える活動へ転換をはかりたい」と。