封建社会を覆した忘れられた革命
封建社会は野蛮なシステムで、人々は惨めな暮らしをしていた、と学校では教わった。それは事実だ。
領主や貴族が土地を支配し、そこに住む人々ー農奴ーは、地代、税金、十分の一税(寄付金)、無報酬の労働という形で領主や貴族に貢ぐことを強いられた。
しかし、よく聞く話とは裏腹に、このシステムを終わらせたのは資本主義ではなかった。
驚くべきことに封建社会を覆したのは、市井の革命家たちの長年に及ぶ勇気ある闘いだったのだ。
だが、どういうわけか、彼らの貢献は完全に忘れられた。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」48p
「ヨーロッパ労働者階級の黄金時代」
封建制が崩壊すると、自由農民たちはそれに代わるものを築き始めた。自給自足を原則とする平等で協働的な社会だ。
この改革は、平民の福利(幸福と利益)に驚くべき影響を及ぼした。
賃金のレベルは歴史上かつてないほど上昇し、ほとんどの地域で2倍から3倍になり、6倍になるケースもあった。
地代は下がり、食料は安くなり、栄養状態は向上した。
労働者は、労働時間の短縮や週末の休暇、さらには、仕事中の食事や、職場への交通費などについて交渉できるようになった。
女性の賃金も上昇し、封建制度下では顕著だった男女の賃金格差は狭まっていった。
歴史家はこの1350年から1500年までを「ヨーロッパ労働者階級の黄金時代」と呼ぶ。
この時代はヨーロッパの生態系にとっても黄金時代だった。
封建制は生態系にとって災厄だった。
領主は、土地と森から利益を抽出するよう小作農に圧力をかける一方、土地と森には何一つ返さなかった。
これは森林破壊と過放牧をもたらし、土壌は次第に肥沃さを失っていった。
しかし、1350年以降に現れた政治運動はこの傾向を逆転させ、生態系は再生し始めた。
土地を直接管理する権利を勝ち取った自由農民は、自然との間に互恵的な関係を築けるようになった。
民主的な集会を開き、耕作、放牧、森林の使用に関するきめ細かなルールを定め、牧草地やコモンズを集団で管理した。
ヨーロッパの土壌は回復し始め、森林は再生した。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」50p
上流階級によって叩き潰された平等主義の社会
当然ながら、ヨーロッパの上流階級はこの変化を喜ばなかった。
彼らは高賃金を「けしからん」と考え、平民が短期間や限定的な仕事のためだけに雇われ、十分な収入を得るとすぐ辞めてしまうことに苛立った。
「今や召使いが主人で、主人が召使いだ」と、中世イングランドの詩人ジョン・ガワーは「瞑想する者の鏡」(1380年)で嘆いている。
ある作家は1500年代初期にこう記した。
「小作農は裕福になりすぎて、、、服従の意味を知らない。
法律を考慮せず、貴族がいなくなることを望み、、、我々が自らの土地に対して得るはずの地代を勝手に決めようとする」。
また、別の人はこう述べている。
「小作人は自由民のようにふるまい、そのような服装をしている」
1350年から1500年までの革命の時代、上流階級は歴史家が「慢性的な非蓄積」と呼ぶ危機に見舞われた。
国民所得(全国民が得る所得の総額)がより均等に国民に分配されるようになるにつれて、上流階級が封建制のもとで享受していた富の蓄積は難しくなった。
ここが肝心なところだ。
わたしたちは、資本主義は封建制の崩壊から自然に出現したと考えがちだが、そのような移行は起きなかった。
資本主義は上流階級による富の蓄積、つまり大規模な投資のために、富を過剰に辞め込むことを必要とする。
しかし封建制が崩れた後に生まれた平等主義の社会は、自給自足、高賃金、草の根民主主義、資源の共同管理を軸とし、上流階級による富の蓄積を阻んだ。
上流階級の不満の核心はそこにあった。
この平等社会が、その後どのように発展していったかを、わたしたちは知らない。
なぜなら容赦なく潰されたからだ。
貴族、教会、中産階級の商人は団結し、農民の自給を終わらせ、賃金を引き下げようとした。
もっとも、そのために小作農を再び農奴にしたわけではないーそうすることは、不可能だとわかっていた。
その代わりに、ヨーロッパ全土で暴力的な立ち退き作戦を展開し、小作農を土地から追い出した。
農民が協同管理していたコモンズ、すなわち、牧草地、森林、川は柵で覆われ、上流階級に私有化された。つまり、私有財産になったのだ。
