前回のブログ↓の続き
一方、長期間、同じ福島在住の方々との交流を続けるにつれて、以下のような声も聞かれた。
南相馬市50代男性
『東電や国のやり方は最低だ。人を人とも思っていない。でも、俺も今までずっと東電にぶら下がり、国に依存して生きてきた。一番悪いのは、俺の主体性のない生き方だ。思考停止に陥り、今さえ良ければいい、自分さえ儲かればそれでいいと、臭いものには蓋をしてずっと生きてきた』
南相馬市20代女性
『原発事故以来、国・政治・東電は最悪と、ずっと他者を批判してきた。でも良く考えてみると、私は選挙に一度も行った事はないし、新聞も読まないし、テレビはお笑いだけしか見ないし。原発近くに住んでいながら原発の事なんて全く知ろうとも思わなかった。今思うと恥ずかしい』
会津若松市60代男性
『さあ考えてみて。仕事もカネも産業も何もないただの田舎町が、原発を誘致することによって、莫大な恩恵が手に入るんだよ。目の前にニンジンをぶら下げられて、それを断れる人がどれだけいると思う?カネで動かない人間もいると思うけど、全体の中の一握りだろ』
いわき市20代女性
『今まで原発の勉強とかしたことない。でも、東電の下請け会社で働いている旦那が被曝して、入院してから、やっと目が覚めた。311以降「誰かが何とかしてくれるだろう・安全だ」と、放射能を浴びまくっても他人事のように考えていた。無関心は身を滅ぼすことにやっと気がついた』
いわき市70代男性
『原発でずっと働いてきた。しかし、危険な仕事は下請けに回していた。山谷や釜ヶ崎のような寄せ場から労働者が連れてこられていることを、俺達は知っていながら、見て見ぬふりをしていた。事故が起こった今、改めて考えると、俺も東電と一緒で、加害者なのかもしれない』
相馬市40代男性
『消防団員として、長年訓練を受けてきた。だが、災害現場は、マニュアル通りにやればいいという単純な話ではない。応用問題の連続だ。正しい正解なんて誰にも分らない。困ったケースが出てきたら、状況を調べ、解決策を考え、やってみて、それが正しかったかどうかの検証の繰り返し。でも、俺たちが命を懸けて必死に人命救助に向かっても、感謝されるどころか、救助が遅いと人々から罵倒されることもある。そう言う人は、一度でもいいから、支援する側に回ってみろって。支援されて当たり前、援助を受けて当たり前と思っている人が世の中には多すぎる。いつまでも被災者面をするなって思うよ。俺だって、家族と家を失くした被災者だ。俺だって泣きたいんだ。でも、自分たちで何とかしようという意思が全くなくて、いつも誰かに何とかしてもらおうと依存している人が多すぎる。それでは人間がダメになる』
川俣町60代男性
『人は年を取るにつれて、他人の話を聞かなくなる。自分が絶対に正しいと信じ、相手を叩きのめすことばかりに夢中になる。原発反対の運動に関わってもう数十年になるが、<過去と他人は変えられない>って、つくづく思うよ。自分を含めて、運動に関わるような主義主張の激しい人ほど、排他的で柔軟性に欠ける人が多い。思いが強い人ほど、他人を許すことが出来ない。学生運動が分裂していった時と構造は似ている』
南相馬市50代男性
『全国からやってくるボランティアさんもいろいろ。純粋に無私の心で応援したいという人もいれば、「あんたたち、もっと頑張んないとダメだよ。俺たち外部の人間がこんなにしてやっているのだから、地元の人はもっと頑張らないと」とか平気で言う人も一部いる。自分たちの理想を、一方的に南相馬の人たちへ押し付けたいだけなら、もう来ないで欲しい。俺が俺がという自我意識で凝り固まったエゴ剥き出しの一部の人が、自分たちの活動を自慢したいがためだけに南相馬を利用している』
いわき市で損害賠償の支援活動をする弁護士
『法律家として、私の知っている事、出来る事は、ほんの僅かなことでしかありません。今回の事故は、人間として何が一番大切なのか?考えるきっかけになりました。私達は、自分以外の人々や命に対して、謙虚にならなければ、現実は何も変わらない』
原発事故における国や東電の責任は極めて大きい。
そのことはもちろん追及し続けていく必要がある。
だが、福島在住の方々の声を丁寧に聞いていくことによって、「原発賛成」「原発反対」というような単純な二項対立だけでは見えてこない根深い問題、割り切れない問題も見えてきたのだ。
原発事故後、様々な知識人「福島はこうあるべきだ」「○○をすべきだ」というが見解を述べている。
しかし、それらの声は、原発立地地域の人々にとって必ずしも受け入れられていないことを、私は知ることとなる。
『仕事もカネも産業も何もないただの田舎町が、原発を誘致することによって、莫大な恩恵が手に入るんだよ。目の前にニンジンをぶら下げられて、それを断れる人がどれだけいると思う?カネで動かない人間もいると思うけど、全体の中の一握りだろ』と大熊町出身で会津若松市在住の男性が私に言ったが、もし私自身が仕事も何もない過疎地で生まれ育っていたならば、生きていくために、家族を養っていくために、全く同じ事を言う可能性を否定できない。
『俺も今までずっと東電にぶら下がり、国に依存して生きてきた。一番悪いのは、俺の主体性のない生き方だ。思考停止に陥り、今さえ良ければいい、自分さえ儲かればそれでいいと、臭いものには蓋をしてずっと生きてきた』と南相馬市在住の男性は語ってくれたが、私自身も「自分さえよければ」「自分が一番かわいい」という感覚から逃れられないでいる。
そして、それらの問いかけは、原発立地地域であろうとなかろうと、人間である故の哀しみ・苦しみであり、多かれ少なかれ私たちすべての現代人が抱えている問題ではないだろうか?
私自身を含めて、人間は愚かな存在である。人間は歴史から何も学べない。
人間は何度でも同じ過ちを繰り返す。
2023年の現在、私たちはあの震災から何を学んだというのだろう?