ステージ4のがんと闘う僧侶・高橋卓志「チビチリガマの『集団自決』は『強制死』としか言いようがない」

ステージ4のがんと闘う僧侶・高橋卓志「チビチリガマの『集団自決』は『強制死』としか言いようがない」(AERA dot.) – Yahoo!ニュース

ステージ4の大腸がんと闘病中の僧侶、高橋卓志さん(74)は毎年、沖縄へ慰霊の旅を続けてきた。

「残りのいのち」を生きる中で、戦争の不条理を伝えていきたいと考えている。今年も6月に病躯をおして沖縄へ飛んだ。

 今回の旅で、高橋さんは読谷(よみたん)村にも足を延ばした。高橋さんが初めて沖縄を訪れたのは、1985年のこと。当時、友人の映画監督、西山正啓さんがドキュメンタリー映画「ゆんたんざ(読谷山)沖縄」(87年公開作品)の撮影を開始し、高橋さんも同行したのがきっかけだった。

映画は読谷村の青年、知花昌一さん(75)の行動を追っていた。

 読谷村の海岸近くにある、自然壕のチビチリガマでは、沖縄戦で住民の「集団自決」が起きた。

45年4月2日、上陸した米軍の投降勧告を拒否し、ガマの中では刃物で親や子を手にかける人、毒薬で命を絶つ人など「集団自決」が始まり、避難していた住民約140人のうち85人が亡くなった。避難者の中に元兵士や従軍看護婦がおり、「米兵に捕まれば殺される」と聞かされていたからだ。  

この事件は戦後、生存者や遺族の間でタブーとされ、公にされなかった。だが、83年に知花さんや作家・下嶋哲朗さんによって、遺族や生き残った人たちへの聞き取り調査と、ガマに入っての遺骨収集が始められ、初めて全容が明かされていった。高橋さんはその渦中で、知花さんと知り合った。

 高橋さんがこう語る。 「知花さんたちは戦後38年間封印されていたチビチリガマにあえて踏み込んだのです。関係者に重い口を開いてもらい、『集団自決』の真相を明らかにしていったのです。亡くなった85人のうち約半数は子どもでした。子どもたちの死は『自決』であるはずがなく『強制死』としか言いようがありません。当時の皇民化教育によっていのちを落としていった典型的な事例です」

 一方、チビチリガマから1キロほど離れたシムクガマでは、約1千人の住民が避難していたが、ハワイ移民帰りの男性2人が「アメリカーは住民を殺さない」と住民らを説得し、全員が救われている。高橋さんが声を落とす。 「情報や教育が人の命を救うか、殺すかに直結したのです。恐ろしいことです」  

集団自決の真相が明らかになってきたその時期、国は「日の丸」「君が代」の強制を始めた。85年、文部省(現・文部科学省)は全国の公立学校の卒業式と入学式の「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱の実施率を調査。実施率が低い自治体の教育委員会に対し、「国旗と国歌の適切な取り扱いの徹底」を求める通知を出したのだ。実施率が特に低かった沖縄は、この文部省通知が強力な締め付けとなった。  

読谷村では沖縄戦で多大な犠牲者を出しており、村の面積の48%(現在は36%)を米軍基地に占領されていることから、「日の丸」「君が代」への抵抗感が強かった。読谷高校の卒業式では、生徒が日の丸を拒否するという事態が起きていた。

 87年、沖縄県で海邦国体が開催された。知花さんは日の丸の強制に抗議するため、読谷村のソフトボール競技会場に掲げられた日の丸をスコアボードによじ登って引き下ろし、焼き捨てた。現在、浄土真宗の僧侶となった知花さんは、当時のことを穏やかな口調で振り返る。

「高校生が日の丸を拒否する行動を取った時、そこまでやるかと大変なショックを受けました。高校生が真剣に考えて行動しているのに、大人たちは何もしなくていいのかと思ったのです。当時、チビチリガマで起きたことについて大人たちが語りだし、それを身近に聞いていた子どもたちにも影響を与えたのです」

 今回、高橋さんは知花さんと積もる話ができたという。その後、高橋さんは直腸がんで失った肛門部の痛みがひどくなり、歩くことさえつらくなった。残念ながら「慰霊の日」の23日まで滞在することは困難と判断し、帰宅せざるを得なかった。高橋さんが言う。

「慰霊の日は、松本から精いっぱいの祈りを送りました。僕らはヤマトゥ(本土)であるがゆえに当事者になれないという慚愧(ざんき)の念にさいなまれますが、悲しい歴史を体験し、いまも常に戦時体制を取らざるを得ない状況に置かれている沖縄とこれからも真摯に向き合い続けていくしかありません」  

高橋さんの沖縄への向き合い方は、「本土」に生きる私たちの指針となるだろう。

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