クイズ:「困窮から抜け出せないシステム」への治療法は?正答は以下の末尾に

ジョセフ・E・スティグリッツ「世界の99%を貧困にする経済」序より

「Glass-Steagall Act の復活」

ドルではなく人間が尊重される民主主義を実現してほしい

困窮から抜け出せないシステム 

歴史には、世界じゅうの人々が立ち上がり、”何かがまちがっている”と叫び、変革を求める瞬間が存在する。

1848年と1968年は、まさにそういう激動の年だった。

どちらも大きな動乱が新時代の幕開けを記した。

おそらく2011年という年も、のちのち歴史的瞬間のひとつとみなされるだろう。

北アフリカ沿岸の小さな国、チュニジアで始まった若者たちの蜂起は、近隣のエジプトに飛び火したあと、中東のほかの国々へ広がっていった。

・・・

話を聞いてわかったのは、不平不満の種は国ごとに異なり、特に中東の政治的不満は欧米と一線を画しているものの、すべてに共通するテーマがあるという点だ。

世界各国の人々は同じ認識を共有していた。

政治と経済制度は多様な欠陥をかかえており、両制度は基本的に不平等を内包している、と。

何かがまちがっているという抗議者たちの認識は正しい。

政治・経済制度のあるべき姿ーーわたしたちが学校で教わった姿ーーと、実際の姿とのギャップは、無視できないほど大きくなってしまった。

世界各国の政府は、高止まりした失業率などの重大な経済問題に取り組んでこなかった。

少数者の強欲によって公平という普遍的価値観が踏みにじられる状況は、どんな美辞麗句でも言いつくろえるものではなく、人々は不公平を裏切りと感じるようになっていった。

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バラク・オバマ大統領は、「あなたに信じてもらえるチェンジ」を約束したが、就任後に打ち出された経済政策は、大多数のアメリカ人の目から見ると、ほとんど代わり映えがしないものだったのだ。

それでも、アメリカなどの若い抗議者たちには希望のきざしがあった。

彼らの運動には、父母や祖父母や教師が加わっていた。

彼らは革命主義者でも無政府主義者でもなく、”システム”の転覆を謀っていたわけでもない。

政府が国民に対する義務を思い出しさえすれば、選挙を通じた政治プロセスは機能する”可能性がある”と、彼らはまだ信じていた。

抗議者たちが街頭に出ていったのは、”システム”の変化をうながすためだった。

・・・

アメリカでは「ウォール街を占拠せよ」という連呼が、そのまま抗議行動の名称となった。

大勢の人々が家と仕事を失う一方で、銀行家たちが巨額のボーナスを手にする、という不公平な現状が彼らの怒りをつのらせていた。

しかし、すぐさまアメリカの抗議者たちは、攻撃対象をウォール街からアメリカ社会全般の不平等に広げた。

運動のスローガンは「99パーセント」に変わった。

これは、〈ヴァ二ティ・フェア〉誌(2011年5月号)に掲載されたわたしの論説、「1パーセントの1パーセントによる1パーセントのための政治」にちなんでいた。

わたしがこの論説の中でとりあげたのは、アメリカ国内で法外なまでに広がっていく不平等と、少数の富裕層に不釣り合いなほど大きな発言権を与えていると見られる政治制度だ。