このプロセスは囲い込み(エンクロージャー)と呼ばれる。
囲い込みによって、数千もの農村コミュニティが破壊された。
作物は荒らされ、焼かれ、村全体が破壊された。
農民は、生きるために欠かせない資源である土地、森、獲物、木材、水、魚に近づけなくなった。
また、その改革は「所領没収」に拍車をかけた。
イギリスやアイルランドではカトリック修道院が解体され、その土地はすぐさま貴族に払い下げられ、
そこに暮らしていた人々は立ち退きを強いられた。
もちろん、農民のコミュニティは戦わずに屈服したわけではない、しかし彼らの抵抗は成功しなかった。
ドイツでは1524年に農民戦争(大規模な農民の反乱)が始まったが、翌年には鎮圧され、農民の死者は10万人を超えた。
世界史上、最も多くの血が流れた虐殺の一つだ、、、
3世紀にわたってイギリスを始めとするヨーロッパの広域で囲い込みが行われ、数百万の人々が土地を追われ、国内避難民になった。
この時代の特徴である激変は、筆舌に尽くしがたい。
まさに人道上の大惨事だった。
歴史上初めて、平民は生存に欠かせない基本的資源へのアクセスを組織的に拒否された。
人々は、家も食料も奪われ、見捨てられた。
囲い込みがもたらした状況を、ぎりぎりの生活と呼ぶのは美化がすぎる。
それははるかに過酷で、農奴の生活のほうがずっとましだった。
イングランドでは、囲い込みによって生まれた大勢の「貧民」や「浮浪者」を表す「貧困」poverty)という言葉が普及した。
この時代以前には、書物に登場することはあっても、日常ではめったに使われなかった言葉だ。
しかし、ヨーロッパの資本家にとっては、囲い込みは魔法のように作用した。
以前は手が届かなかった大量の土地や資源を独占できるようになったのだ。
経済学者が認める通り、資本主義が台頭するには、まず資本を蓄積することが必要だった。
アダム・スミスはこれを「先行的蓄積」と呼び、「少数の人が懸命に働いて稼ぎを蓄えたために生じた」と主張した。
この長閑(のどか)な物語は、今も経済学の教科書で繰り返される。
しかし、歴史家はその見方は無邪気すぎると考えている。
この資本蓄積は、無害な貯蓄のプロセスではなく、略奪のプロセスだった。
カール・マルクスは、暴力的で野蛮な性質を強調するために、「本源的蓄積」と呼ぶことにこだわった。
もっとも、資本主義が台頭するにはもう一つ必要なものがあった。
労働である。それも大量の安い労働だ。
囲い込みはこの問題も解決した。
自給自足経済が破綻し、コモンズが囲われると、人々は賃金を得るために労働力を売るしかなくなった。
以前のように臨時収入を得るためではなく、農奴制の時のように領主の要求を満たすためでもなく、
ただ生き延びるために。
要するに彼らは賃金労働者(プロレタリア)になったのだ。
世界史上、前例のないことだった。
当時、彼らは「自由労働者」と呼ばれたが、この言葉は誤解を招く。
彼らは奴隷や農奴のように働くことを強制されたわけではないが、選択の余地はほとんどなく、働かなければ飢えるしかなかった。
生産手段を所有する者が、最低賃金を払えばよいとされるのであれば、人々はそれを受け入れるしかない。どれほど少ない賃金でも、死ぬよりましだった。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」52p
(資本主義は農奴制を終わらせたのではなくて、農奴制を終わらせた進歩的改革に終止符を打った)
今語ったすべては、資本主義の台頭について通常語られている物語を覆す。
資本主義の台頭は決して自然で必然的なプロセスではなかった。
一般に考えられているような、穏やかな「移行」ではなく、平和的でもない。
資本主義は、組織的な暴力、大衆の貧困化、自給自足経済の組織的破壊を背景として生まれたのだ。
資本主義は農奴制を終わらせたのではなくて、農奴制を終わらせた進歩的改革に終止符を打った。
資本家は農奴制の原理を採用し、新しい極端なやり方で、その原理を再利用した。
すなわち、生産手段をほぼ完全にコントロールし、小作農と労働者を、資本家に依存しなければ生きられないようにしたのだ。
民衆は当然ながらこの新たなシステムを歓迎しなかった。
彼らは反抗した。
産業革命に向かう1500年から1800年代までは、世界史上きわだって多くの血が流れた激動の時代であった。
囲い込みは人間の幸福を破壊し尽くした。
