餓死者を含めて犠牲者総数4500万人 文庫 毛沢東の大飢饉: 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962 

(書評より)精選された資料の提示 これこそ「研究書」

凄まじい数の人間が餓死したこの「大躍進」。

耳目を引く問題であるだけに、その内容の正確性が問題となるが、本書は一番資料が充実しているのではないかと思われる。

この大躍進期を描写解説する本としては、「毛沢東秘録」「周恩来秘録」、「大躍進秘録」、「ハングリーゴースト」などがあり、一応目を通したが、資料の多さとその資料の質では、他書の追随を許さない。

本書は2010年に出版されたものを邦訳したもの。

「大躍進」から60年以上も経つが、なぜこの時期の出版なのか説明がある。

「詳細な、恐ろしい記録は中国共産党中央と地方の文書館(当案館 当は木偏に当 以下当案館)に存
在していた。

…この数年のあいだに静かな革命が起きた。

膨大な、貴重な宝物がつぎつぎと機密指定を解除された。

…2005年から2009年にかけて、私は中国全土で数多くの資料を調べた」。

これがディケーター教授の調査であり、これまでの書籍のような、伝聞等の二次資料からの推測ではなく、かなり精度の高い資料を駆使した書であるといえる。

「党の記録は普通…構内に収蔵されている…数十年昔の党書記が走り書きした一枚の紙きれから几帳面にタイプされた指導部の秘密会議の議事録までのすべてを詰めこんだホルダーが積み重ねている」ことによって、教授は当時の資料を収集し分析する。

「本書は…中国各地の都市や件から数年間にわたって収集した千点を優に超える資料に基づいて書かれている」。「機密報告書、党指導部部会の詳細な議事録、党指導部の重要な講話、演説、発言、調査、供述、聞き取り調査、一般報告書」、考え得るありとあらゆる一次資料を分析し、丁寧に書かれたのが本書である。

惜しむらくは、当案所の「非公開」の資料にはアクセスできなかったが、これはどうしようもない。

 「収容所に送られ、殺された人が250万人…餓死者を含めての犠牲者の総数が4500万人に達していた」ことを明らかにしている。

本書の資料等について。

主要参考文献、アメリカや中国本土以外は八つの外国(ロシア、ドイツ、イギリス、赤十字等)にある官公庁に収蔵の文献、中国国内の当案館は、各地の30箇所近を直接訪問し資料を集めている。

参考書籍(出版物)は、130以上(うち30ほどが中国語書籍)、原注(文献資料の提示)は何と1300以上に及ぶ。これだけの資料を読み込み分析していて、他の書の追随を許さない。

教授は他の「大躍進期」関連の書についても、その資料収集の不十分さを指摘し、「一度しか(その地方に)訪れて」おらず正確ではないと批判する。

1958年から1962年の大躍進はまさしく、「中国は地獄へと落ちていった」。

毛沢東の大躍進政策によって、「15年でイギリスを追いこす」という誇大妄想的な、実現不可能な目的を遂げるために、毛沢東はありとあらゆる指示を出している。

ソ連モデルではなく「工業と農業の『二歩足で歩く』道を歩み始めた」。

農民はバラ色のユートピアとして全く現実性のない「人民公社」に組織化され(毛沢東はのちのこれを農民が「自発的」に行ったと強弁する。

「毛沢東の秘められた講話」に詳しい)、全てが集団化された。

「集団化によって誕生した共同食堂で各人の働きぶりに応じて供給されるわずかな食料は、党が発するあらゆる指令に人々を従わせる武器とな」り、「大躍進という名の実権は、数千万の命を奪い、この国がいまだかつて経験したことのない悲劇的な結末をもたらした」。

教授はこう述べた後に、今までの研究の不十分性を指摘している。

「例えば、総死者数について言えば、研究者たちはこれまで、1953年、1964年、1982年の人口調査結果を含めて公式の人口総計から推定するしかなかった。だが…報告書や…機密報告書は、あの大惨劇の規模が従来の推定よりはるかに大きく(報告されている)これまでの集計数値がいかに不十分であるかということを物語っている」。

そして「少なくとも4500万人が死を遂げた」と推定する。

さらに大躍進期の暴力についてもこう言う。

「1958年から1962年のあいだに、犠牲者総数のおよそ6パーセントから8パーセント、…少なくとも250万人が拷問死あるいは…処刑された事実を推察することができる」。

