フィリピンへの贈り物 朝日新聞 2011年2月10日
ニッポン 人・脈・記 隔離の記憶(10)
2002年3月19日。
作家の伊波敏男(いはとしお)(67)は、農協の窓口で通帳記入をしていた。
印字する音が聞こえる。
でてきた通帳をみると、そこには8桁の数字があった。
12、000、000・・・
1200万円。
送金元は、厚生労働省とあった。
通帳を閉じ、伊波は思った。
「このお金は、ハンセン病になった仲間たちが、国の隔離政策は違法と問うた裁判に勝ち、もたらされた補償金だ。頑張って社会に問題を提起したのだ」
「私は40年も前に、病を隠さず生きる道を選んだ。自分で、隔離はおかしい、と判断を下したんだ。
だから原告に加わらなかった。今さら司法のお裁きで救済されるのは、これまでの人生を投げ捨てるようなものだ」
伊波は中学生のとき、アメリカ統治下の沖縄で隔離をされる。
施設を逃げだし、パスポートを持って本土へわたる。
タイプの仕事をした。
結婚し、ふたりの子を授かった。
だが、アパートへの入居が拒まれる。
保育園に子を通わせようとすると、反対運動がおきた。
「自分で働いて、家族をもつ。そんな普通の生活がしたいだけだったんだ。この金を受け取るのは、国の謝罪を受け入れること。これですべてをチャラにされるのか」
受け取るか、拒むのか。
迷った伊波は、自分の手を見た。
指が曲がっている。
足もまひしている。
幼少期を過ごした沖縄の医療は立ち遅れていた。
すでにハンセン病の特効薬はあったのに、神経症と誤診され、治療が遅れたことを思い出す。
あるとき、友人でバングラデシュ出身の医師、スマナ・バルア(55)に言われた。
「私が医学を学んだフィリピンでは、多くの医師や看護師が高い給料を求め、海外に出稼ぎにゆきます。満足な治療を受けられない人がたくさんいます」
ああ、自分がいた沖縄と同じじゃないか。
もう同じ思いはさせたくない。
国から金が振り込まれた3ヵ月後。
伊波は、基金の創設を決めた。
将来、フィリピンの地域を担う人材育成に奨学金を出すのだ。
伊波の心意気を知った地元銀行が、金利を通常より2%上乗せしてくれた。
1970年代初めのことだ。
伊波の結婚を追いかけたドキュメンタリー番組が放送された。
このとき、ハンセン病が再発していた森元美代治(もりもとみよじ)(73)は、病棟の食堂にあるテレビでその番組を見た。うらやましい。
伊波は、自分が失った恋人や仕事を手に入れている。しかも、病歴をあかしていた。
この差はなんだ。
森元がこの病気だったことは、特効薬のおかげで、はた目には分らなかった。
慶応大に進学したのち、既往症は「なし」として金融機関に入る。バリバリ仕事をしていた30歳のときだった。
係長目前だった。
銭湯で、親類の子に言われた。
「おじさん、背中に赤いのがあるよ」。
鏡を見た。
背中に丸い斑紋が映る。
再発だった。
隔離の施設でなければ、治療は受けられない。
戻りたくない。
2年間我慢した。
体が悲鳴をあげた。
上司に告白し、みずから職場を去る。
病歴を知る人と一緒にいたくなかった。
その後、視力がどんどん悪化する。
施設のなかで生きる決意をした。
美恵子(みえこ)(65)と結婚。
そのまま20年余が過ぎた。
96年、らい予防法が廃止された。
取材を受け、森元は本のなかでカミングアウト。
すると、大学の恩師や友人、元同僚から続々と連絡がきた。
森元、お前を捜していたんだよ。
02年、再び施設を出た。
同じ病歴の人たちへの支援を始めた。
国際会議で発表することもあるから、いまは英会話のレッスンに忙しい。
森元は語る。
「人生こんなに楽しいもんか。
踏み出して、分かったよ」
この6月。
伊波は、フィリピンのレイテ島へいく。
奨学金をうけて医師や看護師、助産師の道に進んだ20人に会いにいくのだ。
地元に残ってくれていた。
お金の使い道として、どう思っていますか?
「『奨学金は日本からのプレゼントだ』と言ってるんだ。元をただせば税金だからね。
金額以上に、ものすごく価値あるお金になったよ」