世界では3つのテーマが共鳴している。

第1は、市場が本来の機能を果たさず、あきらかに効率性と安定性を欠いている点。

第2は、政治制度が市場の失敗を是正してこなかった点。

第3は、政治・経済制度が基本的に不公正である点だ。

本書は主として、アメリカと先進工業諸国のおける行き過ぎた不平等を論じつつ、3つのテーマがどれほど密接に結びついているかを説明していく。

不平等は政治制度の失敗の原因でもあり結果でもある。

不平等は経済制度の安定性をそこね、不安定性は平等性をそこね、この悪循環がわたしたちの生活を地盤沈下させていく。

悪循環から抜け出せる唯一の方法は、これから説明する各政策を協調的に実行することだ。

不平等に焦点をあてる前に、舞台背景を理解すべく、経済制度の幅広い欠陥を説明しておこう。

市場の機能不全

市場はあきらかに、自由市場主義者たちが主張するような機能を果たしてこなかった。

自律的に安定するはずの市場は、先の世界金融危機が示すとおり、きわめて不安定になって破滅的な結果をもたらしうる。

じっさい、銀行家たちがのめり込んできた無謀な賭けは、政府の介入がなければ金融業界と経済全体を崩壊させかねなかった。

”システム”をくわしく検証してみると、このような事態が偶然に起こったのではないことがわかる。

銀行家たちは”システム”から、無謀な賭けに出るインセンティブを与えられていたのだ。

市場の長所は、効率性の高さだとみなされているが、あきらかに市場は効率的ではない。

最も基本的な経済原則ーー効率的な経済に必須の原則ーーは、需要と供給がひとしくなることだ。

しかし、わたしたちの世界では、膨大なニーズが満たされないまま放置されている。

人々を貧困から脱出させるための投資ニーズ、アフリカなどの途上諸国の発展をうながすための投資ニーズ、地球温暖化にそなえて世界経済を改善するための投資ニーズ・・・。

同時に、わたしたちは莫大な資源を有効活用できていない。

現在の労働者と生産設備は、まったく使われていないか、100パーセントの力を出していないかのどちらかだ。

失業は、市場に充分な雇用創出能力がないことのあかしだが、それは市場の最悪の失敗であり、効率性の最大の敵であり、不平等の主要な原因である。

・・・

アメリカ国内では、数百万人の人々が家を失っている。

空き家も多ければホームレスも多い、というのがアメリカの実態なのだ。

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GDPは成長したものの、大多数の国民は生活水準の低下を味わわされたのだ。

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グローバル化のつけ

本書が論じるのは、大多数のアメリカ人にとって経済制度が機能を果たさない理由と、今日のような水準まで不平等が進行した理由と、これらの事態からもたらされる影響だ。

不平等はわたしたちに高い代償を支払わせる。

経済制度の安定性と効率性が低下し、経済成長が阻害され、民主主義が危機にさらされるのだ。

しかし、これだけでは終わらない。

大多数の国民にとって経済制度が機能を果たさず、政治制度が金銭的利益で動くとみなされてしまえば、民主主義と市場経済に対する信頼も、世界に対するアメリカの影響力も傷を負うこととなるだろう。

アメリカがもうチャンスの国ではなくなり、誇るべき法の支配と司法制度が金銭的利益に蹂躙されてきた、という現実が浸透していくにつれ、アメリカ人のアイデンティティさえもが脅かされるかもしれない。

一部の国における”ウォール街を占拠せよ”運動は、反グローバル化運動と緊密な連携をとってきた。

たしかに両者には共通点がある。

何かがまちがっているという信念と、修正は不可能ではないという信念だ。

ここで問題なのは、グローバル化そのものの善悪ではない。

世界各国の政府がグローバル化をうまく運営できず、特定の集団だけに利益を与えていることだ。

世界じゅうの人民と国家と経済が緊密に結ばれたのは進歩と呼んでいいが、この接続性の向上には、繁栄をうながす効果もあれば、貪欲と悲嘆をばらまく効果もある。

市場経済についても同じことが言える。

市場は強大な力を持つ一方、道徳的にふるまう性質はそなわっておらず、どのように管理運営するかはわたしたちの決断次第だ。

本領を発揮したときの市場は、生産性と生活水準の向上に中心的な役割を果たす。

じっさい過去200年間の向上ぶりは、それ以前の2000年間とは比べものにならない。

しかし、生産性と生活水準の向上には、各国の政府も大きな役割を果たしてきており、この事実を自由市場主義者のほとんどは認識できていない。

市場の負の面としては、富を一局に集中させうることや、環境コストを社会全体に転嫁しうることや、労働者を搾取しうることが挙げられる。

だから、大多数の国民にまちがいなく利益を行きわたらせたい場合は、市場を制御して調整しなければならず、公平な分配を継続させるには、制御と調整を繰り返し行なっていく必要がある。

