もう10年以上前のことだ。
50代の若さで逝ったKさんという女性の看取りに立ち会ったことがある。
最近、故人のお母さんから電話があり、久々にKさんについて話した。
その母親を通じて、Kさんのことを思い出したので、備忘録として以下、書いてみたい。
Kさんは、一度結婚したがうまくいかなかった。
子供はいない。
病院に入院してきた時は、車いすに乗っており、既に末期の肺がんで全身に癌が転移していた。
付き添いは母親のみ。
母親に「早く殺して」「生きていても苦しいだけ」「早く楽になりたい」が口癖で、私もどのようにNさんに接していけばよいのか、正直、分からなかった。
「殺してくれ」と言う背景には、「私はもう社会に必要とされていない」「私の存在はお荷物だ。家族に迷惑をかけたくない」というような気持があるように感じられた。
Kさんは乳がんだった。
Kさんとの会話から、Kさんはパソコンが得意という事を知った。
ネット上には、同じ病気の人たちだけの自助グループもある。
そのことを母親に話すと、病室にノートパソコンを持ってきてくれた。
その直後からKさんはほぼ一日中、パソコンを通じて同じ病気を抱える全国の患者仲間と交流することとなった。
「早く殺して」とは言わなくなったが、病室に訪問する医療従事者よりも、パソコンを通じたバーチャルな繋がりの方がKさんの心を癒すようだった。
Kさんはネットに夢中になった。
「同じ病気の人と話している方が気持ちが休まる」と言い、病棟スタッフとリアルな人間関係を築くのは遠慮したいようだった。
しかし、そんなKさんもいよいよ呼吸困難に陥り、自力でトイレを行うことすら出来なくなった。
その時であった。
私が呼び出され、遺言を作成したいと言い出したのである。
Kさんは、乳がんを患ってから、エンディングノートに思いつくことはすべて書き込んでいた。
しかし、エンディングノートを書いた時から、既に何年も経過している。考え方に変化もあった。
生きた証を残したい
「私には財産と呼べるものはほとんどない。でも、まだ生きているうちに生きた証を残したい。葬儀や埋葬についても、自分の知らない間に、勝手に進められるのは嫌。力を貸してほしい」と。
私はすぐに「遺言書を公正証書で作りましょう。公証人も呼べば、病室まで来てくれますよ」と述べた。
その後、私も立会人となり、遺言公正証書が作成された。Kさんはそれから数日後、静かに亡くなった。
Kさんの葬儀は、Kさんの好きだった音楽が流され、Kさんが演出した通りの葬儀となった。
遺言があったおかげで、残された人は、Kさんの思いを忠実に再現すればよかったのである。
Kさんは、自らが亡くなったことを知らせてほしい人まで、全てをリストアップしていた。
そして、絶対に自分が亡くなったことを知らせてほしくない人、葬儀に来てほしくない人まで詳細に記されてあった。
お通夜の席では、誰しもが「最後の最後までKさんらしいね」と言った。
Kさんの葬儀には義理で来ている人はいなかった。
参列者の誰しもが、自分の意思で参列していた。
参列者一人一人には、Kさん直々の感謝の言葉が書かれたメッセージカードまで添えられてあった。
都会の葬儀では、故人の事を全く知らない人が義理で参加することがよくある。
通夜が18時から始まると、香典だけ持参し、18時10分には焼香だけして帰るという光景が日常的にみられる。
良い悪いは別として、Kさんのように「自分のことを知っている人・お付き合いがあった人」だけ、葬儀に来て欲しいという人は今後も増えていくだろう。
我が子を看取った母親とはいまだにお付き合いがあり、時々、電話がかかってくる。
母親は言う。
「娘が死んで、早く元気を出しなさい。いつまでくよくよしているの?とか平気で言う人がいる。一方で、何も言わずに、何か話したくなった時はいつでも聞くから連絡してという人もいる。自分が大切なものを喪って初めて見えてくるものってあるんだね。恥ずかしながら、私も子供を失うまで、早く元気を出しなさいと泣いている人に言っていた方だったよ。でも、今は後者の気持ちが痛いほどよくわかる。私もそうありたいって」
健康で家庭も仕事も順風満帆であれば言うことはない。
しかしながら、生きていると、苦しいこと・辛いこと・悲しいこと・自分の思う通りにいかないことがある。
人生には不都合なことが多々起こってしまうものだ。
その時、どう振る舞い、どう対応していくかは個人差がある。
それはそのまま「生き方」にも繋がっている。
V・Eフランクルは「人生に何かを期待するのは間違っている。人生が、あなたに期待しているのだ」と述べた。私が期待しようとしまいと、人生は私に呼びかけている。「一度きりの人生をしっかり楽しんでほしいと」。
また北野武さんは「人は生まれて、生きて、死ぬ、これだけでたいしたもんだ」と言った。
平凡な人生であってもいいではないか。
何かを成し遂げた人生も、そうでない人生でも、人は生まれてきて、生きて、寿命が尽きれば死ぬ。
それだけで十分ではないかと思えるような人生は豊かだ。