私たちはみんな「亜インテリ」なのかもしれない

私たちはみんな「亜インテリ」なのかもしれない

インテリ気取りで「受け売りの知識」を披露…私たちはみんな「亜インテリ」なのかもしれない(綿野 恵太) @gendai_biz
インテリを気取ってはいるけれど、そのじつ耳学問で仕入れた受け売りの知識をひけらかしているだけの人々——丸山眞男はいまから50年以上前にこうした存在を「亜インテリ」と呼びましたが、じつは現代こそが「亜インテリ」というキーワードによって特徴づけられるのかもしれません。『みんな政治でバカになる』(晶文社)を上梓した、批評家の...

丸山眞男によれば、「亜インテリ」とは「いっぱしインテリのつもり」だが、「耳学問」なのであやふやな知識しか持たない。

政治や経済に「オピニオン」を持つが、知識や生活レベルは「大衆」とあまり変わらない。

むしろ、「大衆」とさほど変わらないからこそ、「心理的にヨリよく大衆をキャッチ出来る」。

「町内会」や「青年団」といったコミュニティに積極的に参加して「国民の声」をつくり出す人々である。

もちろん、「インテリ」と「亜インテリ」という丸山の区別に疑問はないわけではない。

だが、ここで注目したいのは、「インテリ」気取りで「耳学問」の「受け売り」の知識をひけらかし、「大衆」に大きな影響力を持つ「大衆」=「亜インテリ」である、、、

「亜インテリ」への批判は共感するが、発想の転換が必要だと思う。

「人間本性」から考えれば、私たちはみんな「亜インテリ」である、と。

認知科学者スティーブン・スローマンとフィリップ・ファーンバックによれば、人びとは「自分がものを知っている」としばしば錯覚する。

ほとんどの人は「水洗トイレ」を知っているが、どのような仕組みで水が流れるかは説明できない(「説明深度の錯覚」)。

私たちは「知ってるつもり」になりがちであり、自分が思う以上に無知なのである、、、

「敵と味方を峻別する発想が強い」といわれるポピュリズムは、「道徳感情」を利用して「亜インテリ」を「動員」している、、、

また「怒り」の感情が最も拡散されやすい。

「道徳感情」を煽る投稿は同じ「道徳部族」の内部で拡散されて、「あいつら」を隔離して「われわれ」の結束を高める役割を果たしている。

私たちの「部族主義」を利用し、「道徳感情」を「動員」するポピュリズムにとって、Twitter(X)は最適の「環境」なのである、、、

本来ならば、言論活動を担う知識人や専門家は、「道徳感情」を適切に言語化し、洗練する役割を担うべきである(推論システム)。

ときにはその誤りを指摘し、取捨選択をする必要もある。

ところが、専門家や知識人のなかには(意識的にか無意識的にか)大衆の「直観」や「感情」にすり寄り、「道徳感情」を掻き立てるものが増えている。

しかし、そうなると「亜インテリ」で十分である。

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