アメリカは革新主義時代に市場介入を始め、米国史上初の競争法を成立させた。

ニューディール政策の時代には、社会保障法と雇用法と最低賃金法を可決させた。

”ウォール街を占拠せよ”運動のメッセージは、そして世界じゅうの抗議者たちのメッセージは、市場の制御と調整をふたたび実行せよと訴えている。

彼らの要求を聞き入れなければ、深刻な結果がもたらされるだろう。

一般市民の声がきちんと反映される民主主義国家では、市民の暮らし向きが年々悪化するような制度は続いていかない。

つまり、開放的なグローバル市場は、少なくとも現行の形では持続不可能なのだ。

いずれは政治か経済のどちらかが、ツケを払わされることになるだろう。

不平等と不公平

効率性と安定性を発揮しても、市場はその性質上、高水準の不平等をもたらす場合が多く、不平等な結果は往々にして不公平だとみなされる。

経済学と心理学にかんする最新の研究は、個人個人が公平感を持つことの重要性を示している。

事実、世界じゅうの人々が抗議活動に参加したいちばんの動機は、経済制度と政治制度に対する不公平感だった。

チュニジアやエジプトなどの中東諸国では、就職難に加えて特権階級のコネ採用が攻撃の的となった。

アメリカとヨーロッパでは、表面上、中東より公平性が高く見える。

良い大学を良い成績で卒業した者が良い仕事にありつく。

何の問題もないように思えるこの制度は、実を言うと不正に操作されてきた。

金持ちの親は自分の子供を、良い幼稚園、良い小中学校、良い高校に通わせることができる。

そして、これらの学校に入ってしまえば、格段に高い確率でエリート大学へ進学できるのだ。

”ウォール街を占拠せよ”運動の抗議者たちが、”アメリカの価値観”を問うているという点を、アメリカ国民は理解していた。

だからこそ、運動の規模が比較的小さいにもかかわらず、アメリカ人の3分の2が抗議者たちを支持すると表明したのだ。

この支持が見せかけだけのものであれば、事態は異なる展開を見せていたにちがいない。

ニューヨークのマイケル・ブルームバーグ市長がズコッティ公園にある抗議者たちの拠点を強制撤去すると初めて示唆したとき、ほとんど一晩のうちに30万人分の署名が集まることはなかっただろうし、この時点で”ウォール街を占拠せよ”運動は息の根を止められていただろう。

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経済制度は非効率性と不安定性だけでなく根源的な不公平性を持っている、という新しい理解を先の金融危機は世界じゅうに広めた。

危機のあと(ブッシュ政権とオバマ政権が対策を打ったあと)に行われた世論調査では、このような理解を持つ人々はおよそ半数に達した。

危機を引き起こした金融セクターが破格のボーナスとともに退場する一方で、危機に苦しむ人々が職場から放り出されていく事態を、きわめて不公正だとみなすのは正しい認識だ。

