「負債と信用の人類学」人間経済の現在 第5章

「負債論」が負債現象をただ悪としてえがいているという誤解、そしてそれと関係していると思われるが「負債論」は負債の現象を平板にえがいているという批判にときおり遭遇する。

これはおそらく、「負債とは約束の倒錯にすぎない。

それは数字と暴力によって腐敗してしまった約束なのである」といった「負債論」の結末を意識してのものだと思われる。

そして、そうした批判にはたいてい、「負債にもよいところがある」、「負債はよいものから悪いものまでヴァリエーションがある」という議論がついてくる。

このひとが囚われやすい結論の一節の訳文と原文をあげておこう、、、

この挑発的ともいえよう一節では、たしかに「負債とは約束の倒錯にすぎない」と断じられている。

とはいえ、「約束」という概念がとくに「負債論」で重要視されてきたわけではない。

したがってここでの「約束」の登場は、いささか唐突な印象もいなめない。

しかし、「負債論」の論脈からすると、負債を、モラル的原理としての交換、ヒエラルキー、基盤的コミュニズムの明確な区別のうちに位置づけた理論的意図の延長上にあるのはあきらかであるように思われる。

つまり、ここでいわれる「約束」は、おそらく交換のうちにおかれた負債に対して「基盤的コミュニズム」に関係していそうだという予測がたつ、、、

まず「負債の歴史を語ること、それは、必然的に、市場の言語がどのようにして人間の生活のあらゆる側面に浸透するようになったかを再構成すること」という点を押さえておくことが肝要だ。

要するに、負債とは人間のある種の関係性が市場の語彙によって変形をこうむって、それがさらにそのある種の関係性、のみならず人間の生活全般に浸透する傾向を持った現象である。

「負債をただ悪としてえがいている」とか「負債が平板になっている」という批判は、おおよそのところこの倒錯した「負債」の視点から世界を眺めている構えを共有しているように思われる。

つまり、論理も系譜も異にした複合的なある現象を「負債」と名づけたときにすでに平板化が行われている。

そう視点をおいてみたときそこにどのような現象が立ち現れるか、これが「負債論」の狙いの、外してはならないポイントなのである。

だとして、それは負債の外部の原理はどのようなものか。

それはヒエラルキーとコミュニズム、いわゆる理想的目標としてのコミュニズムではなく、すでにわたしたちの日常生活のうちに作動し、その総体を支えている原理としてのコミュニズムーー基盤的コミュニズム(baseline communism)ーーである。

ここでは、ヒエラルキーはおいて、とくに本稿で重要になる「基盤的コミュニズム」をまずとりあげたい。

グレーバーはこのコミュニズムの特徴について、次のようにいっている。

・わたしたちがここで実際に扱っているのは互酬性ではないということーーあるいはせいぜい、最も広い意味での互酬性を扱っているだけである、というべきか。

双方の側で平等なのは、相手があなたにおなじことをするで・あ・ろ・うという知識であって、相手が必ずやそうするは・ず・だ・という知識ではない(「負債論」150p)。

「互酬性」とはここでは「交換」と置き換えてもよい概念である。

先ほどあげた誤解の一因は、つまるところ「交換」の過大評価、ほとんどすべての人間的現象を交換というフレームのうちで認識するという傾向の一部分をなしている。

これは「交換人」から出発するアダム・スミスから、最近では「交換様式」によって人類史を枠づけようとする柄谷行人の「世界史の構造」にいたるまで強力な傾向である。

こうした知的傾向のなかでは、負債現象の複雑さはなかなかみえてこない。

端的にいえば、これが「負債論」の立場だ。

グレーバーは基盤的コミュニズムを、伝統的なコミュニズムの定式を継承しながら、「「各人はその能力に応じて[貢献し]、各人にはその必要に応じて[与えられる]」という原理にもとづいて機能する、あらゆる人間関係」としている。

つまり、人はじぶんのやれる範囲でのことをやって貢献し、その(厳密な)対価としてではなく、必要なものを受け取ることができるという原理である。

たとえば、だれかが川でおぼれているのがみえて、じぶんが泳げるならば川に飛び込んでその人間を救う、といった場面を想定すればよい。

あるいは、もっと日常性に近づくならば、電車で立っているのが大変そうな妊婦に席をゆずるといった場面でもよい。

これはたいてい、対価を期待しておこなわれるわけではない。

とはいえ、じぶんがそういう局面におかれたときはだれかがおなじことをしてくれるという期待くらいはある。

こうした原理、しばしば「相互扶助」とも名指されるような原理によって、実はすべての社会の複雑な構築物が可能になる。

それは、わたしたちの日常生活の基盤であり生地をなしているのである。

もうすこし例をあげると、どんな最先端の企業でも、人びとの日常はペンのやりとりからコピーのおねがい、緊急の欠勤の穴埋めなどなど、無数の(厳密な)対価を期待しないやりとりによって構成されている。

グレーバーは好んで、資本主義は基盤的コミュニズムの悪しき組織化であると述べていたが、これもわたしたち自身の日常をふり返ればさして奇異な主張ではない。

日本のほとんどの企業が、おそらくわたしたちの「善意」でもっているという感じは直感としてわかるのではないか。

もちろん、最終的には解雇の恐怖によって維持されているとはいえ、もっと細部では、わたしたちのたとえば同僚への配慮、連帯感、会社ないし社会全体への貢献の認識といったモラル精神に根をおろすかたちで日本の企業は存続している。

というか、それをあてこんで(わたしたちの「善意」につけこむかたちで)そもそも企業組織が成立しているともいえないだろうか。

こうした基盤をなすーーしたがってみえにくい、数量化もされにくいーーふるまいを、すべて、交換の論理によって、つまり対価の期待によるやりとりに還元してしまえば、このシステムそのものがほとんど崩壊してしまうだろう。

こう考えると、資本主義は基盤的コミュニズムの悪しき組織化という物言いもかならずしも突拍子もないものにはみえないはずだ。

そして、ここでもわかるように、(負債をふくむ)特定の具体的な経済現象は複数のモラル原理の編成によって成立しているのである。

「負債と約束」 酒井隆史 「負債と信用の人類学」人間経済の現在 第5章

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