自由農民が勝ち取ったあらゆる利益を、囲い込みは無効にした。
経済学者ヘンリー・フェルプス・ブラウンとシーラ・ホプキンスによれば、1500年代から1700年代にかけて、実質賃金は70%も減少している。
栄養状態は悪化し、飢餓が蔓延した。
1500年代には、自給自足経済は破綻し、同時にヨーロッパ史上最悪の飢饉のいくつかが起きた。
社会基盤はずたずたに破壊され、1600年から1650年にかけて西ヨーロッパ全体の人口は減少した。
イングランドではこの大惨事の痕跡が、歴史的な公衆衛生記録にはっきり残されている。
平均寿命は1500年代には43歳だったが、1700年代には30歳にまで低下したのだ。
トマス・ホッブズの有名な言葉に、「自然状態」の人生は「卑劣で、残酷で、短い」というのがある。
この言葉が書かれたのは1651年のことだ。
わたしたちは、ホッブズがそのように表現したのは資本主義以前の人生で、資本主義がそうした悲惨さを解消した、と捉えている。
しかし事実は逆だ。
ホッブズが描写した悲惨さは、資本主義の台頭によってもたらされたのだ。
当時のヨーロッパは、少なくとも平民にとっては、世界で最も貧しく病んだ場所だった。
ホッブズは知り得な買ったが、その状況はさらに悪化していく。
囲い込みは、特にイギリスにおいて強引に押し進められた。
当初、イギリス王家は囲い込みがもたらす社会危機を懸念し、制限しようとした。
しかし1640年代のイングランド内戦と1688年の名誉革命によって、そうした制限は撤廃された。
中産階級(ブルジョワジー)が議会の支配権を握り、思い通りに政治を動かす力を手に入れたのだ。
彼らは国家権力を駆使して、一連の法律ー議会エンクロージャーーを導入した。
その法律は、より急速でより広範に及ぶ奪取の波を引き起こした。
1760年から1870年までの間に、イングランドの約6分の1に相当する約700万エーカーの土地が議会の法令によって囲い込まれた。
この時期が終わる頃には、イングランドのコモンズはほぼ消えていた。
イギリスの農民システム崩壊の最終章と時期を同じくして、産業革命が始まった。
土地を奪われ、絶望し、呆然となった人々は、都市に流れ込み、安価な労働力を提供した。
ウィリアム・ブレイクの詩に詠われて不滅のものになる「闇のサタン工場」(産業革命で出現した工場群)の燃料になったのだ。
こうして産業資本主義が始まったが、とてつもない人的犠牲が伴った。
公衆衛生データの世界的専門家サイモン・スレーターによると、産業革命の最初の100年間、平均寿命は著しく低下し、14世紀の黒死病以来、経験したことのないレベルにまで下がった。
産業革命を代表する2大都市、マンチェスターとリバプールでは、国内の産業化されていない地域に比べて、平均寿命がかなり落ち込み、マンチェスターではわずか25歳になった。
イギリスに限ったことではない。
研究されている他のヨーロッパ諸国でも同様の影響が見られる。
資本主義の最初の数百年は、資本主義以前の時代には誰も経験したことがないほどの悲惨な状況をもたらしたのである。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」54p
(植民地開拓が魅力的だった一番の理由は、その土地とそこに住む人をどう扱っても咎められないこと)
歴史家は、資本主義が囲い込みに依存して発展したことをよく知っている。
しかし、この物語は、同じ時代に同じプロセスの一環としてヨーロッパの外で起きた本源的蓄積を無視することがあまりにも多い。
グローバル・サウスでは、ヨーロッパで起きたことが些細に思えるほど徹底的に、自然と人間が囲い込まれた。
1492年以来、ヨーロッパ人はアメリカを植民地にし始めたが、わたしたちが教科書で習ったように「探検隊」や「発見」のロマンに駆り立てられてそうしたわけではなかった。
植民地化は、ヨーロッパで農民革命が起きて、上流階級が富を蓄積できなくなったことに対する反応、すなわち「解決策」だったのだ。
上流階級は国内で囲い込みを始める一方、クリストファー・コロンブスのアメリカへの航海を皮切りに、強奪するための新たなフロンティアを海外で探し始めた。
この2つのプロセスは同時進行した。
1525年、ドイツの貴族が10万人の農民を虐殺したその年に、スペイン王カルロス1世は征服者のエルナン・コルテスに王国最高の栄誉を与えた。