政府は銀行を救済する一方、まったく落ち度がないのに解雇されて、数カ月たっても再就職がかなわない人々に、失業保険を延長給付することさえためらった。

家を失いそうな数百万人に対しては、名ばかりの援助を提供するだけに終わった。

これらの時代も不公平と認識していい。

金融危機のさなかに起きた数々の出来事は、報酬を決定するのが社会的貢献度ではなく、何か別のものであることをあきらかにした。

なぜなら、巨額の報酬を受け取っていた銀行家たちは、社会に対する貢献度も、会社に対する貢献度もマイナスだったからだ。

エリートと銀行家に与えられる富の源泉は、他人の弱みにつけ込む能力と意欲のように見えた。

公平性の一側面である機会均等は、アメリカ的価値観とは切っても切り離せない。

アメリカはつねにみずからを”機会均等の地”とみなしてきた。

ホレイショ・アルジャーの小説のような立身出世物語は、アメリカの民俗の一部になっていると言っていい。

しかし、1章で説明するとおり、アメリカン・ドリームはたんなる夢物語になりつつある。

立身出世はもはや逸話や秘話の中だけに存在し、具体的データに裏付けられたものではない。

実際のところ、アメリカ国民が底辺から頂上にのぼり詰める可能性は、ほかの先進工業諸国より低いのだ。

成金が3代で潰れるという神話は、トップを維持するためには血のにじむような努力が必要だと示唆する。

本人もしくは子孫が精進を怠れば、みるみる下り坂を転げ落ちていく、と。

しかし、1章でくわしく説明する通り、これもほとんどが作り話だ。

上流階級に生まれた子供たちは、転落せずにトップを維持する可能性が高い。

ある意味、アメリカをふくむ世界各国の若き抗議者たちは、両親や政治家から伝え聞いたことをそのまま実行していた。

50年前、アメリカの若者は公民権運動にのめり込んだ。

当時は、アフリカ系アメリカ人の処遇の視点から、”平等”と”公平”と”正義”の価値観が吟味され、国家政策に不備があるという結論が導き出された。

現在、同じ3つの価値観は、経済・司法制度が果たすべき機能の視点から吟味され、貧困層と中流層への配慮に欠けているという結論が導き出されている。

もしもオバマ大統領とアメリカの裁判制度が、経済を破綻させかけた連中に何らかの”有罪”判決を下していれば、きちんと制度が機能していると言えたかもしれない。

少なくとも、責任を果たしたとは言えるはずだ。

しかし現実を見るかぎり、有罪判決を受けるべき連中の多くは訴追さえされず、訴追されてもたいていは無罪となり、服役する者は皆無に近かった。

ヘッジファンド業界では、インサイダー取引で有罪判決を受けた者が数名いたものの、これは枝葉末節の問題でしかなく、議論の本筋を見失わせる危険がある。

世界金融危機を引き起こしたのは、ヘッジファンド業界ではなく銀行業界だ。

そして、銀行家はほとんど全員が自由の身になっている。

説明責任を果たす者がひとりもいないのなら、そして、特定の個人に金融危機の責任を負わせられないなら、政治・経済制度の内部に問題があることになる。

ヨーロッパより階級格差が大きいアメリカ

「われわれは99パーセントだ」というスローガンは、アメリカ国内の不平等をめぐる議論に、重要な転換点を刻み込んだと言えるかもしれない。

従来、アメリカ人は階級的な分析を敬遠してきた。

アメリカを中産階級の国だと信じたがる気持ちは、わたしたちをひとつにまとめている一因でもある。

高い階層と低い階層のあいだにも、資本家と労働者のあいだにも、格差が存在するべきではないのだ。

しかし、階級社会を”成り上がりの可能性が低い社会”と定義するなら、アメリカは古いヨーロッパより階級的であり、現在では階級間の格差もヨーロッパより大きい。

99パーセントにふくまれる人々は、”国民総中流”の伝統を守りつつ、ひとつだけ小さな修正を加えている。

アメリカが全体として浮揚していかないと言う現状認識だ。

いっしょに苦しみを分かち合う圧倒的大多数と、別世界の生活を享受する最上層の1パーセント。

”99パーセント”運動は、新たな同盟を築きあげる試みだ。

新たな国家アイデンティティを築きあげる試みと言い換えてもいい。

このアイデンティティは、国民総中流という絵空事ではなく、アメリカ社会に格差が存在するという現実にもとづいている。

アメリカでは長年にわたり、最上層が残りの諸階層に対して、次のような取引を持ちかけてきた。

雇用と繁栄を提供する代わりに、ボーナスつきの引退を黙認してくれ。

われわれの取り分の方が大きくなるが、君たちみんなに利益は行きわたるはずだ・・・。

いつ崩れてもおかしくないこの言外の合意は、すでに解消されている。

上位1パーセントにふくまれる人々は、相変わらず富とともに退場していくが、下位99パーセントにもたらされるのは不安と懸念だけになった。

要するに、圧倒的大多数のアメリカ人は、国家の成長から何の恩恵も受けていないのだ。

モラルの喪失

本書は主として平等と公平を論じていくが、”システム”によって傷つけられているとおぼしき基本的価値観がもうひとつある。

フェアプレー精神だ。

たとえば、搾取的な融資を行なう者や、時限爆弾的な住宅ローンを提供する者や、巨額の当座貸し越しから法外な儲けを得られるように”プログラム”を設計する者は、本来の価値観からすれば罪悪感にさいなまれるはずだが、驚くべきことに、やましさを感じているように見える者は、当時も今もほとんどおらず、内部告発を行なう者は皆無に近かった。

