・科学技術の進歩は、宗教に依存せずとも生活が成り立つことを可能にしていった。近代に入るまで、病を治すというときに、宗教による信仰治療にかなり頼っていたが、それを必要としなくなったのである。
・「宗教は、逆境に悩める者のため息であり(中略)それは民衆の阿片である(マルクス)」、、、
・マルクスのとらえる資本の背景に神の存在を認めるならば、その神は、ひたすら自らを増殖させていくことを目的とした利己的な存在であり、人間の幸福というものを必ずしも考えない存在である。ところが、市場を自動的に調整してくれる神は、反対に人間のために行動してくれる存在であるとされる。
・マルクスのとらえる神は、人類を崩壊させてもかまわないとする恐るべき神だが、自由放任主義や市場原理主義において想定される神は、人類を根本的に救ってくれる優しい存在である。市場を調整してくれる神の見えざる手を強調したのが、「経済学の父」とも呼ばれるアダム・スミスである。スミスは、マルクスと同じように哲学から出発し、最初は、道徳哲学を専門とした。したがって、そのスミスの出世作となったのは、『道徳感情論』という道徳哲学についての著作であった。
・「神の見えざる手」という考え方は、経済学の父と言われるアダム・スミスに遡るというのが一般的な理解であり、市場にさえ任せていれば、自動的に調整機能が働くと考えられてきた。あるいは、そのように主張されてきたと言うべきかもしれない。こうした見解は、資本主義の発展に対して、それを正当化する役割を果たした。市場に調整機能がある以上、規制は必要ではないというわけである。ところが、マルクスが指摘するように、資本は蓄積していくことを自己目的化するわけで、その過程で人間を振り回していく。
島田 裕巳 「宗教消滅 資本主義は宗教と心中する」