なぜ日本の学校から「いじめ」がなくならないのか…たった2つの「シンプルかつ納得の理由」

なぜ日本の学校から「いじめ」がなくならないのか…たった2つの「シンプルかつ納得の理由」(内藤 朝雄) | 現代新書 | 講談社(1/4) (gendai.media)

最近、また「いじめ」が大きなニュースとなっている。なぜいまだに根本的な解決にいたっていないのだろうか。

いじめは1980年代なかば以降、人びとの関心をひく社会問題になったが、いじめ対策は効果をあげていない。

それは、学校に関する異常な「あたりまえ」の感覚が一般大衆に根強く浸透してしまっているからである。

マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教育委員会(教委)、教育学者や評論家や芸能人たちがでたらめな現状認識と対策をまき散らし、一般大衆がそれを信じ込んでしまうためでもある。

私たちが学校に関して「あたりまえ」と思っていることが、市民社会のあたりまえの良識を破壊してしまう。

この学校の「あたりまえ」が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる環境要因となっているのだ。

きわめてシンプルな「いじめ対策」

いじめを蔓延させる要因は、きわめて単純で簡単だ。

一言でいえば、

(1)市民社会のまっとうな秩序から遮断した閉鎖空間に閉じこめ、
(2)逃げることができず、ちょうどよい具合に対人距離を調整できないようにして、強制的にベタベタさせる生活環境が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる。

対策は、次のこと以外にはまったくありえない。

すなわち、

(1)学校独自の反市民的な「学校らしい」秩序を許さず、学校を市民社会のまっとうな秩序で運営させる。
(2)閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせることをせず、ひとりひとりが対人距離を自由に調節できるようにする。

まず、本稿執筆時に注目を浴びたいじめ報道を手がかりに、私たちが学校という存在をいかに偏った認識枠組で見ているかを浮き彫りにしていこう。

いじめが蔓延りやすい「学校」という環境

福島第一原発事故のあと横浜市に自主避難していた子どもが、何年にもわたって学校でいじめを受けていた。

そして何年ものあいだ、教員たちはいじめを放置した。

その経緯のなかで150万円もの金をゆすられたと保護者は訴えた。金を払ったのはいじめから逃れるためだったと被害者は言う。

いじめ加害者たちはおごってもらったのだと言う。

メディアはこれを報道しはじめた──。

横浜市の岡田優子教育長(当時)が、「金銭授受をいじめと認定できない」と発言したのに対し、被害者側が「いじめ」認定を求める所見を提出したのが報じられると、世論が沸騰し、さらに報道が大きくなった。

「横浜いじめ放置に抗議する市民の会」は金銭授受を「いじめ」と認めるよう、2000人ほどの署名を添えて横浜市長と教育長に要望書を提出した。

これと連動して、他の地域でも原発避難者の子どもが学校で迫害されたという報道がなされた。

学校のような生活環境では、ありとあらゆることがきっかけとして利用され、いじめが蔓延しエスカレートしやすい。

原発事故からの避難者にかぎらず、学校で集団生活をしていれば、だれがこのような被害をこうむってもおかしくない。

問題の本質は、学校が迫害的な無法状態になりがちな構造にある。

いじめは教育の問題なのか?

まともな市民社会の常識で考えれば、他人をいためつけ、おどして、その恐怖を背景に金をまきあげれば犯罪である。

「おごってもらっただけだ」という言い訳は通用しない。

たとえば、暴力団が何年ものあいだいためつけ続けた被害者に対して、恐怖を背景に大金を「おごり」名目で巻き上げた場合と同じことが、いじめの加害者たちについてもいえる。

学校をなんら特別扱いしないで見てみよう。

すると、地方公共団体が税金で学習サービスを提供する営業所(学校)内部で、このような犯罪が何年も放置されたということが、問題になるはずである。

しかも公務員(教員)がそれを放置していたことも重大問題である。

公務員は、犯罪が生じていると考えられる場合は、警察に通報する義務がある。

知っていて放置した公務員(教員)は懲戒処分を受けなければならない。

このような市民社会のあたりまえを、学校のあたりまえに洗脳された人は思いつきもしない。

ここで生じていることは無法状態であり、犯罪がやりたい放題になることである。

これは社会正義の問題である。

そもそも「いじめ」とは何か

ここで「いじめ」という概念の使い方について考えてみよう。

筆者は「いじめ」という概念を、ものごとを教育的に扱う認識枠組として用いていない。

人間が群れて怪物のように変わる心理―社会的な構造とメカニズムを、探求すべき主題として方向づける概念として「いじめ」を用いている。

それに対して、誰かに責任を問うための概念としては、「いじめ」という概念を使うべきではない。

責任を問うために使うものとしては、侮辱、名誉毀損、暴行、強要、恐喝などの概念を使わなければならない。

だが、多くの人びとは「いじめ」という言葉を使うことでもって、ものごとを正義の問題ではなく、教育の問題として扱う「ものの見方」に引きずり込まれてしまう。

市民社会のなかで責任の所在を明らかにする正義の枠組を破壊し、それを「いじめ」かどうかという問題にすりかえてしまう。

そして悲しいことに、学校で起きている残酷に立ち向かおうという情熱を持っている人たちも、そのトリックにひっかかってしまう。

認定すべきは、犯罪であり、加害者が触法少年であることであり、学校が犯罪がやり放題になった無法状態と化していたことだ。

そして責任の所在を明らかにすることだ。

警察が加害少年を逮捕・補導する。

犯罪にあたる行為を行った加害者が責任能力を問えない触法少年であれば、児童相談所に通告し、場合によっては収容する。

被害者を守るために加害者を学校に来させないようにする。

放置した教員を厳しく処分する。

加害者の保護者は、高額の損害賠償金を被害者に払う。

学校が無法状態になりがちな構造を制度的に改革する。

それにしても、公的に責任を問う局面で犯罪認定すべきところを「いじめ」扱いでお茶を濁すこと自体が不適切なのに、さらにそのなけなしの「いじめ」認定すら教育長はしない。

その意味でこの教育長は解職すべきであるし、市長が動こうとしなければ次の選挙で落とすべきである(のちに教育長は「いじめ」と認め、謝罪した)。

もちろん起きていることは、責任を問う局面で犯罪であり、かつ、場の構造を問う局面で「いじめ」である。

これが「いじめ」でなくて、何を「いじめ」というのかというぐらい、「いじめ」である。

中井久夫氏がいうところの透明化段階にまで進行した「いじめ」である(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』〈みすず書房〉所収)。

もっとも重要なことは、加害者たちは学校で集団生活をおくりさえしなければ、他人をどこまでもいためつけ、犯罪をあたりまえに行うようにはならなかったはずである、ということだ。

つまり、学校が人間を群れた怪物にする有害な環境になっているということが、ひどいいじめから見えてくる。これが根幹的な問題なのだ。

外部の市民社会の秩序を、学校独自の群れの秩序で置き換えて無効にしてしまう有害な効果が学校にはある。

これは、たまたまいじめが生じていない場合でも有害環境といえる。

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