わたしたちの価値観には何らかの変化が生じており、この価値観のもとでは、金儲けという目的の前に手段は正当化される。

アメリカのサブプライム危機を例にとれば、所得と教育の水準が最も低い人々を搾取してもかまわないわけだ。

これらの現象の大部分は、”モラルの喪失”という言葉でしか説明できない。

金融セクターなどで働く人々のほとんどは、道徳の羅針盤がうまく機能しなくなっている。

大勢の道徳観がそこなわれる方向で社会規範の変化が進んでいることは、社会を理解するうえでの重大なヒントとなるはずだ。

人々は資本主義に籠絡され、すっかり変わってしまったように見える。

ウォール街で働くエリートの中のエリートは、学校の成績が良かった点を除くと、その他のアメリカ人たちと大差がない。

人類を助ける発見をしたい、新しい産業を興したい、最貧困層を困窮から助け出したい、というような夢を持っていても、仕事の前では一時的な棚上げを余儀なくされる。

そして、信じがたい内容の長時間労働とひきかえに、信じがたい額の給料を手にする彼らは、ほとんどの場合、棚上げしておいた夢をそのまま忘れ去ってしまうのだ。

このような状況下では、企業(金融業界の企業だけではない)に対する不平不満のリストが長くなっても、リストの各項目が解消されにくくなっても、不思議ではない。

たとえばタバコ会社は、ただでさえ危険な自社製品の中毒性をこっそりと高め、社内ファイルには動かぬ証拠がそろっているにもかかわらず、タバコの危険性に”科学的証拠”はないとアメリカ人を説得しようとしている。

〈エクソン〉も同じように大量の資金を使って、地球温暖化の証拠は薄弱だとアメリカ人を説得しようとしている。

全米科学アカデミーがほかの科学研究機関とともに、温暖化の証拠は強力だと主張しているにもかかわらず・・・。

・・・

もしも市場が約束を果たし、大多数の市民の生活水準を向上させていれば、企業の罪と、社会の不正義と、地球環境の汚染と、貧困層の搾取は、すべてゆるされていたかもしれない。

しかし、・・・世界じゅうの抗議者から見ると、資本主義は約束したことではなく、約束していないことーー不平等、公害、失業、そして最も重要な価値観の劣化ーーを実現させている。

現在の価値観のもとでは、どんな行為も許容され、責任をとる者は誰もいない。

政治制度の機能不全

経済制度と同じく、政治制度も機能不全を起こしているように見える。

世界各国における若年層の失業率ーースペイン約45パーセント、アメリカ18パーセントーーを考えれば、抗議運動の勃発はもっと早くてもおかしくなかっただろう。

学生としての本分をすべて果たしてきた若者をふくめ、失業者たちは不毛な二者択一を突きつけられた。

失業者のままでいるか、それとも、自分の能力がほとんど活かせない仕事を受け入れるか。

多くのケースでは、選択の余地さえなかった。

まったく仕事がない状態が何年間も続いたのである。

大規模な抗議運動の発生までには長いタイムラグがあったが、理由のひとつとして考えられるのは、金融危機の余波の中でさえ、まだ民主主義に対する希望が存在していたことだ。