鉄鋼生産量を上げるために、ヤカンや鍋まで鋳つぶされ、家畜も急減少した。

粗悪な鉄鋼を生産(しれも素人が作った高炉で)したため、生産鉄鋼の多くは無駄となり、物資は計画性のなさゆえに放置され、農産物は腐敗した。ダム建設のための自然破壊、洪水、森林の急激な減少、全てがこの時期に起きている。

毛沢東は「彼を批判した人々を糾弾し、党に不可欠なリーダーとしての地位を維持しようとした。そしてその大躍進の失敗後に、権力を永続化するための「プロレタリア文化大革命」を1966年から始める。

大躍進の大部分が毛沢東の指示による失政としか考えられない。

全ての分野で卓越する(全く科学的根拠のない「密栽培」等の指示)指導者として恣意的な政策を断行し,その失敗には全く責任をとらなかった。(大躍進政策について、直接的ではないが周恩来が毛沢東
に言い放った言葉があったように記憶している。)

「なにより顕著だったのは人命の損失に無頓着だったこと」、これもまた「毛沢東の秘められた講話」と一致する。

教授は、劉少奇と周恩来は毛沢東のいうままに、毛沢東への支持を取り付けるために、共産党幹部に働きかけていた、として厳しく周恩来と劉少奇の責任を明らかにしている。

「繰り人形」的存在であってもその責任は負わなくてはならない。

教授はこれらの事実を叙述するに、当案館の資料の正確性にも限界があることを認めている。

「われわれは…国(中国当局)のプリズムを通して見るしかない」のであるから。

しかし教授は当案館の資料がいつの間にか民間に流れ、中国の古書店に流れた資料すら収集し分析する。まさしく「研究書」という名にふさわしい。

また蒋介石については「アメリカは…彼を信用していなかった」、「中国の当案所の方がはるかに信頼性は高いために、本書では台湾の資料は一切使っていない」。

これも見識であり、利用が極めて簡単な台湾の資料を排除している。これも大きく頷けるところ。

「蒋介石秘録」という名の「蒋介石自伝」のあまりな書き方(誇張、矮小化、自己宣伝、間違った思い込み、意図的な事実無視)を思えば、この判断も当を得ていると思われる。

さらに中国人研究者であっても、資料を十分に収集せずにかなり偏った資料でのみ大躍進を記述している研究者をきちんと批判している。

ただ、ロデリック・マックファーカー(マクファーカー)を推薦しているのは意外だった。

マックファカーは、おそらく中国語は堪能でなく(原文を読めない)、資料収集も人任せで自分は注釈をつけることしかしておらず(資料に直接触れたのかがわざと曖昧に記述している。肝腎なところで、「~が訳出」「~がまとめた」という意味の表現が多々ある。マックファーカーは多くの資料を提示しているが、信頼性のない資料が多く、資料の援用もかなりいい加減。時には、eメール(それもマック
ファーカーの友人)を引用しているところさえあり、多くはイギリスのTVやラジオ、新聞記事が「資料」として麗々しく示されている。よって、私自身はマックファーカーを信用できないと考えている)。

