ステージ4のがんと闘う僧侶・高橋卓志「沖縄戦の図」前に音楽と般若心経の共演で鎮魂の祈り(AERA dot.) – Yahoo!ニュース
ステージ4の大腸がんと闘病中の僧侶、高橋卓志さん(74)は毎年、沖縄へ慰霊の旅を続けてきた。
「残りのいのち」を生きる中で、戦争の不条理を伝えていきたいと考えている。今年も6月に病躯をおして沖縄へ飛んだ。
高橋さんは沖縄戦の犠牲者を追悼する6月23日の「慰霊の日」に合わせ、19日から沖縄を訪れた。
沖縄戦は「ありったけの地獄を集めた」と形容された地上戦で、日米合わせて約20万人が亡くなり、住民約12万人が戦禍に巻き込まれて犠牲になった。
米軍に追い詰められた住民、軍人が逃げ場を失い、最後の激戦地となった沖縄島の南部には、多くの戦跡が点在する。
高橋さんは喜屋武岬、ひめゆりの塔、魂魄の塔など戦跡を巡り、戦没者を悼んでお経をあげた。
高橋さんはこう語る。 「日本の戦時国家体制によって、沖縄では住民の4人に1人がいのちを落としました。戦火の中で死に逝く人々の理不尽と不条理に向き合うことは、いのちの本質に触れることです。だから、僕は沖縄に通い続けている。今回、沖縄に旅立つ前夜、奥歯が痛み出して臼歯が2本抜けたうえ、抗がん剤の副作用にも悩まされている。長旅は危険だと思いながら、沖縄行きを強行しました」
今回の旅には同行者がいた。11弦ギター演奏の第一人者で、作曲家の辻幹雄さん(71)だ。
辻さんは世界各地で活躍する一方、1994年に千葉県芝山町で成田空港問題終結に向けた野外コンサートを実施。
96年、チェルノブイリ原発事故後10年の節目に、ベラルーシ共和国をはじめ東欧・北欧で鎮魂のコンサートツアーを行ってきた。
高橋さんとは長年の友人で、辻さんの代表曲の一つ「長崎の鐘」は2015年、高橋さんが住職を務めていた神宮寺(長野県松本市)に籠もって作曲したという。
「長崎の鐘」は、原爆で被爆しながら医療活動に尽力した医師、永井隆博士の長編詩だ。その詩の朗読に辻さんが11弦ギターの曲を付けたもので、神宮寺でのコンサートで初めて披露された。
数々のミュージシャンとお経で共演してきた高橋さんも般若心経を唱え、鎮魂の祈りは重層的に響き合った。
辻さんが神宮寺で「長崎の鐘」を作曲中、高橋さんは、画家の丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」を展示する丸木美術館(埼玉県東松山市)へ行くことを勧めた。
辻さんが語る。 「高橋さんから『曲作りのヒントになるかもしれないよ』と助言され、帰りがけに丸木美術館に寄りました。『原爆の図』や『アウシュビッツの図』を見ながら、このままではいけないなと感じました。自分は傍観者であり、その立ち位置ではダメだと痛感しました。作家とか作曲家、画家の多くは政治的な問題に無関心ですが、やはり、丸木先生がやってこられたようなことに足を踏み入れなければならない時もあるんです」
辻さんはその後も「自分は何かをやり残していないか」という焦燥感が、心の中でくすぶり続けていたという。思い立って今年の春ごろ、高橋さんに電話をかけ、「また音楽と般若心経の掛け合いをやりたいと思っているんだよね」と伝えた。
高橋さんは「最後の仕事としてやらなければならないことの一つが、戦争の事実と悲惨さを伝承すること」と考えている。その表現方法として、読経と音楽の共演を録音し、CD化する構想があった。
高橋さんと辻さんは「もうやるしかないよね」と意気投合した。それがこの旅の主目的にもなった。
沖縄県宜野湾市の佐喜眞美術館は、丸木夫妻の「沖縄戦の図」全14部を展示している。多くの住民が死へと追いやられた「喜屋武岬」、日本兵による「久米島の虐殺」など、戦火から逃げ惑う人々、戦場に斃(たお)れた人々の姿が描かれている。
