地域をつむぐ──佐久南部地域の「第一線医療」

日経メディカル 2023年11月30日 色平哲郎

人生に出会いと別れはつきものだ。
新陳代謝こそ自然の摂理である。
縁の深い人が逝ってしまうとき、その悲しみとともに、もう一度その人の生き方が脳裏に浮かび、自問自答を繰り返す──。

私の師匠、清水茂文先生(元佐久総合病院院長)も、今年3月鬼籍に入った。
9月には 院内で追悼会が開かれ、清水先生の日々の診療活動を撮ったドキュメンタリー映画『地域をつむぐ 佐久総合病院小海町診療所から』(岩波映画製作所、1996)が上映された。

内面に毅然とした意志を保ちつつ、穏やかに患者さんに接し、在宅で看取ろうとしている師匠の姿に懐かしさがこみ上げてきた。

「やすらかな死」を目指し、農村医療を実践した恩師の姿

私が清水先生と初めて会ったのは、医学部6年生のころだった。
「自分は悪人であって、小人だ。(大学の医学部で学んだが)医師を選びとるまで、とても時間がかかった。挫折したんだ。君はどうか?」と聞かれ、「不思議な人だな、この人についていってみよう」と決めた。

清水先生が逆説的なセリフを口にしたのは、研修医として入った佐久病院を一旦去り、38歳で再入職したからだろうか。

出戻った理由は、「(『農民とともに』の理念に基づく社会)運動が本物であると思ったから」だと、先生はご自身の論集『地域をつむぐ医のこころ 清水茂文先生論集』(発行者:佐久総合病院・渡辺仁[統括院長]、編集協力:佐久総合病院史料編纂委員会[代表・夏川周介名誉院長])に記している。

・『地域をつむぐ医のこころ 清水茂文先生論集』表紙

ここで言う「運動」とは、山中の小さな診療所を砦として仲間たちと立てこもり、「世直し」を実践することだった。

たとえば、大病院で終末期の患者さんたちを、点滴など多くの管につなぐ「スパゲティ症候群」にするのではなく、地域の中で家族に見守られて看取るようにする。

そのために、医師や看護師は家族や地域の人々とどう関わっていくか、清水先生は「農民を知れ、農村を知れ」という若月俊一先生(佐久総合病院名誉総長)の叱責を虚心坦懐に受け止め、日々実践されていた。

上述の映画『地域をつむぐ 佐久総合病院小海町診療所から』にも、「やすらかな死の実現をめざし」た先生の様子が丹念に記録されている。

また、清水先生は大局観を大切にしていた。
その判断が功を奏した例の1つが、小海赤十字病院の移管問題だった。

小海の医療を導いた清水先生の大局観

先生が佐久病院本院の院長だった頃、佐久病院小海診療所から千曲川を挟んで目と鼻の先の小海赤十字病院が経営危機に陥った。

当時、診療所はJR小海駅舎内に移転したばかり。
建物もきれいで12床あり、地域に溶け込んでいた。
「小海日赤がつぶれるかもしれない」という話が広まると、佐久病院側のスタッフからは、「日赤がなくなっても、診療所があればいい」「困ったときも診療所と佐久病院本院が連携すれば地域医療は成り立つ」といった意見が出た。

しかし、清水先生は駅舎に建てた小海診療所の12床と透析施設を閉鎖。
2003年に小海赤十字病院より移管を受け、佐久総合病院グループ小海分院を開設する。
05年には分院の建物を新築し、99床の体制で再スタートさせた。
これにより佐久南部地域の「第一線医療」は骨格が定まり、今日に至る。

小海分院初代院長の山田繁先生は、『季刊 佐久病院 No.53』に収録されている座談会で、次のように語っている。

分院には診療所と日赤、(佐久病院)本院の3カ所からスタッフが集まりました。
チームワークのよい医療ができるのか心配されましたが、始まってみると、みんな使命感を持ってよく協力していて見事なものでした

・『季刊 佐久病院 No.53』表紙   小海分院20年の歩み

清水先生の大局観を支えていたのは、「メディコ・ポリス構想」と呼ばれるビジョンだった
(関連記事:メディコ・ポリス構想)。
https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200806/506741.html

これは、清水先生の師匠で医師の川上武先生が、小坂富美子氏との共著『農村医学からメディコ・ポリス構想へ―若月俊一の精神史』(勁草書房、1988)で提起した概念だ。

メディコ・ポリス構想を一言で説明するならば、医療・福祉は雇用を支え、他の産業とつながって地域を活性化させるというもの。
清水先生は、医療・福祉を時間的、空間的に広げる視座を持っていた。
そんなところに医学生だった私は惹かれ、「ついていってみよう」と思ったのかもしれない──。

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