このような著作を教授が推薦しているのは驚きだった。

ただ推薦しているのは、邦訳された2書ではなく、たまだ邦訳がない書、「文化大革命の起源」であった。欧米ではマックファーカーはそれなりに信頼されているのだろうか。

本書では「北京の中南海の回廊で起きていたことと、一般庶民の日々の体験をつなぎ合わせ」リアルに現実を描く。

大躍進期には、党の指示とそれに反発するかなり多くの庶民の行動がある。

生き残るために「取り入る、隠す、盗む…ごまかす」ことがおこなわれていた。

それは英雄的行為などでなく、まさしく自分が生き残るための選択であり、ほぼ全ての階層の人間がこれをおこなっていた。

この事実の重さ。「訳者あとがき」によれば、中国在住の学者も今では、3000万人を超える死者を推計しているという。

教授は(私の敬愛する作家)プリーモ・レーヴィを引き合いに出し、アウシュビッツでの体験と重ね合わせる。「大惨劇のさいの人間関係の複雑さ」を本書は描く。

スターリン、蒋介石と毛沢東の関係についてもよくまとめられている。

スターリンは常に国民党とつながり、中国とソ連との奇妙なよそよそしさの原因となっているのであろう。

二次大戦、国共内戦、朝鮮戦争に至るまでの一連の流れもわかりやすい。

「実務家」とされる周恩来への暗示的表現=「無限に続く執行猶予の中で周は忠誠の証として精力的に大躍進を進めていく」

大躍進期の流れ。

1956 知識人の支持を手に入れるために、毛沢東は「百花斉放」運動を開始

1957 百花斉放は「党支配の正当性」まで批判され、毛沢東は50万人を「右派」として弾圧、強制労働においやる(学生 知識人)中国は15年以内にイギリスを追い越す」と公言。百花斉放は結局失敗。

1958 毛沢東は自らの政策に反対する幹部(周恩来含む)を攻撃。「大いに意気込み、高い目標を目指し、多く、早く、立派に、無駄なく社会主義を建設する」路線を打ち出す。「大躍進」の開始(その端緒となるものは1957末)。党内反対派を除名。「人民公社」が誕生。集団化を目指すがほとんどうまくいかず、鉄鋼生産も失敗。毛沢東はさらに集団化を進める。飢饉が広がる。

1959 毛沢東は古参幹部を攻撃。飢饉の中で政策をさらに急進化。「大躍進批判」をする幹部を攻撃、「反党集団」として弾圧。この年に4000万人以上が死亡

1960 中ソ関係のさらなる悪化。人民公社の権威をゆるめる。

1961 党幹部の全国視察。「大躍進」は大きく後退。

1962 党拡大会議で劉少奇が「飢饉は人災」と言及。毛沢東の孤立化。

毛沢東はこの後、奪権すべく 1966に「プロレタリア文化大革命」発動。

なんと無残な歴史か。本書のようなきちんとした「研究書」に敬意を表します。

「毛沢東の大飢饉: 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962」

・「15年以内にイギリスを追い越す」と宣言した毛沢東が1958年に発動した大躍進政策は、人肉食すら発生した人類史上まれに見る大飢饉と、産業・インフラ・環境の大破壊をもたらした。香港大学人文学教授が中国各地の公文書館を精査。

同館所蔵の未公開資料と体験者の証言から「大躍進」期の死者数は4500万人、大半が餓死者で、250万人が拷問死にのぼると算出し、その最大の犠牲者は農民であった。

中国共産党最大のタブーの全貌を明らかにし、党支配の正統性を揺るがした衝撃の書!

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数えきれないほどの死者と負傷者を出しながらも人民解放軍は5時間後に天安門広場を制圧。

その凄惨な光景が世界に報じられる中で、ある映像が撮影された。通りを行進する戦車の前に立ちはだかる男性、通称「戦車男」の映像である。

この映像は人々の勇気の象徴として繰り返し再生されたが、いくつかの奇妙な点も残っている。

既に広場は軍によって制圧されていたにも関わらず、何故「戦車男」だけが厳重な警備を掻い潜って戦車の前に立てたのか?

人民解放軍はどの場所にどの報道機関がいたのか事前に把握していたにも関わらず、何故各国の報道機関が陣取る「絶好のポイント」であのような事件が起こるのを許したのか?

真相は不明だが、天安門事件の11年後に江沢民は次のように語っている。

「私が強調したいのは、すべての市民が自分の願いを自由に表現する権利を尊重しているということです。一方で、私は政府に対する行き過ぎた反抗は指示しません。しかし、そんなときでも戦車は停止し、若者をひいたりはしませんよ」。

数えきれない程の欺瞞と弾圧が繰り返される中、「竹のカーテン」の向こう側に迫ろうとする戦いは現在も続いている。歴史学者のフランク・ディケーターは機密解除された公文書を収集し、実態が謎に包まれていた大躍進政策による犠牲者が4500万人以上に上ることを突き止めた。

これに対し当時の国家副主席・習近平は「中国共産党の歴史を歪曲し誹謗中傷する間違った風潮」と反発。

その後、中国の公文書は極めて厳しく管理されることになった。

2022年には中国国内でゼロコロナ政策に反発する大規模なデモが勃発し、これを取材していたBBCの記者が中国当局に拘束される事態となった。

中国当局によって拘束された外国人記者は2022年時点で110人。これは6年連続で世界最多の数字である。

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