資本主義は農奴制を終わらせたのではなくて、農奴制を終わらせた進歩的改革に終止符を打った

ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」(東洋経済新報社、2023年5月)

資本主義は一般に伝えられているような、穏やかな『移行』ではなく、平和的でもない。

資本主義は、組織的な暴力、大衆の貧困化、自給自足経済の組織的破壊を背景として生まれたのだ。

資本主義は農奴制を終わらせたのではなくて、農奴制を終わらせた進歩的改革に終止符を打った。

資本家は農奴制の原理を採用し、新しい極端なやり方で、その原理を再利用した。

すなわち、生産手段をほぼ完全にコントロールし、小作農と労働者を、資本家に依存しなければ生きられないようにしたのだ。

民衆は当然ながらこの新たなシステムを歓迎しなかった。

彼らは反抗した。

産業革命に向かう1500年から1800年代までは、世界史上きわだって多くの血が流れた激動の時代であった。

囲い込みは、特にイギリスにおいて強引に押し進められた。

当初、イギリス王家は囲い込みがもたらす社会危機を懸念し、制限しようとした。

しかし1640年代のイングランド内戦と1688年の名誉革命によって、そうした制限は廃止された。

中産階級(ブルジョワジー)が議会の支配権を握り、思い通りに政治を動かす力を手に入れたのだ。

彼らは国家権力を駆使して、一連の法律―議会エンクロージャー―を導入した。

その法律は、より急速でより広範に及ぶ奪取の波を引き起こした。

1760年から1870年までの間に、イングランドの約6分の1に相当する約700万エーカーの土地が議会の法令によって囲い込まれた。

この時期が終わる頃には、イングランドのコモンズはほぼ消えていた。

イギリスの農民システム崩壊の最終章と時期を同じくして、産業革命が始まった。

土地を奪われ、絶望し、呆然となった人々は『闇のサタン工場』(産業革命で出現した工場群)の燃料になったのだ。

こうして産業資本主義が始まったが、とてつもない人的犠牲が伴った。

公衆衛生データの世界的専門家サイモン・スレーターによると、産業革命の最初の100年間、平均寿命は著しく低下し、14世紀の黒死病以来、経験したことのないレベルにまで下がった。

産業革命を代表する2大都市、マンチェスターとリバプールでは、国内の産業化されていない地域に比べて、平均寿命がかなり落ち込み、マンチェスターではわずか25歳になった。

イギリスに限ったことではない。研究されている他のヨーロッパ諸国でも同様の影響が見られる。

資本主義以前の時代には、誰も経験したことがないほどの悲惨な状況をもたらしたのである。

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ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」(東洋経済新報社、2023年5月)

1492年以来、ヨーロッパ人はアメリカを植民地にし始めたが、わたしたちが教科書で習ったように『探検隊』や『発見』のロマンに駆り立てられてそうしたわけではなかった。

