吉原に伝わる「遊女600人が死亡」の逸話、真相は 慰霊の法要に行ってみると…

吉原に伝わる「遊女600人が死亡」の逸話、真相は 慰霊の法要に行ってみると…:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

観音像の前で数十人が祈りをささげる。足元の4畳ほどの花園池(弁天池)にはトンボが舞い降りた。東京都台東区の吉原弁財天で1日昼前、関東大震災の慰霊法要が営まれた。

吉原弁財天で営まれた関東大震災の慰霊法要

吉原弁財天で営まれた関東大震災の慰霊法要

 そばには遊女がいる妓楼ぎろうを集めた吉原遊郭があった。震災当時の地図をみると、池の直径は最長50メートルほどと今では想像もできない。ここに猛火に追われた遊女ら600人が飛び込み、焼死・溺死したと伝わる。

◆紙面に踊る叙情的な見出し

 「白札赤札の屍體したい 不夜城もいまは夢の跡」。東京新聞の前身「都新聞」が震災後に初めて発行した1923年9月8日付紙面に叙情的な見出しの記事がある。筆者が誰かは不明だ。

 「池の中も周囲も死体の山だ。焼けただれた手足に残る浴衣や帯の千切ちぎれてる中に親子が黒焦げとなっていたのは胸がつぶれてとめどなく涙が流れた」「水死は白札、焼死は赤札をつけるのみで誰が誰やら一向しれず」

関東大震災で起きた火災から逃れようと吉原遊郭の遊女らが飛び込んだと伝えられる吉原弁財天の池

関東大震災で起きた火災から逃れようと吉原遊郭の遊女らが飛び込んだと伝えられる吉原弁財天の池

 生存者の証言もあった。

 「若い男が『この池では600人も死んだでしょう。後から後からと押しつぶされて出るに出られず、死んだ者が多い。私は熱くなれば首を突きさし突きさしてようやく免れたが、夢のようです』と気の抜けたようにしていた」

◆遊女を閉じ込めた、との憶測も

 なぜ人々がなだれこみ、600人も亡くなったのか。報道は原因究明よりも遊女に焦点が当たる。遊女の人権が叫ばれていた時期で、「逃げないように遊郭に閉じ込めたのではないか」との臆測も全国に広がった。

 1カ月後の10月2日付都新聞に、誤解を打ち消すような記事が出ていた。

 「遊女の死亡は1000名と世間で言われているようだが、実際の死亡数は88名で、そのうち30名は花園池で焼死または溺死した」「花園池の死者の大部分は千束方面の人が多い」

 弁財天の境内に貼られた当時の写真を見ると、同様の記述をした「立て札」がある。人々の避難風景を描いた石版画(帝都大震災画報、江東区所蔵)にも遊女らしき姿は少ない。600人のうち遊女が30人ならば、逸話とかなり差がある。

吉原遊郭近くの花園池に避難する市民を描いた石版画(江東区教育委員会提供提供)

吉原遊郭近くの花園池に避難する市民を描いた石版画(江東区教育委員会提供提供)

 東京の被害 東京市(現在の千代田など8区)の死者・行方不明者は6万8000人に上り、住宅17万棟が焼失。竜巻状の渦の中に炎を含む火災旋風に見舞われた下町の被害は甚大で、墨田区横網の陸軍の軍服工場「被服しょう」跡地(現横網町公園)に避難していた3万8000人が亡くなった。上野、神田、銀座、深川などの市街地も壊滅。浅草は仲見世通りなど一帯を焼いたが、浅草寺は無事だった。

 吉原商店会の不破利郎会長(62)に紙面を見せた。「600人は遊女の死者数だと思っていた。遊女だからとセンセーショナルに報じられたのだろう」と推測する。不破さんの祖父母も妓楼を営んでいた。震災時に祖父は帰省中で、祖母が幼かった伯母2人と上野に逃げて助かった。

逸話が残る花園池について話す吉原商店会の不破利郎会長

逸話が残る花園池について話す吉原商店会の不破利郎会長

 不破さんは現在、遊郭跡地でホテルを経営し、遊郭が社交場として浮世絵や古典芸能を育んだ歴史を伝える観光ツアーを企画する。近年は人気アニメ「鬼滅の刃」の舞台になり、遊郭や遊女に興味を抱く人も少なくない。ただ「せっかんや心中、病気などがあり、遊女はつらい環境で働いた。美化はしてはいけない」と、ツアーでは負の歴史も必ず伝えているという。

 100年がたっても、災害報道は悲劇や美談があふれる。関心を引くことで被災者の救済につながる半面、事実が誇張されれば、実態とかけ離れる。記事が伝えなかった600通りの無念が、今に続く課題を投げかけている。

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 死者・行方不明者が10万5000人に上った関東大震災から、1日で100年となった。未曽有の災害の中、東京新聞の前身「都新聞」は本震の1週間後に発行を再開し、記者の生々しい原稿とともに東京や横浜の惨状を伝えた。市民の情報源となった一方、流言飛語に惑わされて朝鮮人への暴挙を正当化する記事も。当時の現場を巡り、災害と報道のあり方を考えた。

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