「直葬」の増加が意味すること
そもそも宗教とは何か?
宗教とは、自分の力を絶対化し、自分は死なない・自分は何でもできる・自分は誰の力も借りずに生きていける、と信じている時には、なかなか頷けないものである。
さらに、この豊かな時代の中、多くの現代人は根本的に宗教を必要としていない。
しかしながら、東日本大震災は「宗教」を、そして、人間の「生と死」というものを見直すきっかけにもなったと言える。
津波で大きな被害を受けた家々を何百件と訪問し、泥出しを手伝う中、探して欲しいものの中で最も依頼が多かったのは、仏壇とご先祖の「お位牌」であったことに筆者は驚いた。
また、岩手・宮城・福島の避難所や仮設住宅を訪問して、のべ2,000人以上の被災者の方々からお話を聞かせていただく機会があったが、「津波が引いた後、真っ先に駆けつけた場所は?」との質問に対して最も多かった答えが「自宅」、その次が「先祖代々の墓」、そして三番目が「神輿のある場所・神社」であった。
私たち日本人の多くは、既成宗教教団に帰依する感覚はなくても、死者追慕の感覚はかなりの方が持ち合わせているのだ。
そして地縁が強い地域ほど「祭り」が機能している。
祭りにはその地域の結束を強める働きがある。
作物がたくさん取れますように、子どもが無事に生まれますようにという「祈り」がそこには存在する。
そして、地縁が強い地域では、誰かが亡くなれば、葬式をしないということは通常、考えられない。
<葬式>とは、「葬」儀ならびに告別「式」の略語
そもそも「葬式」という言葉自体、略語であることをご存じであろうか?
タレントの木村拓哉さんを「キムタク」と私たちが呼ぶように、葬式も「葬」儀ならびに告別「式」の略語である。 ※さらに葬式の上に「お」を付けて、丁寧にお葬式と呼ぶ。
葬儀の「儀」は、宗教儀式の「儀」である。
従って、宗教者を伴わない儀式は、葬儀とは呼ばない。
現在、葬儀業界では「直葬(ちょくそう)=病院や施設で亡くなった後、そのまま直に火葬場へご遺体を運ぶこと)」という、火葬のみを意味する言葉が飛び交っている。
直に葬ると書くので直葬という呼び方が使われており、東京二十三区では亡くなる方の約3~4割が既に直葬であると言われている。
東日本大震災前、「葬式は、要らない(幻冬舎)」(島田裕巳著)という本がベストセラーになった。
宗教学者である島田氏は「日本の葬式の費用は高すぎる。葬式は贅沢だ」と指摘。
「葬儀に金をかけるのは無駄」という社会的コンセンサスが徐々に浸透してきた矢先、震災が起きたのである。
未曾有の大災害によって、多くの人のいのちが一瞬にして喪われた結果、鎮魂や祈りという宗教的な感情が覚醒したのである。
問われる死生観
葬儀は単なるイベントではない。
死者への祈りや鎮魂は、どうしても宗教的な儀式を伴う。
被災地では遺体がまだ見つかっていないなどの理由で、葬儀を「したくてもできない」人がいる。
それは、志村けんさんの事例を持ち出すまでもなく、コロナで亡くなった方も同様だ。
一方、都会では、人間関係の希薄さにより、葬儀を「できるけどしない」人がいる。
本来あるべき葬儀、弔いとは、その死を真正面から受け止めた家族や親しい人々が、その故人が生きた人生の軌跡、その故人が大切にしていた思いを残された者が深く胸に刻みこめるようなものであるべきだ。
だが、忙しい現代人の多くは、死に対して深く考えることも、自らに問うことも稀である。
しかしながら、東日本大震災での約2万人の大量死は、人は必ず「死ぬ」ということを私たちに突きつけたのだ。
2025年問題を持ち出すまでもなく、今後、約七百万人いるといわれる「団塊の世代」の大量死の時代が確実にやってくる。
大量死の時代に対する明確な「死生観」を私たちは持ち合わせていない。
家族・地域・会社といった縁もますます希薄化している。
そのような中、私たちは何を拠り所に、最期の時を迎えれば良いのか?
私たち自身の死生観が試されている。