当時の人々は、政治制度が機能すると信じていた。

危機を起こした張本人たちに責任をとらせ、経済制度をすばやく修復してくれるはずだ、と。

しかし、バブル崩壊後の数年間で、政治制度の機能不全は決定的となった。

政治制度は危機を防ぐことも、不平等の拡大を止めることも、底辺の人々を守ることも、企業の悪行をはばむこともできなかった。

事ここに至り、抗議者たちは街頭に出ていったのだ。

アメリカとヨーロッパをふくむ世界じゅうの民主主義国の人々は、みずからの民主的な諸制度に大きな誇りを持っている。

しかし、抗議者たちは”真の民主主義”が存在するのかという疑問を投げかけた。

真の民主主義とは、2年ないし4年ごとに選挙が行なわれることではない。

選挙による選択は有意義でなければならず、政治家は国民の声を聞き入れる必要がある。

しかし、特にアメリカの政治制度は、”一人一票”から”一ドル一票”の様相を呈してきている。

政治制度は市場の機能不全を直すどころか助長しているのだ。

政治家たちは国民の前で、価値観と社会の変化を批判してみせる。

しかし、彼らが政府高官に指名するのは、”システム”がひどい機能不全を起こした当時、金融セクターに君臨していたCEOや重役だ。

このような連中に再構築を任せておいて、システムの機能不全が解消されるはずはない。

ましてや、システムが大多数の国民のために機能するようになるはずはない。

じっさい、システムは機能を取り戻さなかった。

政治と経済の機能不全は、たがいに相乗効果を与え合っている。

富裕層の声を増幅する政治制度は、法律と規制そのものだけでなく、法律と規制の執行をもゆがめる可能性が高い。

このように設計された仕組みのもとでは、富裕層が一般市民を食いものにし、社会全体を犠牲にしてさらなる富の蓄積を進めていくだろう。

わたしは以上の考察から、本書の主たる仮説のひとつを導き出した。

経済的な諸要素からの影響は否定できないとしても、市場を形成してきたのは政治であり、最上層が残りすべてを搾取できる仕組みを構築したのも政治である、と。

経済制度は法と規制がなければ機能せず、その活動は法的枠組みの中に限定される。

枠組みには数多くの種類があり、どの枠組みを選択するかによって、成長性や効率性や安定性や富の配分が左右される。

経済界のエリートたちがせっせと築き上げてきたのは、他者の犠牲のもとで自分が利益を得る枠組みだ。

当然、この経済制度は効率的でもなければ公平でもない。

本書はまず、不平等が国家の重大な意思決定ーー予算からマクロ経済から司法制度までーーにどのような影響を及ぼすかを説明する。

それから、ゆがめられた意思決定がどのように不平等を永続させ、どのように不平等を激化させるかを明示していく。

政治制度が金銭的利益に敏感な場合、経済的な不平等の拡大は、政治権力の不均衡の拡大を招き、政治と経済の悪循環を生じさせる。

政治と経済が社会的影響力ーー社会道徳と社会慣行ーーを形作る一方、社会的影響力によって政治と経済が形作られ、この相互作用が不平等の拡大に拍車をかけるわけだ。

抗議者たちが求めているもの

おそらく、抗議者たちは大多数の政治家より、当時の状況を的確に把握していた。

ひとつの側面から見ると、彼らの要求はあまりにも小さい。

自分の技能を生かす機会がほしい。

まっとうな賃金をくれるまっとうな仕事に就きたい、人間を人間らしく扱うもっと公平な経済と社会を実現してほしい、というものだ。

ヨーロッパとアメリカでは、抗議者たちは革命ではなく進化を求めていた。

しかし、別の側面から見ると、彼らの要求はとほうもなく大きい。

ドルではなく人間が尊重される民主主義を実現してほしい、分配すべきものを分配してくれる市場経済を実現してほしい、と言っているのだから。

このふたつの欲求には関連性がある。

前述のとおり、規制がない市場はうまく機能しない。

本来の機能を果たさせるためには、適切な政府規制が必要となる。

そして、適切な政府規制を行なうためには、特定の集団や最上層の利益ではなく、一般国民の利益を反映できる民主主義が必要となる。

抗議者たちは議題設定に欠けると批判されてきた。

しかし、このような批判は抗議活動の本質を見誤っている。

彼らの活動は、政治制度に対する失望の表明であり、選挙が行われている国では選挙手続きに対する失望の表明でもあるのだ。

見方を変えれば、抗議者たちはすでに多くの成果を収めている。

シンクタンクや政府機関やマスコミは、彼らの主張を認めてしまったのだ。

市場が機能不全を起こしていることも、言い訳できないほど高水準の不平等が存在することも・・・。

「われわれは99パーセントだ」

のスローガンは、一般大衆の意識に深くしみついている。

運動がどこへ行き着くかは誰にもわからない。

しかし、ひとつだけたしかに言えることがある。

すでに若き抗議者たちは公共の議論だけでなく、一般市民と政治家の意識を変えてしまったのだ。

希望の道はあるのか

チュニジアとエジプトで抗議活動が起こった数週間後、わたしは次のように記した(〈ヴァニティ・フェア〉誌に掲載された論説の初期準備稿)。

『街頭の民衆の熱気をじっと見つめながら、わたしたちは「これがいつアメリカに到達するのか?」と問いかけるべきだ。

騒動が起こっている遠い国々とアメリカは、いくつかの重要な類似点がある。

特に似ているのは、上層の一握りの人々ーー裕福な1パーセントの人々ーーによって、ほとんどすべてのものに制約が加えられていることだ』それからわずか2、3カ月ののち、抗議活動はアメリカに上陸を果たした。