植民地化は、ヨーロッパで革命が起きて、上流階級が富を蓄積できなくなったことに対する反応、すなわち『解決策』だったのだ。

上流階級は国内で囲い込みを始める一方、クリストファー・コロンブスのアメリカへの航海を皮切りに、強奪するための新たなフロンティアを海外で探し始めた。

この2つのプロセスは同時進行した。

1525年、ドイツの貴族が10万人の農民を虐殺したその年に、スペイン王カルロス1世は征服者のエルナン・コルテスに王国最高の栄誉を与えた。

コルテスはメキシコに遠征し、アステカ王国の首都テノチティトランを破壊し、10万人のインディオを殺したのだ。

囲い込みと植民地化が同時に起きたのは偶然ではない。

資本主義が台頭し始めた頃の数十年間、この2つのプロセスは同じ戦略の一環として展開された。

植民地化による強奪がもたらす利益は驚異的だった。

1500年代初期から1800年代初期までに1億キログラムの銀がアンデス山脈からヨーロッパの港に運ばれた、、、

その価値が平均金利で増えたとしたら、現在では165兆ドルになっている。

世界のGDPの2倍以上だ。

植民地は産業革命の推進力になる原料ももたらした。

たとえば綿と砂糖だ。

綿はイギリスの産業革命を支える最も重要な商品であり、綿工業の象徴であるランカシャーの工場の生命線であった。

一方、砂糖は、イギリスの工場労働者に安価なカロリーを提供した。

しかし、綿も砂糖もヨーロッパでは育たない。

それらを手に入れるために、ヨーロッパ人は広大にな土地を収用して大規模農園(プランテーション)にした、、、

植民地における資源採掘、森林伐採、プランテーションでの単一栽培は、当時としては過去に例を見ない大規模なダメージを生態系にもたらした。

実を言えば、資本家にとって植民地支配が魅力的だった一番の理由は、その土地とそこに住む人をどう扱っても咎められないことにあった。

植民地の鉱山やプランテーションに労働力を提供したのは、500万人を超える先住民だった。

彼らはこの目的にために奴隷にされ、きわめて暴力的に扱われたため、人口が激減した。

しかし先住民だけでは足りなかった。

ヨーロッパ列強による国際的な人身売買が行われ、1500年代から1800年代までの300年間で1500万人がアフリカから大西洋を越えて新大陸に輸送された。

アメリカでは、奴隷にされたアフリカ人から膨大な労働力が搾取された。

仮にアメリカの最低賃金が彼らに支払われたとして、控えめな金利で計算すると、現在、その合計額は97兆ドルになる― アメリカのGDPの4倍に相当する金額だ。

しかもこれはアメリカだけの話で、カリブ海諸国とブラジルは含まれない。

奴隷貿易は労働力の異常な強奪であり、アメリカ先住民や、アフリカから輸送された人々の労働力がもたらす利益は、ヨーロッパ実業家の懐に入った。

しかし、もっと微妙な形での強奪も行われた。

インドでは、植民地を支配するイギリス人が狡猾な税を課し、現地の農民や職人から多額の資金や資源を搾取した、、、

今日、イギリスの政治家はしばしば、イギリスはインドの『発展』を支援した、と主張して、植民地主義を擁護する。

だが、事実は逆だ。

イギリスは自国の発展のためにインドから搾取したのだ。

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ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」(東洋経済新報社、2023年5月)

重要なのは、ヨーロッパの資本主義と産業革命は『無から』生じたわけではないことだ。

資本主義と産業革命は、奴隷にされた労働者が入植者に奪われた土地で生産したものと、囲い込みでコモンズを剥奪された農民が工場で加工した製品に支えられていた。

わたしたちは、この2つを別々のプロセスと見なしがちだが、両者は同じプロジェクトの一部であり、同じ論理で動いていた。

囲い込みは国内の植民地化であり、植民地化は国外での囲い込みだった。

ヨーロッパの農民は、アメリカ先住民と同様に自らの土地を追われた(しかし、明らかにアメリカ先住民のほうがはるかにひどい扱いを受け、権利はもとより人間性まで剥奪された)。

そして、奴隷貿易は身体の囲い込みと植民地化に他ならない。

身体は土地と同様に、余剰を蓄積するために強奪され、資産として扱われたのだ。

こうした暴力的な時期を、資本主義の歴史における一時的な逸脱行為として片づけることができれば、気は楽だ。だが、そうではなかった。

植民地化と囲い込みは資本主義の基盤だったのだ。

資本主義のもとでは常に、対価を支払うことなく利益を抽出できる新たなフロンティアを必要とする

資本主義は本質的に、植民地主義的な性質を備えているのだ。

資本主義というパズルの最後のピースになったのは、植民地経済への介入だった。

ヨーロッパの資本家は大量生産のシステムを構築したが、きあがった大量の製品を得る場所を必要とした。そのすべてを誰が買ってくれるのだろう? 

囲い込みは部分的な解決策になった。

自給自足経済を破壊することによって、大量の労働者だけでなく大量の消費者、つまり、食物、衣服、その他の必需品を、資本家に依存する人々をつくり出したからだ。

しかし、それだけで不十分で、海外に新たな市場を開拓する必要があった。

問題はグローバル・サウスの多くの地域、とりわけアジアでは、独自の手工業が発達しており、世界最高レベルとも評される製品を作っていたことだ。

そうした国々は、自国で作れる物をあえて輸入しようとはしなかった。

そこでヨーロッパの資本家は、非対称貿易のルールによってサウスの地域産業を破壊し、植民地に、原料の供給源だけでなくヨーロッパの大量生産商品の市場になることを強いた。

ここで、回路は完結した。

サウスにとって結果は破壊的だった。

ヨーロッパ資本が成長するにつれて、世界の製造業におけるサウスのシェアは激減し、1750年代の77%から1900年には13%にまで落ち込んだ。

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