「クソどうでもいい、でも高給の仕事」を辞めた男性が感じた「強烈な違和感の正体」

「クソどうでもいい、でも高給の仕事」を辞めた男性が感じた「強烈な違和感の正体」(現代ビジネス) – Yahoo!ニュース

高収入で社会的承認を得ている人々の仕事が、実は穴を掘っては埋めるような無意味な仕事だった……? 彼らは自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖している――。

 人類学者のデヴィッド・グレーバーが『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』で論じた「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」は、日本でも大きな反響を呼びました。

 「ブルシット・ジョブ」とは何か? 『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』著者の酒井隆史さんが紹介します。

「専門職」の最悪事態

 『ブルシット・ジョブ』では、BSJ現象を「精神的暴力」という視点から分析する議論が展開されています。

 これは、2013年の小論では、「BSJに就いていることには、精神的暴力がひそんでいる」とかんたんにメモされていた論点ですが、本になって2章分もあてられるということは、そこで検討されている「BSJの罠にハマることによる道徳的・心理的影響」という論点がきわめて重要な意味をもっていることをあらわしています。  

まず、ここでも証言からはじまります。エリックという、大学の歴史学科を卒業して最初の「専門職」でとことん幻滅をおぼえた男性からの報告です。これも『ブルシット・ジョブ』を通じて、印象に強く残る証言のひとつです。

 かれは労働者階級の出身で、高等教育を受けたのも家族のなかでははじめてでしたし、高等教育の目的をそれなりに信じていたようです。ところが、最初に就いた仕事がかれにとっては「まじりけなしの純粋な、すがすがしいまでのブルシット」だったらしいのです。

 その仕事は大手のデザイン会社の「インターフェース管理者」というものでした。その大手のデザイン会社はイギリスに7つのオフィスをもっていたようで、そのインターフェースはコンテンツ管理システムだったのですね。つまりその7つのオフィスでコンテンツをシェアできるように構築されたイントラネットだったのです。  

こうみると、それは複数のオフィスの相互連携や共同作業を可能にし、促進するために重要な役割をはたしているポストなんだな、とおもいますよね。

 ところが、エリックはだんだんと違和感をおぼえはじめます。どうも、組織内の連携にもともときわめて大きな支障があって、じぶんはそれをとりつくろうための「尻ぬぐい」として雇われたのではないか、という疑念が湧いてきたのです。

 ここはイギリスの学歴社会の文脈があり、わたしたちにはなかなか実感できないのですが、そこで働く男性(男性が中心です)たちは、おなじような大学出身──あえていえば、早慶出身者をイメージしたらよいでしょうか──で、たがいにライバル意識むきだしだったらしく、だから、そもそも連携なんかしたがっておらず、連絡もろくになく、バラバラだったのですね。

だから、そうでなければ別に必要のないものだったのです。このイントラネットも。

 ところが、さらにわかってきたのは、事態はもっと悪かったということです。これだったら「尻ぬぐい」ですが、だれも「尻ぬぐい」すら期待していなかったのです。「尻ぬぐい」というのは、こういう連絡の不備をとりつくろってほしいからそこにある仕事ですが、この会社では、不備をとりつくろってほしいとは考えられていなかったのです。

 たとえば、片方のパートナーが事業を提案します。もう片方は、それに反論したりはせず、同意したふりをします。それから、かれらは、全力をふりしぼって、連携がうまくいかないよう努力します。

ブルシット社員の大胆すぎる反乱

 じゃあなんで、エリックのポストがおかれたのか。かれによれば、そのポストを望んで提案したのは、この状況を問題であると考え、改善を望んでいた、会社でもたった一人の人物だったのです。つまり、それ以外の人間はだれもそんなことを望んではおらず、だから人事もおざなりだったのです。

 ITの経験などまったくない21歳の歴史学科出身の学生でもなんでもよかった、というか、むしろ変に職務に適合した「人材」なんかはめんどくさくなりそうだから、まったくそれと縁もゆかりもない人物のほうがよかったのでしょう(エリックもそう考えています。「あの人たちがぼくを必要としていたのは、まさに、あの人たちが実行してほしくないことを実行するスキルが、わたしになかったからで、だから、あの人たちはわたしをつなぎとめようと、すすんで金を払おうとしたのです」)。

