2011年3月11日に東日本大震災が発生した。筆者はすぐに被災地に入り、消防や警察、自衛隊らと共に、当時、最も過酷な仕事と言われた「遺体の捜索から搬送」までの仕事に従事した。
被災地で見た「死」=ご遺体は、軽く千体は越えている。もう、約11年前のことである。
11年近く過ぎた現在でも、時々、「あの時」のことを思い出す。
そして、ふと、いたたまれない気持ちになることがある
既に東日本大震災の出来事は、東京にいると、多くの人は忘れてしまっているかのようである。
決して風化させてはいけないという想いから、その時のことを、備忘録もかねて、書き残しておきたい。
死から学ぶもの
火葬場の職員までもが涙ぐんでいる。
その場にいた誰もがこみ上げてくるものを我慢できなかった。
小学生の息子を突然の事故で喪った母親は半狂乱になり「いやだー、まだ息子はまだ死んでいないー。これは嘘よー、夢よー」と釜の前で泣き叫び、棺にすがりついた。
これからいよいよ棺が釜に入れられようとした瞬間であった。
「私の息子に触らないでー」と、ものすごい目つきで睨み返す母親に対して、その場にいた誰もが何も言えず、ただ愕然と立ち尽くしていた。
それからどのくらいの時間が流れただろうか。
心身ともに疲れ果てた母親が、膝から崩れ落ちるように、その場に倒れこんだ。
急いで皆が駆け寄る。
白目をむいて気絶した母親は、親族の車に担ぎこまれ、病院へ運ばれた。
その後、火葬場の控え室へ向かう人たちは皆一様に無言であった。
誰もが若すぎる理不尽な「死」に対して、やり場のない怒りを感じていた。
「人生とは不公平だね、変われるものなら私が変わってあげたいよ、なんで・・・なんで・・・」
お孫さんの成長を楽しみにしていた初老の男性が呟いたその言葉が、今でも耳から離れない。
先日、その母親から私宛に電話があった。
「もうすぐ今年も終わっちゃうねー、その後、元気にやっていますか?」「はい、おかげさまで何とかやっております」「そうですか、それは良かった」「はい、ありがとうございます」「息子の死を忘れないでね。息子の分まで、あなたが精一杯生きてあげて。そして、人の痛みの分かる素敵な人間になってね。それが息子の供養になるから。いのちを粗末にしないでね。頼んだわよ。」
電話越しに聞こえる母親の声は涙ぐんでいた。
しかし、その声は力強かった。
「人生を一生懸命に生き抜いて欲しい」という「願い」を感じた。
まさに「いのち」のバトンタッチが行なわれた瞬間であった。
学生時代に師事していた「バカの壁」の著者・養老孟司先生は「人間の死亡率は100%」とよく言われていた。
人は死ぬ。
ならば、与えられた寿命を全うすること。
いつお迎えが来ても悔いがないような生き方をすること。
それが今の私に出来る精一杯の恩返しであると思っている。