コルテスはメキシコに遠征し、アステカ王国の首都テノチティトランを破壊し、10万人のインディオを殺したのだ。
囲い込みと植民地化が同時に起きたのは偶然ではない。
資本主義が台頭し始めた頃の数十年間、この2つのプロセスは同じ戦略の一環として展開された。
植民地化による強奪がもたらす利益は驚異的だった。
1500年代初期から1800年代初期までに1億キログラムの銀がアンデス山脈からヨーロッパの港に運ばれた、、、
その価値が平均金利で増えたとしたら、現在では165兆ドルになっている。
世界のGDPの2倍以上だ、、、
植民地は産業革命の推進力になる原料ももたらした。
たとえば綿と砂糖だ。
綿はイギリスの産業革命を支える最も重要な商品であり、綿工業の象徴であるランカシャーの工場の生命線であった。
一方、砂糖は、イギリスの工場労働者に安価なカロリーを提供した。
しかし、綿も砂糖もヨーロッパでは育たない。
それらを手に入れるために、ヨーロッパ人は広大にな土地を収用して大規模農園(プランテーション)にした、、、
植民地における資源採掘、森林伐採、プランテーションでの単一栽培は、当時としては過去に例を見ない大規模なダメージを生態系にもたらした。
実を言えば、資本家にとって植民地開拓が魅力的だった一番の理由は、その土地とそこに住む人をどう扱っても咎められないことにあった。
植民地の鉱山やプランテーションに労働力を提供したのは、500万人を超える先住民だった。
彼らはこの目的にために奴隷にされ、きわめて暴力的に扱われたため、人口が激減した。
しかし先住民だけでは足りなかった。
ヨーロッパ列強による国際的な人身売買が行われ、1500年代から1800年代までの300年間で1500万人がアフリカから大西洋を越えて新大陸に輸送された。
アメリカでは、奴隷にされたアフリカ人から膨大な労働力が搾取された。
仮にアメリカの最低賃金が彼らに支払われたとして、控えめな金利で計算すると、現在、その合計額は97兆ドルになるーアメリカのGDPの4倍に相当する金額だ。
しかもこれはアメリカだけの話で、カリブ海諸国とブラジルは含まれない。
奴隷貿易は労働力の異常な強奪であり、アメリカ先住民や、アフリカから輸送された人々の労働力がもたらす利益は、ヨーロッパ実業家の懐に入った。
しかし、もっと微妙な形での強奪も行われた。
インドでは、植民地を支配するイギリス人が狡猾な税を課し、現地の農民や職人から多額の資金や資源を搾取した、、、
(19世紀末には、イギリスの国内予算の半分以上がインドやその他の植民地から吸い上げた資金によって賄われた)
今日、イギリスの政治家はしばしば、イギリスはインドの「発展」を支援した、と主張して、植民地主義を擁護する。
だが、事実は逆だ。
イギリスは自国の発展のためにインドから搾取したのだ。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」57p
ここで重要なのは、ヨーロッパの資本主義と産業革命は「無から」生じたわけではないことだ。
資本主義と産業革命は、奴隷にされた労働者が入植者に奪われた土地で生産したものと、囲い込みでコモンズを剥奪された農民が工場で加工した製品に支えられていた。
わたしたちは、この2つを別々のプロセスと見なしがちだが、両者は同じプロジェクトの一部であり、同じ論理で動いていた。
囲い込みは国内の植民地化であり、植民地化は国外での囲い込みだった。
ヨーロッパの農民は、アメリカ先住民と同様に自らの土地を追われた(しかし、明らかにアメリカ先住民のほうがはるかにひどい扱いを受け、権利はもとより人間性まで剥奪された)。
そして、奴隷貿易は身体の囲い込みと植民地化に他ならない。
身体は土地と同様に、余剰を蓄積するために強奪され、資産として扱われたのだ。
こうした暴力的な時期を、資本主義の歴史における一時的な逸脱として片づけることができれば、気は楽だ。
だが、そうではなかった。
植民地化と囲い込みは資本主義の基盤だったのだ。
資本主義のもとでは成長は常に、対価を支払うことなく利益を抽出できる新たなフロンティアを必要とする。
資本主義は本質的に、植民地支配的な性質を備えているのだ。
資本主義というパズルの最後のピースになったのは、植民地経済への介入だった。
ヨーロッパの資本家は大量生産のシステムを構築したが、できあがった大量の製品を得る場所を必要とした。
そのすべてを誰が買ってくれるのだろう?