 そもそも、会社が用意したインターネット環境も最悪のもので、しかも、そのような社内をカバーする通信回線にはみんなが警戒している(監視されてるんじゃないか、と)。

だから、エリックにはほとんどなにもすることがありませんでした。数カ月でそれにエリックは気づいたみたいです。あ、オレなんにもすることがない、と。

 それでエリックは、ひそかに反乱にでます。遅刻や早退をくり返し、毎日、ランチに酒を飲むようになりました(証言からすると、この会社では金曜日のランチには1杯のお酒を飲むことが推奨されています)。ランチタイムに外出して、それから散歩して数時間帰ってこない、あるいは、椅子に座ってずっとフランス語の新聞記事を読んで語学の訓練をする。辞めようとすると給料を上げる提案をされ、引き留められます。

 そんなこんなでなかなか進展しないので、エリックもだんだん大胆になっていきます。かれは別の地域の同僚にたのんで、いんちきの会議をでっちあげてもらい、出張して一日ゴルフをしています。あるいは、別の地域でのでっちあげの会議では、ただ会議場所のセッティングだけしてもらって、あとは地元の友人といっしょにパブのはしごをして飲んだくれます。

 だんだん生活も荒廃して、「髭剃りはとっくにやめていて、髪なんかレッド・ツェッペリンのローディーからパクったみたいになってい」たということらしいです。やがてかれは、これも視察名目の出張先(ブリストルです)で、ハウスパーティに入り浸り、ドラッグをやりながら3日間すごし、それでかれは本当に会社を辞めます。この証言をグレーバーにおこなった時点では、かれはドロップアウト文化のなかで野菜を育てながら心穏やかに生活をしています。

「おいしい」仕事を辞める難しさ

 かれが本当に辞めるきっかけになったのは、そのハウスパーティでドラッグびたりの3日間のあと、「完全に目的がない[無意味な]状態で生きることが、いかに深刻につらいのか」に気づいたことでした。じぶんでもなにがつらいのか、よくわかってなかったのですね。

 ここがBSJ論のとても重要なポイントのひとつです。エリックはどうみても、とても「おいしい」仕事に就いています。ところが、それがかれの心を徐々にむしばんでいったのです。このような経験は、かれだけにかぎったものではありません。『ブルシット・ジョブ』にあげられたほとんどの証言が、多かれ少なかれ「傷ついていること」の記録です。まあ、それがなければそもそも報告なんてしてこないでしょうが。

 とはいえ、やはりそれはふつう「おいしい」とされる仕事なわけです。じぶんでもそれはよくわかっている。でもなにかそれになじむことができない、というか、とても居心地が悪い。

 そこでかれらは葛藤します。友だちからも家族からも、そんな悩みは「ぜいたくだ」といわれる。それでまた悩む。人が悩まないことをうじうじ考えてるじぶんはどこかおかしいんじゃないか、要するに「甘えてる」んじゃないだろうか。

階級的要因が影響している

写真:現代ビジネス

 日本でこんな立場におかれたとしましょう。たぶんだれに相談しても、おかしいんじゃないか、ですむのならいいけど、説教をくらいそうでしょう。これはイギリスなどでもそうなんですね。エリックの父親もそうでした。そんな高給取りの仕事を辞めるなんて、「なんてバカ野郎なんだ」と、くさします。

 ここがまたひとつのポイントです。グレーバーは、エリックの証言を分析しながら、階級的要因がそこに影響していることを指摘しています。

 先ほども述べたように、エリックは工場労働者の子息であり、典型的な労働者階級出身の青年でした。かれは家族のなかに大学出がかれしかいないという環境のなかで、高等教育の掲げるお題目の理念を信じていたし、仕事についての考えも旧来の労働者階級ならふつうにもっているような感覚をもっていました。  

つまり、その世界は、「大多数が、事物の製造や、保守や、修理に誇りをもっている、あるいはともかく、そのようなことに対して人は誇りをもつべきだと考えている、そのような世界」です。先ほどあげた、エリックが仕事を辞めたときの父親の反応ですが、そんないい仕事を辞めるなんておまえはなんてバカ野郎なんだ、とくさしたのにはつづきがあります。

「で、その仕事は、だれのどんな役に立ってたんだ?」と、父親はたずねるのですね。まさに仕事は、なにかの役に立つ、なんらかの社会的価値をもっているというのが前提なのです。

 そのような世界で育ったかれが、ブルシットの世界と遭遇して感じる混乱は、そうでない場合と比較するとより大きなものになることはわかるでしょう。

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