ハーバーマス『公共性の構造転換』

はじめに

世の中にはいろんなタイプの「頭のよさ」がある。学問の世界にいると、そんなことをつくづく実感する。 ハーバーマスは人間googleだ。

すさまじい情報処理能力とメモリを持ち、とにかくあらゆる知識を自分のものにする。

しかしそれは、時にちょっぴりいやらしい衒学趣味のようにも見える。

由緒正しいドイツ的学問の泰斗ハーバーマスの文体には、そんな知識人のいやらしさが見え隠れする。

知識をとことんまとめ上げる、どこまでも質の高い百科事典。ハーバーマスはそういう人だ。

そういう「頭のよさ」をもった、一流の学者だ。

天才的思考力をもった哲学者に、一級の思考の材料を与えてくれる人。

ハーバーマスは、そういう学者なんじゃないかと私は思う。

本書は「公共性」と呼ばれるものの系譜をたどり、現代におけるその崩壊現象を指摘するものだ。

この問題解決の方途は何か。ハーバーマスの問題提起は、今もなお生きている。

1.問い

 今日、われわれの社会における「公共性」は崩壊しつつある。ハーバーマスは、まずこのことに注意を促す。

「今日、公共世界の崩壊傾向は、紛れもなく現われている。〔中略〕それにしても、公共性は相変らず、われわれの政治的秩序の組織原理であることに変りはない。それは明らかに、自由主義イデオロギーのぼろくずとはちがう、それ以上のものであり、社会民主主義が弊履のごとく投げすてて平然としていられるものではない。」

 われわれが再び公共性を取り戻すには、どうすればいいだろうか。ハーバーマスはそのように問う。そしてこの問いに答えるためには、まずはそもそも、「公共性」がどのようなものであったか、歴史社会学的に明らかにすることが必要だ、と主張する。そして「公共性」とはどのような本質構造を持った概念なのか、明らかにすることが必要だ、と。

「今日われわれが『公共性』という名目でいかにも漠然と一括している複合体をその諸構造において歴史的に理解することができるならば、たんにその概念を社会学的に解明するにとどまらず、われわれ自身の社会をその中心的カテゴリーのひとつから体系的に把握することができると期待してよいであろう。」

2.代表的具現性

 そこでハーバーマスは、まず中世における「公共性」がどのようなものであったかを探究する。

 それはひと言で言って、「代表的具現性」である。

「〔領主という〕地位の保有者は、この地位を公的に表現する。すなわち彼は、なんらかの程度において『高位』の権力を代表的に具現する者として姿をあらわし、これを表現する。」

 中世において、公共性とは封建領主の権力のことだった。領主こそが、公的なものとして人々の前に君臨し得た存在だったのだ。

 しかしやがてこの代表的具現は、宮廷へと移行する。

「代表的具現の公共性は、ルイ14世の儀典においてその宮廷的集中の洗練された頂点に達する。」

3.市民的公共性の誕生

宮廷に象徴された代表的具現は、しかしやがて崩壊していくことになる。

「近代国家」が登場するからだ。近代において、公共性は「国家」とイコールになる。

「『公的』という言葉は、狭義においては国家的という言葉と同義語になる。」

しかしやがて人々は、この「国家」という権力に対して、「私」たちの権利を守らなければと考えるようになる。

ここに新たな「市民的公共性」の概念が登場することになる。

「市民的公共性は、さし当り、公衆として集合した私人たちの生活圏として捉えられる。〔中略〕それは、原則的に私有化されるとともに公共的な重要性をもつようになった商品交易と社会的労働の圏内で、社会的交渉の一般的規則について公権力と折衝せんがためであった。この政治的折衝の媒体となる公共の論議(・ffentliches R・sonnement)は、歴史的に先例のない独特なものである。」

 それはどのようにして登場したか。ハーバーマスは言う。

「それは1680年から1730年の間の最盛期における喫茶店(coffee-house)と、摂政時代と革命との中間期におけるサロンである。これらは、イギリスでもフランスでも、最初は文芸的な、やがては政治的な批判の中心であり、その中で貴族主義的社交界と市民的知識層との間に、一種の教養人としての対等関係が次第に形成されはじめる。」

 カフェやサロンにおいて、貴族と知識人とが、徐々に対等の関係を築き始める。人々が共に「討論」する公共の空間が登場したのだ。あるいはドイツでは、多くの読書会が結成された。

「18世紀の〔中略〕終りごろには、ドイツで270以上の読書会の存在を確認することができた。それは大ていの場合、特別の部屋をそなえたクラブであって、これが雑誌や新聞を読み、また、これと同様に重要なことであるが、読んだ事柄について談論する機会を提供していた。」


