「俺たち見捨てられたんだよね」震災と原発事故で、福島の子どもたちに起きたこと、心にしまい込んだ痛みは今

「俺たち見捨てられたんだよね」震災と原発事故で、福島の子どもたちに起きたこと、心にしまい込んだ痛みは今:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

東日本大震災や原発事故後、福島の子どもたちに何が起きたのか。

津波被害や原発事故の避難などで、親たちの大変さを見ていた子どもたちは、親に心配をかけないように自分たちのつらさや生きづらさを語れなかったという。

心配なのは語る場がなかった子どもたち―。

地域の中で、震災や原発事故の体験を語り合い支え合う集まり「おらもしゃべってみっが」が福島県内で広がろうとしている。

◆「若者」をテーマに当時の体験を語り合う

 「震災後、再開した学校で暴言や暴力、いじめなどこれまでは考えられないことが起きた」

 福島県南相馬市では11月18日、県内外から集まった約50人を前に、同市の中学校の元養護教諭井戸川あけみさん(70)が静かに語った。南相馬市では毎年秋に開かれ3回目、今年のテーマは「若者」だ。

原発事故後、南相馬市の中学校で授業を再開したときの生徒の様子を話す井戸川あけみさん(奥中央)=福島県南相馬市で

原発事故後、南相馬市の中学校で授業を再開したときの生徒の様子を話す井戸川あけみさん(奥中央)=福島県南相馬市で

 井戸川さんが勤めていた中学校は震災当日が卒業式で、午後には大半の生徒が帰っていた。10メートルの津波到達の情報が入り高台に一時避難したとき、押し寄せてくる黒い壁のような津波を見た。その光景を忘れられないという。

 波が引いた後、地盤沈下し壁に亀裂が入った校舎に戻ると、ずぶぬれの人など数百人が避難してきた。生徒もいて「流されていく先輩の顔を見たけど助けられなかった」「津波に流され丸太にしがみついて助かった」「海岸で津波が来る前に潮が引いて海底がばっと割れるのを見て怖くて逃げた」と口々に報告した。「学校が始まったら大変なことになる」。井戸川さんはその時感じた。

◆日がたつにつれて募る不安、喪失感

 福島第1原発の1号機の水素爆発後、20キロ圏内の避難指示で離散し、ぎりぎり30キロ圏外の学校の2教室を借りて授業を再開したのは5週間後。生徒は卒業生を含め382人いたが、新入生を含め42人で再開した。他の生徒は、全国280校に転校していった。

 避難所からの通学バスは、津波で打ち上がった船やがれきだらけの中の道を通った。被ばく対策の帽子、マスク、長袖、長ズボン姿で生徒たちは通ってきた。教室を間仕切りで仕切っての授業、校庭に出られない息苦しい中でも、生徒と先生の距離が近くなり、授業中も先生に話しかけたり、休み時間に職員室に来たりするようになり、意欲的に学習するようになった。

◆生徒数が減り教師も半数近く異動「先生はいいよな」

 ただ懸念は常にあった。「通学路には過酷な震災を思い出す光景が広がり、家族が避難所の狭い空間で暮らす中、親が過干渉になることも。親が不安になれば子どもたちも不安になる。日がたつにつれ、今までの生活が戻らない喪失感が大きくなっていった」

 子どもたちに変化が起きたのは5月のこと。生徒数の減少で、半数近い先生が異動になった。慣れ親しんだ先生との別れは、明日も会えると思っていた友達との突然の別れに似ていた。生徒たちが「先生、俺たち見捨てられたんだよね」「先生はいいよな。俺たちはどこにも行けない」などと言うようになった。

◆ぶつけようのない思い…ストレスでむしばまれた心身

 その後、生徒たちの寂しさや不安、理不尽さや怒りなど、ぶつけ先のない思いの爆発が始まった。壁を殴ったり蹴ったり、同じ校舎で学ぶ他校の生徒に威圧的になったり、暴力や暴言に変わった。乱闘を恐れ、先生たちは廊下の各校の境界線に休み時間に並んだ。一度避難して戻ってきた生徒を「私らは逃げたくても逃げられなかった」と言って無視する女生徒も。学校の日常を取り戻そうとする先生たちの闘いが始まった。

 半年ほどで仮設校舎に移り、校庭で遊んだり体育ができるようになり落ち着いたが、安心はできなかった。寂しさは携帯で知らない異性と出会う危険にもつながった。井戸川さんらは常に生徒の様子に目を配り、一人一人話を聞き続けた。

