自分には金が十分にないから、思うようにお前に勉強させてやることができない。
そこで、30歳まではお前の好きなようにしなさい。
私も勘当したつもりでいる。
30になったら、親のことを思い出せ。
それでも、もし困ったときや病気のときは、いつでも島へ帰っておいで。
いつも待っている。
酒やタバコは30までは飲むな。
30を過ぎたら好きなようにしてよい。
金を儲(もう)けるのはたやすい。
使うのが難しいのだ。
自分の身をいたわり、同時に人もいたわりなさい。
自分でよいと思うことはやってみよ。
それで失敗したからといって親は責めはしないから。
そして、人の見残したものを見るようにしなさい。
その中に、いつも大切なものがあるはずだ。
あせることはない。
自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。
先は長いんだから……。
80年近く前、瀬戸内海の島に住む男性が、大阪に息子を奉公に送りだした。
15歳の息子を送りだすにあたり、父親は息子に、この言葉「家郷の訓(かきょうのおしえ)」を贈った。
父親は特に学校で勉強したわけではない、半農半漁の、ありふれた島の人だった。
息子は後の民俗学者・宮本常一(つねいち)、その人である。
このような「贈る言葉」は信州の山中にも、さまざま残っているようだ。
当時は、自分が生きていくだけでも際どかった時代だ。
「口減らし」や「身売り」という形で都会に出ていく人も多かった。
そんな状況下でこのような言葉が、息子や娘を送り出す親たちから伝えられたものだと聞いている。
あるおばあさんは(呆けてはいるが)、自分の祖母から伝わる大事な教えとして、いつもこう言った。
「お金がないから貧乏だなんて、いったい誰が決めたんだろうね」
確かにお金はなかった。
今もないようだ。
独りで山奥に暮らし、隣近所で、かろうじて支え合う生活ぶりだ。
肺炎になったりして、どうしても家においておくのは無理だ、と思って入院させると、すぐに認知症が進む。なぜか。
お互い顔を見知った中でこそ、お金を介さずに、しっかり生活できていたのが、他人の中では自分を見失ってしまうようだ。
「施設」や「病院」などの管理された人工的な場では、一種の防衛反応なのか、お年寄り方は、急速に呆けていく。
家に戻せば、すぐに回復し、もとの彼女に戻る。
施設での呆けた「弱者」としてのお年寄りの姿だけを見て、どうだろう。
私も医学生の頃(あるいは看護学生さんもそうだろうが)、「老人は弱者である」と刷り込まれてきた。
この見方は、果たして本当なのだろうか……。
私は現在41歳。
医師として働いている。
医者というのは、実は「いまここ」、目の前のことについてしか役に立たない。
ある意味では、目の前のことだったら少しはなんとかなる。
そういう存在だ。
「人の見残したものを見極めるようにしなさい。その中に、いつも大切なものがあるはずだから……」
――先日、佐久地方で進学校といわれる高校で講演する機会があった。自戒を込めて、私はこの言葉を高校生たちに贈った。
2001年3月22日 朝日新聞長野県版
「贈る言葉 子送り出す 親の知恵」 色平哲郎