4.公共性の矛盾

 以上のように、市民的公共性は、権力的国家に対して市民の権利を守るものとして登場した。

 しかしこのようないわばチェック機能としての公共性は、やがてその矛盾を露呈し始める。

「法の保障によって、すなわち国家機能を一般的規範へ拘束することによって、市民的私法体系において法典化された自由権とともに、『自由市場』の秩序も保護される。」

 こうして、俺たちをもっと金持ちにしろ、もっと商売をさせろ、商売を保護しろ、という要求を、金持ちたちが「公共性」の名の下に主張するようになる。

 これは「公共性」の矛盾である。

「一方では、意志的表現としての法律の概念の中に、実力によって貫徹された支配要求という契約が入りこむことになる。しかし他方では、理性の表現としての法則の概念は、議会と公衆の連関の中で堅持された公論からの起源という、もうひとつのいっそう古い契機をも保持しているのである。」

 市民全員のための「公共性」であったはずなのに、これがやがて、一部の金持ちたちの支配要求に屈するようになる。

「それ自身のイデーによればすべての支配に対立しているという公共性の原理に助けられて、ひとつの政治的秩序が創立されたが、しかもそれの社会的基盤は、どうしても支配を不必要にしなかったのである。」

 以下、こうした時代を生きたルソー、カント、ヘーゲル、マルクス、ミル、トクヴィルらの思想が検討されるが、ここでは割愛する。

5.批判的公開性から操作的公開性へ

 さて、以上のように金持ちたち一部の市民に都合のいい社会が出来上がりつつあったが、こうなっては貧しい人たちも黙ってはいない。

「経済的に弱い立場にある人々のうちに、市場で優位である者に対して政治的手段で対抗しようとする傾向が強まった。」

「19世紀末以来みられる私圏への国家の干渉は、いまや政治参加をみとめられた広汎な大衆が、経済的敵対関係を政治的衝突へ移し替えることに成功するに至ったことをうかがわせる。すなわち干渉政策は、経済的に弱い立場にあるものの利害に応ずる一方で、他方ではそれの抑止にも奉仕することになるのである。」

 要するに、福祉国家が登場するのだ。人々はそれぞれに、公共的な身分保障を得るようになった。

 しかしここでまた、新たな問題が起こってくる。

「私人の自律は今では私有財産の処分権の中に本源的に基礎をもつものではなくなって、私生活の公共的身分保障から派生した自律となってしまったので、『人間』が(かつてのようにブルジョワとしてでなく)市民(citoyen)として、政治的に機能する公共性を媒介にして彼らの私的生存の条件を自分の手中に掌握するときにのみ、実現されるであろう。しかしそれは当面のところ期待できない。」

 なぜか。それは大衆が、権力によって操作される存在になってしまったからだ。

「マス・メディアはこの公共性の圏からますます脱出して、かつて私的であった商品交易の圏内へ引きもどされた。それらの影響力が公共的に大きくなるにつれて、それらはいよいよ多く個人または集団の私的利害からの圧力にさらされるようになったのである。」

 力をもった人たちが、自らの私的利害を守るためマス・メディアを利用する。

政治権力は、公共の福祉を考えるのではなく、どれだけ知名度を上げ、大衆の気持ちを操作できるかに集中する。

「公共的に論議される事態にたいする知的批判は、公的に演出される人物や擬人化へのムード的順応に席をゆずり、合意(consent)は知名度(publicity)がよびおこす信用(good will)と一体化する。かつては公開性(Publizit・t)は、政治的支配を公共的論議の前へ引き出してくることを意味していたが、今では知名度は、無責任なひいきの反応の集約にすぎない。」

 ハーバーマスはこのような公共性の構造転換を、次のように批判する。

「かつては、専制君主たちの秘密政治に対抗して、公開性を貫徹することが必要であった。それは人物や案件を公共の論議に委ねることを求め、政治的決定を公論の審廷で修正されうるものにした。今日では逆に、パブリシティは利害関係者の秘密政治の力をかりて推進されている。」

6.公論の復活のために

 ではこうした問題を、われわれはどのように解決することができるだろうか。ハーバーマスは言う。

「市民的公共性は、構造的な利害葛藤と官僚制的決定権とをミニマムに抑えることが客観的に可能であると想定していた。第一の問題は技術的な問題であり、後の問題は経済問題へ還元できる、と考えられていた。今日にあっては、政治的に機能する公共性がその批判的志向においてどこまで実現されうるかが、いよいよこの二つの問題の解決可能性にかかっているわけである。」

 要するにハーバーマスは、人々がもっと批判的になる必要がある、と言うのだ。

「組織化されずにいる私人たちの公衆は、公共的な意志疎通によってではなく、公共的に表明された意見の共通化によって、示威的もしくは操作的に展開される広報活動の激流の中で使役されるのである。これに対して厳密な意味での公論は、この二つのコミュニケーション領域が批判的公開性というもうひとつの広報性によって媒介されるかぎりでのみ形成されうる。」

 私たちを操作しようとする権力的コミュニケーションに抗して、われわれは批判的になる必要がある。

 これがハーバーマスの答えだ。

 何となくありきたりな答えのようにも思うが、しかし問題の所在と課題の明確化をしてくれたという意味で、ハーバーマスの功績は大きいというべきだろう。(苫野一徳)

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