囲い込みは部分的な解決策になった。
自給自足経済を破壊することによって、大量の労働者だけでなく大量の消費者、つまり、食物、衣服、その他の必需品を、資本家に依存する人々をつくり出したからだ。
しかし、それだけで不十分で、海外に新たな市場を開拓する必要があった。
問題はグローバル・サウスの多くの地域、とりわけアジアでは、独自の手工業が発達しており、世界最高レベルとも評される製品を作っていたことだ。
そうした国々は、自国で作れる物をあえて輸入しようとはしなかった。
そこでヨーロッパの資本家は、非対称貿易のルールによってサウスの地域産業を破壊し、植民地に、原料の供給源だけでなくヨーロッパの大量生産商品の市場になることを強いた。
ここで、回路は完結した。
サウスにとって結果は破壊的だった。
ヨーロッパ資本が成長するにつれて、世界の製造業におけるサウスのシェアは激減し、1750年代の77%から1900年には13%にまで落ち込んだ。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」60p
人為的希少性というパラドックス
ここで理解しておくべき重要なポイントは、資本主義の特徴であるきわめて高い生産能力は、人為的希少性の創出と維持に依存していたことだ。
希少性ーおよび、飢餓の脅威ーは、資本主義を成長させる原動力になった。
実際には資源は不足していなかったので、その希少性は人為的なものだった。
土地、森、水源は以前と同じだったが、突如として、利用を制限されたのだ。
希少性は、上流階級が富を蓄積するためにつくり出したものだった。
人為的希少性は国によって暴力的に強制され、勇気を奮って自分たちと土地を隔てる柵を壊そうとした農民は虐殺された。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」63p
これらのコメントは、驚くべきパラドックスを明らかにする。
資本主義の支持者たちは、富を生み出すには人々を貧しくする必要があると考えていたのだ。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」65p
James Maitland, 8th Earl of Lauderdale 「ローダーデールのパラドックス」
資本主義は並外れた物質的生産性をもたらしたが、その歴史が絶え間ない希少性の創出を特徴とし、破滅的な飢饉と数百年に及ぶ貧困化のプロセスにまみれているのは、なんと奇妙なことだろう。
この明らかな矛盾に最初に気づいたのは、第8代ローダーデール伯爵ジェームズ・メイトランドで、1804年のことだった。
メイトランドは、「私富」と「公富」すなわちコモンズには負の相関があり、前者の増加は後者の犠牲の上にのみ成り立つ、と指摘した。
メイトランドはこう書いている。
「公富は、人が、自分にとって有用で望ましいと感じ、欲するすべてのものから成る、と定義できるだろう」。
言い換えれば、豊富にあっても固有の価値を持つもので、空気、水、食料が含まれる。
私富も「人が、自分にとって有用で望ましいと感じ、欲するすべてのものから成るが、こちらは希少性ゆえに価値を持つ」。
希少であればあるほど、それを必要とする人々からより多くの金を強奪できる。
たとえば水のように豊富な資源を囲い込んで独占したら、人々に使用料を請求して、私富を増やすことができる。
これはメイトランドが「私有財産の総額」と呼ぶものー現在のGDPーも増やす。
しかし私富を増やすには、豊富にある無料のものを利用する権利を人々から奪う必要がある。
結果、私富は増えるが、公富は減る。
これは後に、「ローダーデールのパラドックス」と呼ばれるようになった。
メイトランドは、植民地でそうしたことが起きているのを知っていた。
例えば果実やナッツが実る天然の果樹園を入植者が焼き払ったため、その土地の豊かさに依存して暮らしていた人々は、働いて賃金を得て、ヨーロッパ人から食物を買わなければならなくなった。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」67p
もっとも、わたしは成長そのものが悪いと言っているわけではない。成長ではなく、成長主義が問題なのだ。
成長主義とは、人間の具体的な必要を満たすためでも社会的目標を達成させるためでもなく、成長そのもののために、あるいは資本を蓄積するために成長を追い求めることだ。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」106p
「成長し続けねばならない」という絶対的な思い込み
