(精神科医/中井久夫の論文)「いじめの政治学」と「トリクルダウン」

いじめは3段階に変容する

この人間社会における「いじめ」の病理、特に被害者の心理と集団力動について書かれた論文として、私が一推しにあげているのは精神科医中井久夫の論文「いじめの政治学」である(『アリアドネからの糸』所収、みすず書房)。

その中で中井は言う。イジメの様態や被害者の心理変化には、3段階があると。

それは、「孤立化」「無力化」「透明化」の3段階である。

第一段階、「孤立化」の段階では、イジメの標的が特定化される。

イジメる側は、イジメられる者がいかにイジメられるに値するかというPR作戦を展開し始める。

被害者の些細な身体的特徴や癖、何ということもない行動やちょっとした癖があげつらわれる。

これは、周囲の差別意識(「自分はあいつよりマシだ」)を刺激する。

周囲の子は「自分より下」の者がいることで多少なりの満足感を感じさえする。

加害者側のPR作戦は、教師や親にも向けられる。

そのため、うっかりすると教師さえも、「(イジメられる)あいつにもそういう(悪い)ところがあるなあ。」と言ってしまったり、黙って聞いていたりすることで、加害者は勢いづいていく。

そのうちに被害者は、だんだんと自分の側に非があるような気分になってくる。

孤立化してくると、常に気をゆるめることができなくなる。

加害者はいつどこでどのように攻めてくるかわからない。

大勢の前でも、一人でいるときでも、何をあげつらうか、それはわからないのだ。

被害者はオドオドして、きょろきょろして、時には脂汗を流すようになる。

そのような当然の生理的反応は、かえって周囲の者を遠ざけてしまうようにはたらく。

それでも、この段階においては、被害者はまだ反撃・反抗心を持っているので、加害者側はそれに対し、次の段階、「無力化」作戦に入る。

第二段階の「無力化」作戦においては、被害者が反抗する姿勢がわずかにでも見せれば、加害者は激しい暴力を振るうようになる。

さらに、「(心の中で)反抗を思っただろう」との言いがかりをつけてさらに懲罰を加え、被害者が自分の内心の動きに目を向けるようにさせる。

そのうちに被害者は、加害者が他人の心を読む能力があるように思えてくる。

それに比べて自分はそういう能力がないと思え、自分が情けなく思えてくる。

この段階で、被害者が大人に助けを求めることに対しては特に大きな罰が与えられる。

そうなると、被害者は「大人に話すことは卑怯である」「醜いことである」との「(倒錯した)美学」を内面に取り入れるようになる。

ここで加害者は実際に暴力を振るう必要もなくなり、必要な時にだけ「(暴力を)振るうぞ」との脅しのポーズをとるだけで十分となる。

透明化するいじめ

こうなると、いじめは「透明化」する。

これが第三段階だ。

周囲には被害者が見えているようで見えなくなる。

繁華街でホームレスが見えないように、被害者は風景の一部のように「透明化」していく。

被害者は孤立無援状態になる。

被害者の世界は狭くなり、加害者との対人関係だけが内容のある唯一の対人関係のように思えてくる。

たとえ休日に家族が旅行に連れ出しても、加害者が「その場にいる」ように思えるし、頭では「あと2年で卒業」とわかっていても、加害者との関係は永遠に続くように思えてくる(そもそも小学生にとっての2年先は「永遠のまだ向こう」と感じられるような時間感覚をわれわれ大人はわかってあげないといけない、と中井は強調する)。

「透明化」段階の被害者は、加害者の気まぐれによりイジメられない日を、加害者にいただいた「恩恵」と思うようになり、大人の前では加害者と楽しく遊んで見せることもある。

その遊びの様子は、周囲がよく見れば、こわばっている。

しかし、この時に家族が「イジメられているのではないか」と尋ねると被害者が家族に暴力を振るうこともある。

この時の被害者には「何をいまさら」「もう遅い」という感覚もあるのだが、ここにはもう一つ、大事な心性がある。

それは、被害者が、「自分のことは自分で始末をつける」という、最後に残った主体性の感覚を、どうせ介入する力もない大人に向かってむざむざ明け渡して失ってしまうという、大きな喪失感だ。