館長の佐喜眞道夫さん(77)と高橋さんは親しい間柄で、神宮寺での平和を考えるイベント「いのちの伝承」に丸木夫妻の絵を貸し出してきた。佐喜眞さんは高橋さんの願いを快諾。
6月21日、「沖縄戦の図」展示ホールで高橋さんの読経と、辻さんの11弦ギターの音色が静かに響いた。今回はリハーサルだったが、曲作りに向けて辻さんはこう考えていた。
「今回、絵が発するエネルギーを感じながら即興で演奏しましたが、CDに収録するのは新曲になります。普通はレクイエム(鎮魂曲)を想定するでしょうし、僕はすでに何曲かつくっています。でも、高橋さんが求めているものは違うと思っている。彼が思い描いているのは断末魔です。ニューギニア、ボルネオなどアジア・太平洋の戦跡へ慰霊法要に赴き、死の間際の呻き声、慟哭を聞いたと言います。だから、丸木先生の絵に共感するのでしょう。音楽では、レクイエムは死者に手向ける曲ですが、その前の段階である死へと向かう苦痛の時間、そこから湧いてくる悲しみや不条理を表現する曲作りは、誰も手がけていない分野です。それが最大の障壁でしたが、何とか曲を完成させました」
体調が心配だが、お経は高橋さんに詠んでもらうことしか考えていない。お経は事前に収録することもできる。レコーディングは佐喜眞美術館でやらなければならないと、辻さんは強い意思を語った。
地上戦の残酷さから、丸木位里さんは「沖縄を描くことが一番、戦争を描いたことになる」と語っていたという。館長の佐喜眞さんは、丸木夫妻の「『沖縄戦の図』は沖縄に置きたい」という意向に応え、美術館の建設を決意した経緯があった。
佐喜眞美術館は米軍普天間基地に食い込むように立ち、建物の3方向をフェンスに囲まれている。佐喜眞さんは祖母から引き継いだ約1800平方メートルの土地を米軍から取り戻し、94年に美術館を開館した。だが、土地の返還交渉は容易なことではなかった。
那覇防衛施設局(現・沖縄防衛局)に3年以上通い詰めても「佐喜眞さんの返還要請は米軍に伝えてあるが、返還を渋っている」などと同じ言葉をくり返すばかりだった。
「そのうち諦めるだろうと門前払い同然でした。続いて、宜野湾市に協力をお願いしたところ企画部長の比嘉盛光さん(後の宜野湾市長)が普天間基地の司令官と直接交渉してくれたのです。米軍の窓口は不動産管理部長のポール・ギノザさんという沖縄移民でした。私が美術館をつくりたい旨を説明すると、ポールさんは『ミュージアムができたら宜野湾市はよくなるね。問題ないよ』と言うので驚きました。私は3年以上も防衛施設局と交渉したけれど埒(らち)が明かなかったと話したら、ポールさんは『あんなものに話をしても、この問題は解決しませんよ』と言うんです。彼らからすれば、日本政府は『あんなもの』なんですよ」
米軍普天間基地の現状は、基地負担の軽減とは逆行する形で飛来する軍用機の数が増え続けている。
「復帰50年」を迎えた22年度、沖縄防衛局の目視調査によると、普天間基地に航空機が離着陸した回数は1万5483回(うち外来機が3126回)に上り、調査を開始した17年度以降、2番目の多さとなった。騒音被害は増加し、航空機の部品落下事故も相次いでいる。
04年に宜野湾市の沖縄国際大学の構内に米軍ヘリが墜落したが、同じ事態がいつ起きてもおかしくない状況だ。何と佐喜眞さんは事故が起きることも想定し、美術館を建てていた。
「ヘリが落ちてくるかもしれないから、私は墜落事故が起きても美術館は壊れないような建物にしてほしいと、設計者にお願いしたんです。この美術館は橋をつくるような鉄骨が入っているから、ヘリは壊れても美術館は平然としているそうです」