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」170p
幸福度が最も高いのは福祉制度を持つ国だった。
福祉制度が手厚く寛大であるほど、すべての人がより幸福になる。
すなわち、国民皆保険、失業保険、年金、有給休暇、病気休暇、手頃な価格の住宅、託児所、最低賃金
制度などが整っている国ほど、国民の幸福度が高いのだ。
誰もが平等に社会財を利用できる、公平で、思いやりのある社会で暮らす人々は、日々の基本的ニーズを満たすことを心配することなく人生を楽しみ、隣人と常に競いあうのではなく、社会的連帯を築くことができる。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」186p
(フランツ・)ファノンがここで主張しているのは、一種の脱植民地化である。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」195p
1930年代、サイモン・クズネッツがGDPという指標をアメリカ議会で紹介した時、彼は慎重に、GDPを経済進歩の一般的な尺度として使うべきではないと警告した。
GDPに焦点を置くと、あまりにも多くの破壊へとつながるからだ。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」203p
成長しなくても繁栄できることを理解したら、わたしたちの視野は一気に広がる。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」209p
「豊かさ」が成長の解毒剤となる
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」234p
定常経済を実現するには、資源の消費と廃棄に、明確な上限を設ける必要がある。
数十年間にわたって経済学者たちは、「人々はそれを理不尽だと思うから、そのような上限の設定は不可能だ」と主張してきた。
しかし、それは間違いだとわかった。機会があれば、人々は、まさにそのような政策を望むのだ。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」248p
世界を密接につながったものと捉えるアニミズムは非合理的で知性に欠ける、と長く考えられてきた。
19世紀の高名な人類学者は、アニミズムを「子供じみている」と表現し、「子供は世界を魔法に満ちた場所として眺めるが、それは認知のエラーであり、正さなければならない」と主張した。
やがては理性だけでなく、近代性や近代科学までもが、人間と自然、主体と客体の明確な区別の上に定義されるようになった。
アニミズムは、出現しつつある「近代」という概念の引き立て役にするのに最適だったのだ。
しかし、デカルトの言葉に誰もが納得したわけではない。
原稿のインクが乾くか乾かないうちに、彼は同時代の学者たちから根本的な誤りを指摘され、激しく攻撃された。
その後、400年間の科学の進歩により、デカルトが間違っていただけでなく、アニミストの思想は、生物と物質の実際の働きと深く共鳴していることが明らかになる。
デカルトへの反発は、オランダの勇敢な哲学者バールーフ・デ・スピノザから始まった。
スピノザは1600年代にアムステルダムのセファルディ系ユダヤ人の家庭で育った。
ちょうどデカルトが有名になりつつあった頃だ。当時のエリートたちはデカルトの二元論を称賛したが、スピノザは納得しなかった。
それどころか、彼の考えはまったく逆だった。
彼は、宇宙は一つの究極の原因―現在で言うビッグバン―から生まれたに違いない、と主張し、それを前提に論を進めたーだとすれば、神と魂と人間と自然は、根本的に異なる種類の存在のように見えるかもしれないが、実は唯一の壮大な「実在」の異なる側面にすぎず、同じ力に支配されているー。
スピノザの主張は、当時の人々の世界観を根底から覆すものだった。
彼の主張が意味したのは、神は「創造物」と同等の存在であり、人間は自然と同等の存在であり、精神と魂は物質と同じ存在だということ、つまり、すべては物質であり、精神であり、神であるということなのだ。
当時、こうした考えは異端だった、、、もし自然が神と同じなら、人間に自然を支配する権利はないはずだ。
スピノザへの反動は大きく、迅速だった。彼の思想は当時の権力者の思想と対立したため、容赦ない迫害を受けた。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」268p