政治・行政が生み出す「社会的へき地」
1998年からの10年間、私は家族5人で長野県南佐久郡南相木(みなみあいき)村に住み、国保診療所長を務めた。
鉄道も通ってない山村であり、地理的には「へき地」だったが、だからといって都会に比べてひどく扱われていると僻(ひが)むような雰囲気はなかった。
たとえば、山の幸をご近所の人から頂くことがあった。
或る年の秋の40本の松茸は、私たち夫婦と3人の子どもでは食べきれなかった。
シカの肉は、狩猟許可の診断書を発行した私への土産というよりも、山で暮らす男としての腕前の披露の意味が多分に込められていたような気がする。
南相木村を流れる相木川は千曲川に合流し、その後信濃川となって長い旅の末に日本海へ注ぐ。
昔は林業と養蚕で生計を立てている家がほとんどだったが、いまでは町まで舗装された道路が通り、佐久や小諸まで勤めに出る人も少なくない。
また、そういう町場で商売を始めて成功している人もいる。
隣の南牧(みなみまき)村の野辺山高原は、高原野菜の産地として知られるようになった。
「億」を超える収入の農家もある。
医療的には、一次が診療所、二次は小海(こうみ)分院、三次が佐久総合病院本院と二重、三重にカバーされており、救急車が患者の搬送先を見つけられなくて右往左往することもない。
逆に都会のベッド数1300床の大学病院の目の前で交通事故に遭った女子高生が、救急車で他の病院に搬送され、3時間後に亡くなったなどというニュースに接すると、「社会的へき地」のほうが大変だなぁ、と思った。
現代の「へき地」は、地理的な位置関係だけでなく、政治や経済、歴史などの側面からも考慮された方がよいのではないか。
大都会での救急患者のたらい回しは、大病院や医師会の思惑を抜きには語れず、それを政治・行政が容認して「社会的へき地」が生まれている。
そう考えると、いま世界で最も悲惨な「社会的へき地」は、パレスチナのガザ地区だろう。
軍事支配により刷り込まれた恐怖
イスラエル軍がガザの病院を爆撃し、患者や子どもたちが殺戮されている様は「ホロコースト」以外の何物でもない。
なぜ、この蛮行を国際社会は止められないのだろうか。
9年前、パレスチナから女性の保健師さんと栄養士さんが研修で来日した際、佐久病院にもお立ち寄りいただき、ランチをご一緒しながらお話しする機会があった。
JICA(国際協力機構)の母子健康手帳を中心とした保健サービスのパレスチナへの導入プロジェクトが一定の効果を上げ、次のステップとして小学校への「保健室」の設置、「学校給食」の実現に向けて、日本に学びに来られたのだった。
ランチの席で、ふたりの女性は、政治的、歴史的なことは一切、口にしなかった。
身に危険が及ぶからだろうか。
そのくらいイスラエルの軍事力によるパレスチナ支配が「システム化」していると感じた。
外国に来ても彼女たちの言動は監視されているような気がしたのだ。
繰り返される残虐行為
ご存知のようにイスラエルは「シオニズム(ユダヤ人国家建設を目ざす思想および運動)」を背景に1948年、平和に暮らしていた70万人のパレスチナ人を追い出した地域に国をつくった。
パレスチナ人はこれを「ナクバ(大惨事)」と呼んでいる。
イスラエルは、建国当初から国境を定義せず、四次にわたる中東戦争や、入植によって占領地を押し広げてきた。
パレスチナ人が「インティファーダ(一斉蜂起)」で抵抗すると、その数十倍返しで報いた。
速戦即決で大量報復すれば抑止効果がある、と信じている。
その結果、現在の「ホロコースト」が起きている。
もちろん、10月7日のハマスの越境攻撃による一般人を含む1200人以上の殺害や、200人以上の人質を取ったことは断罪されねばなるまい。
ただ、人質交換については、1985年にはパレスチナ側が捕らえた3人のイスラエル兵と1151人のイスラエルに囚われたパレスチナ人、2011年には1人のイスラエル兵と1027人のパレスチナ人との捕虜交換が行われている。
今回、ハマス側は、200人以上の人質に関して、イスラエルの刑務所に入れられている6000人の同胞の釈放を求めている。
だが、イスラエルは、それを無視するかのように攻撃をくりかえし、すでに1万4000人以上の人々が殺されているのだ。
1993年にノルウェーの仲介で、イスラエルのラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長の間で「オスロ合意」が図られ、パレスチナに暫定自治政府が樹立された。
パレスチナとイスラエルの「二国共存」を目ざす理念が示されたが、2年後にラビン首相が暗殺され、すぐに右派ネタニヤフ政権ができて、すべてが覆された。
くり返すが、イスラエル右派にはシオニズムが脈々と受け継がれている。
常に「卵」の側に立つ
カナダの歴史学者でユダヤ教徒の歴史学者、ヤコブ・M・ラブキンは、シオニズムが19世紀の植民地主義と人種差別から生まれたと規定し、次のように述べている。
「シオニズム運動の主流は、その後も、先住の人間集団を排除し、その財産を奪取する移住型の植民地主義をさかんに押し進めながら、ヨーロッパ式のナショナリズムをお手本とし続けるでしょう」
私たちは、21世紀のいま、19世紀の「暴戻」に直面している。
作家の村上春樹は、2009年2月、エルサレムでの授賞式で「壁と卵」のメタファーで、こう語った。
「高く、堅い壁と、それに当たって砕ける卵があれば、私は常に卵の側に立つ。しかも、たとえ壁がどんなに正しくて、卵がどんなに間違っていようとも、私は卵の側に立つのです」
「壁」とは爆撃機、戦車、ロケット砲などであり、「卵」は攻撃される非武装市民と説く。
さらに「壁」は「システム」でもある、と村上は抽象化した。
医療者もまた、「へき地」にあって、卵の側に立ち続けなくては、お役には立てないことだろう。
色平哲郎
大阪保険医雑誌2023年12月 特集「へき地医療の今とこれから」掲載