 津波で親友を亡くした生徒。避難で学校を転々としいじめられ続け死のうと思った生徒。避難で母親と別々に暮らし、体調を崩しながらも「心配するから父には言わないで」と言う生徒。抱える事情はみんな違った。何かのきっかけで震災当時の状況がよみがえり、パニックになる生徒もいた。不安やストレスが子どもたちの心身をむしばんでいた。

◆「ぽつりぽつり…話を聞く人がいれば、前に進める」

 「ぽつりぽつりと話し始め、何度か話すうちに落ちつく子も。話を聞いてくれる人がいることが大事。自分の気持ちを外に出せた子は今、前に進めている」と、井戸川さんは話す。

 震災前から相馬市で個人塾を開く竹島一誠さん(48)は、避難所を回ったとき、生活や仕事を心配する親の傍らでゲームをする子どもたちの姿が気になり、避難所で勉強を見たり遊ばせたりした。「塾やらないの?」と言われ、3週間ほどで塾も再開した。

初開催の三春町の会場では、自由発言の場で多くの体験が語られた=モニタリングポストの継続配置を求める市民の会・三春提供

初開催の三春町の会場では、自由発言の場で多くの体験が語られた=モニタリングポストの継続配置を求める市民の会・三春提供

 「今気になるのは思い切ったチャレンジをする子が減ったこと」と竹島さん。地元の進学校でも、国公立大や東京の私立大を受ける生徒が減ったという。背景には震災後、子どもを近くに置きたがる親の抑制もあるとみる。「親は子どもが失敗しても平気だと突き放す覚悟も必要だが、臆病になっている親が増えている」

 スクールソーシャルワーカーの鴻巣麻里香さん(44)は子どもが安心して駆け込める居場所づくりをしてきた。「子どもは大人に決めつけられたり、話を聞いてもらえないことで尊厳を削られたり、自分が苦しむ理由を話せないでいたりする。この子を苦しめているのは何だろうと、子どもたちにまなざしを重ねることが大事」と語った。

◆心配なのは語る場がなかった子どもたちの今後

「気になるのは、語る場が無かった若者たちの今後」と話す蟻塚亮二医師=福島県相馬市で

「気になるのは、語る場が無かった若者たちの今後」と話す蟻塚亮二医師=福島県相馬市で

 会を主催した「震災ストレス研究会」代表で精神科医の蟻塚(ありつか)亮二医師(76)は、2013年から相馬市で診療を続けてきた。今一番心配なのは、震災後、語る場がなかった子どもたちの今後。文部科学省や福島県のデータで児童虐待の件数を見ると、福島は震災後5年間で3.7倍となり、全国の2.0倍と比べ増え方が大きい。いじめの認知件数にいたっては5年で11.7倍と全国の4.6倍の増加割合を大きく上回った。

 「虐待の中で特に心理的虐待が大きく伸びているのは、震災後に子どもの育つ家庭や地域の環境が荒れているから。若者の自殺も増えている。故郷喪失、避難先を転々としての転校、家庭内の対立は子どもたちの心の健康を悪化させる」

 いつ故郷に戻れるか分からない不確実さや、震災前の将来設計を失い将来が見えないことは、大人を不安にしたが、子どもたちも不安にし、将来したいことや目標のない子どもが、蟻塚医師の患者にもみられる。

◆「震災は建物だけでなく人と人の関係も壊した」

 震災は建物を壊すだけでなく、人と人の関係も破壊したと蟻塚医師はいう。「つらい体験の克服には、悲しむことが欠かせない。それには話を聞き、一緒に悲しんでくれる人が必要。何よりも聞く側が『そんな大変な体験をしたのによくここまで生きてきた』と相手を尊敬する姿勢が大切」

 11月に初めて「おらもしゃべってみっが」が開かれた三春町では、本番に先だち開かれた会で、今まで語れなかった体験を話し、泣けるようになった女性もいた。蟻塚医師は願う。「つらい体験を心に閉じ込めたままでは、何年か後に心的外傷後ストレス障害(PTSD)になる可能性がある。こういう場が広がれば」

◆デスクメモ

 今夏、地元漁業者の理解という約束をほごにして処理水が放出された。圧倒的な反対世論があればできなかっただろうが、震災から12年、記憶が薄れた影響を否めない。風化による世間の無関心・無理解。それは、心の奥底に傷を抱えるかつての子どもたちを再び苦しめる恐れがある。

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