本書の目的は、アメリカで起こっている現象の一側面に深く切り込むことだ。

どのような経緯で、社会における不平等がここまで拡大し、機会均等がここまで縮小してしまったのか?

そしてこれらの事態はいかなる影響を及ぼすと予想されるのか?

現在のところ、わたしが描き出す構図は陰鬱としている。

アメリカの現実とわたしたちの大志がどれほど乖離(かいり)してしまったかについては、ようやく理解が始まった段階なのだ。

しかし、希望のメッセージも読みとれる。

経済全体のために、いや、国民の圧倒的大多数のために、より良く機能する代替の枠組みはいくつか存在しており、新たな枠組みが導入されれば、市場と国家の役割分担はバランスのとれたものになるだろう。

この展望は、現代経済学理論にも歴史的証拠にも支持されている。

市場プロセスが結果として大きな格差を生む場合、新たな枠組みにおける政府の使命のひとつは、所得の再配分になるはずだ。

ときとして所得の再配分は、コストが高すぎるという理由で批判される。

批判者たちの主張はこうだ。

あまりにも大きな逆インセンティブが働くうえに、貧困層と中産階級が得られる利益は富裕層の損失を下回る。

社会の平等性を高めることは可能だが、法外な代償を支払う必要があり、成長の鈍化とGDPの低下を覚悟しなければならない・・・。

しかし、現実は正反対だ。

アメリカの”システム”はしゃかりきになって、貧困層と中産階級の金を富裕層へ移動させてきたが、あまりにも効率が悪いため、富裕層が得られる利益は貧困層と中産階級の損失に遠く及ばないのである。

じっさい、大きく広がりつづける不平等のせいで、わたしたちは高い代償を支払わされている。

成長の鈍化とGDPの低下はもちろん、経済の不安定性は増すばかりなのだ。

民主主義の弱体化、公平感と正義感の縮小、アイデンティティに対する疑義など、ほかの代償は挙げればきりがない。

本書を読むうえでの注意

銀行家とCEO、2008年の世界金融危機とその余波については、とりあげる頻度があまりにも多すぎると感じる読者もいるだろう。

しかし、アメリカにおける不平等の問題は、ここまで論じなければならないほど根が深いのである。

彼らは世間の槍玉にあがっているだけではなく、まちがいの象徴という意味合いを持っている。

最上層で生じる不平等の大部分は、銀行家やCEOとの結びつきが強い。

さらに言うと、これまで彼らはアメリカの経済政策観の形成を主導してきた。

既存の政策観のどこに欠陥があるのかーー彼らがどのような方法で他者を搾取し、とほうもない利益を”自分”にもたらしているのかーーを理解しておかなければ、政策の再構築を通じて、もっと公明正大で効率的で力強い経済を確立することはできないだろう。

あらかじめお断りしておきたい。

本書は広い読者層をターゲットにしており、ただし書きや脚注でいっぱいの学術書に比べると内容を一般化してある。

もうひとつ強調しておきたいのは、本書では”銀行家たち”をひとまとめで指弾しているものの、現実の”銀行家たち”には多様性があるという点だ。

わたしが知っている金融関係者のほとんどは、本書の主張の大部分に同意してくれるだろう。

・・・

金融界の有力者たちの意思決定はあきらかにまっとうではなかった。

金融危機の前も後も、有力な大手金融機関は酷評されてしかるべき行動をとっており、誰かが責任をとる必要があるのだ。

わたしがきびしく非難する”銀行家たち”とは、たとえば、詐欺的かつ非倫理的な行動指針を決断した人々や、不正が許容される企業文化をつくり出した人々を指す。

・・・

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