ここが普通の大人には理解しがたいところだが、ぜひ理解しておかなければならない。

学校ではおとなしい被害者が家庭では暴君的に振る舞ったり、どうして自殺行為に及んだりするのか、などにつき理解するのに大事なポイントである。

以上、長々と引用・要約させていただいた。

興味を持たれた方は中井の原文を是非読んでいただきたいと思う。

流麗な文章の中にある、集団力学の残酷さ、リアリティが皮膚感覚的に伝わってくる。

21世紀の現在では、「ネットいじめ」などいじめの形は変わっていても、中井が示した集団心理の本質は変わっていないと思っている。

トリクルダウンを喜んで受け入れるのは日本の社会病理

話は飛躍するようであるが、流行語大賞のノミネートになった「トリクルダウン」である。

「トリクルダウン」の語を初めて聞いた時から問題のある考え方だし、嫌な表現だと思っていた。

「トリクルダウン」とは、まず第一に金持ちを富ませれば庶民がおこぼれにあずかって景気が良くなるという考え方である

それ以上の論理でも何でもない。

幼稚な経済理論である。実証された証拠は無い。

こんな理屈を初めて聞いたときに私は、「平家にあらずば人にあらず」「勝てば官軍」、という日本の歴史の中で度々出てきた嫌なフレーズを思い出した。

現代によみがえる士農工商、奴隷制の確立・正当化の理屈だと思った。

こんなものを諸手を挙げて喜んで受け入れるのは日本の社会病理と思う。

「トリクルダウン」理論が全く理論になっていない、実証されてもいないと言った。

その点、トマ・ピケティの『21世紀の資本(論)』の方が説得力があるようだ(原著ではなくダイジェストしか読めていないのでいい加減な理解かもしれないが)。

ピケティによれば、この100年余、どの先進国でも金持ち(資本家)がその資産を殖やしていく割合は低所得者が資産を殖やしていく割合よりも常に大きい(戦争などの非常時を除けば)。

つまり、これまでも格差はずっと広がってきていたのである。

ピケティは数字をあげて実証している。

実際この日本でも、この不況の20年と言いながら企業の内部留保は増え続けている。

しかも、海外への事業展開や企業資産の海外移転をしながらである。

それでも安倍政権は法人税減税を公約している。3%以下の大金持ちを除けば損にしかならないような経済政策であるが、安倍政権は安泰であり、人気を失わない。

97%の日本人は経済的に合理的な選択をしていないように思える。

日本の集団心理にも応用できる「いじめの政治学」

こういう日本社会の事情を考えるときに私は、中井の「いじめの政治学」を思い出す。

日本の集団心理に「いじめの政治学」は十分応用できると思う。

まず、人々の「孤立化」である。

この70年、田舎から都会に出てきた人は孤立化を強めていった。

「困ったら田舎に帰って田畑を耕せばいい」という退路は断たれてきた。

労働組合は弱体化の一途にあり、「ブラック企業」的な労働条件に対峙するにしても、孤独な戦いを強いられるようになった。

生産効率を極限まで高めようとして労働者を苦しめる環境に「ノー」と言いたくとも、それを言い出せば逆にリストラ対象の筆頭にあげられる危険がある。

そして、次の「無力化」の段階である。

「日本は輸出で経済発展してきたのだから輸出産業の保護が第一である」という理屈は、内需の大きさの無視であり、この成熟した先進国においては当てはまらないが、トヨタのような輸出企業の主張に反発を口にすると職を失うという恐怖感から(最近は地方公務員さえ企業誘致・産官協同に一生懸命で、民間企業の横暴を批判しない)、大方は反発しない。

それどころか、そういう考えを持つ自分がおかしいのではないかと思い始める。

現在は、「透明化」の段階に入っている。

中井が言う、いじめの加害者が危害を加えてこなかった時に「恩恵」と感じる被害者のように、企業が先に儲けてもらって、そのわずかなおこぼれをいただく「トリクルダウン」を「恩恵」と捉えて喜ぶ。

物価の上昇分よりもずっと少ない程度の昇給でも喜ぶ。

ピケティのように、根本的に考えて「おかしい」と疑うことはなくなっているのだ。

多くが、社会の進展の必然として「トリクルダウン」を受け止めている。

資本家による資本家のための経済理論を庶民が受け止めるその姿は、悲しいことだが、いじめの被害者の「透明化」段階と重なって見えて仕方ない。

はたして、この社会は安部元総理の言うようにしかありえないのか、日本がとるべき道はこの道しかないのか、考えていきたいと思う。

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